編集者と試練の間
馬車の中。
揺れは穏やかなはずなのに、フェンの身体はまったく落ち着かなかった。
背筋が強張り、膝の上に置いた手が微かに震えている。
(……なんで……なんでこうなった……)
隣に、温もりを感じた。
ルシアだった。
何も言わず、そっとフェンの手を握ってくる。
指先が絡む。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
――だが。
正面の席から、鋭い視線が突き刺さる。
ベルナール伯爵が、その手を見ていた。
キッと睨みつけるような目。
(ひっ……)
フェンは思わず肩をすくめる。
視線を逸らしたいのに、逸らせない。
馬車はやがて、巨大な門の前で止まった。
⸻
大都市、グランセル。
街の中心。
人の流れの中に、異物のようにそびえ立つ領主館。
石造りの壁。
高い塀。
圧倒的な存在感。
三人は、馬車を降りた。
フェンは、地面に足をつけた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
(……もう、限界だ……)
呼吸が浅い。
頭が重い。
そんなフェンの袖を、ルシアが小さく引く。
「……フェン」
声を落とし、囁く。
「……あたしのせいで、ごめんね」
フェンは、一瞬だけ驚いた顔をして――
すぐに、苦笑した。
「いいよ……大丈夫」
本心かどうかは、自分でも分からない。
それでも、そう言うしかなかった。
「……ついてこい」
前を歩きながら、ベルナール伯爵が低く言う。
二人は黙って、その背を追った。
⸻
屋敷の奥。
広いリビングの中央に、巨大な暖炉があった。
ベルナール伯爵は、その前に立つと――
無言で、手をかざす。
次の瞬間。
暖炉の石壁に、淡い光が走った。
浮かび上がる紋章。
――ベルナール家の紋章。
ごご、と低い音を立て、
暖炉が横へと、ゆっくり動く。
その奥に現れたのは――
地下へと続く、石の階段だった。
「……!」
ルシアが、目を見開く。
「パパ!」
「それ……ダンジョン……!?」
振り返り、叫ぶ。
「まさか……ベルナール家の試練を、フェンに受けさせる気なの!?」
ベルナール伯爵は、眉一つ動かさず答えた。
「そうだが?」
ルシアは、一歩前に出る。
「そんなの……!」
「フェン一人で行かせられない!」
「あたしも行く!」
即座に、伯爵は首を横に振った。
「それはできん」
低く、重い声。
「ルシアを守ると言うのなら」
「その程度の覚悟は、見せてもらわねばならん」
「……!」
ルシアの顔から、血の気が引く。
「死ぬかもしれないのよ……!?」
必死に叫ぶ。
「フェンが……!」
その言葉を聞いて――
ベルナール伯爵は、ゆっくりと、怖い顔で言い切った。
「ならそれまでだ」
空気が、凍りついた。
ルシアは、言葉を失う。
「……っ……」
フェンは、反射的にルシアの肩に手を置いた。
震えている。
その震えを、逃がさないように。
「ルシア……」
静かに、しかしはっきりと言う。
「大丈夫」
「どんなに難所でも」
「僕は、絶対にクリアしてみせるよ」
ルシアは、不安そうにフェンを見つめる。
「……フェン……」
その視線を、フェンは真正面から受け止めた。
地下へと続く階段は、想像以上に深かった。
石段を踏みしめるたび、音が重く反響する。
湿った空気。
壁に刻まれた古い傷跡。
三人は、無言のまま降りていった。
やがて――
行き止まりに辿り着く。
そこにあったのは、
人の背丈を遥かに超える、巨大な石扉だった。
表面には、複雑な魔法陣と、ベルナール家の紋章。
明らかに、“普通のダンジョン”ではない。
ベルナール伯爵が、一歩前に出る。
「ここが――ベルナール家の試練の間だ」
低く、重い声。
「ダンジョンレベルは、Aランク」
「そして――」
一瞬、間を置き。
「ここを、一人で行ってもらう」
フェンの喉が、きゅっと鳴った。
ごくり、と唾を飲み込む。
(……Aランク……)
今まで潜ってきたダンジョンとは、次元が違う。
嫌でも、理解できた。
ベルナール伯爵は、ちらりとフェンを見る。
口元に、わずかな笑み。
「なにを怯える」
挑発するように、続けた。
「ケルベロスを倒したお前だ」
「この程度――クリアできるだろう?」
空気が、ぴんと張りつめる。
試すような視線。
逃げ道は、最初からない。
フェンは、深く息を吸った。
拳を、ぎゅっと握りしめる。
「……行きます」
短く、しかし迷いのない声。
「行って……クリアしてきます」
ベルナール伯爵は、何も言わずに頷いた。
その横で――
ルシアが、不安そうにフェンを見つめている。
「フェン……」
引き止めたいのに、言葉が出ない。
フェンは、そんなルシアに気づき、振り返った。
小さく、微笑む。
「……大丈夫」
それだけ言って、再び扉へ向き直る。
巨大な石扉が、低い音を立てて軋み始めた。
ゆっくりと――
闇が、口を開いた。
続く




