優しく痰を絡ませて
翌日から、私の『異世界語マスター計画』がスタートした。
この世界で生きていくための必須スキルだ。
まずは基本的な挨拶から、よく使う単語まで。講師は、専業主婦にして異世界生活二年の先輩――私の姉が担当してくれることになった。
だが――。
「えっとね、これは『ハロー』的なやつ」
「……的なやつ?」
姉の教え方は、なかなかに個性的だった。
これは私が子供の頃、宿題を教えてもらう時もそうだったので分かってはいたことだが……。フィーリング重視の天才肌なのか、それとも私のような凡人の躓きどころが想像しにくいのか。
日本語の教材というものがない以上、姉に頼るしかないのだが、一向に要領を得ない。
「だからね、朝に言う『おはよう』っぽいんだけど、でも時間帯関係なく使えるっていうか。でも夜はまた別の言い方もあって――」
「姉ちゃん、待って。情報量が多くて私の脳がパンクしそう。まずは、その基本の単語を一つだけ、ゆっくり教えてもらえるかな?」
「あ、そうね。えっと――」
姉が、真剣な顔でその言葉を発音する。
「グラーナス」
「ぐ、ぐらーなす……?」
「そうそう! でも『グ』じゃなくて、もっとこう、喉の奥から出すっていうか――」
姉が喉を鳴らすような、うがいのような音を出す。
「グフッ……みたいな?」
「違う違う、もっとこう、優しく――痰を絡ませる感じで」
「……優しく痰を絡ませる? どういう発声法?」
あぁ、痰っていうとおじさんが「カカッ! ペッ」って道端に吐き出してるイメージしかないよ。それに優しさを加えたらどういう構図になるの……。
汚いんだか上品なんだか分からない異世界の深淵に、不安しかない。というか、この調子で本当に言葉を覚えられるのだろうか。私の言語能力への挑戦が始まった。
二日目。
「今日は数字を教えるね」
「おお、数字は大事だね」
数字なら何とかなるだろう。一、二、三――数的な概念は共通のはずだ。
「1は『ケル』、2は『ドゥア』、3は『トリス』――」
「ケル、ドゥア、トリス……」
復唱する。覚えやすい。これはいける。
「4は『クアトル』、5は『キンタ』、6は『チン』、7は『ブラ』――」
「待って」
私は食い気味に手を上げた。
「今、5から7にかけて、なんて言った?」
「え? キンタ、チン、ブラだけど」
「……ごめん。姉ちゃんを責めてるんじゃないんだ。ただ、私の不浄な日本脳が、それをとんでもないフレーズとして認識しちゃうの! 数え役満だよ。567って唱えるたびに、私の正気が削られるんだけど……!」
私は頭を抱えた。奇跡のような下ネタのストレートフラッシュだ。
「でも、こっちでは普通の数字だし。慣れれば平気だよ」
「慣れるかなぁ……。羞恥心で死なない?」
「大丈夫。誰も日本語の意味なんて知らないから」
それはそうだけど、私の品性が死ぬ。異世界の言語、思わぬところに精神的トラップが仕掛けられている。
三日目。
「今日は動詞を教えるね。『食べる』『飲む』『行く』とか」
「おお、実用的だね」
ようやく使えそうな単語が来た。下ネタ数字のショックから立ち直り、私はノートを開く。
「『食べる』は『マンダール』――」
「まんだーる……」
「『飲む』は『ビヴァール』――」
「びヴぁーる……」
「で、『行く』は『イレア』なんだけど、これが時と場合によって変化するの」
「変化?」
「そう。過去形、現在形、未来形で形が変わるの。あと、主語によっても変わる」
「……お?」
嫌な予感がする。
「『私は行く』は『エグ イレオ』、『あなたは行く』は『オマー イレス』、『彼は行く』は『イレ イレト』――」
「ちょ、ちょっと待って」
脳のメモリが悲鳴を上げている。
「さらに、過去形になると『イレヴィ』『イレスティ』『イレット』――」
「姉ちゃん! 一旦ストップ! ちょっと整理させて。活用法をまず書きださないと……」
私は両手を上げた。ギブアップ宣言だ。情報量が多すぎる。処理しきれない。
語学の難しさを、今更ながらに実感する。英語の時制変化ですら赤点ギリギリだったのに、この異世界の言語はさらに複雑怪奇だ。
四日目。
「蒼、発音練習しよ」
「うん……」
既に心が折れかけているが、生きるためにはやるしかない。
「『リベルタ』――自由って意味ね。言ってみて」
「りべるた」
「もっと『ラ行』を強く」
「りべるたっ」
「違う違う、巻き舌で」
「りべrrrるた」
「そうそう! その調子! じゃあ次、『ペルフィクタ』――完璧って意味」
「ぺるふぃ……くた?」
「いい感じ! でも『フィ』はもっと唇を尖らせて」
「ぺるふぃくた」
「そう! じゃあ次、例文いくよ――」
「『ホック エスト カラムス』。これはペンですって意味」
「『これはペンです』。……うん、教科書の王道だね。でも、ごめん、姉ちゃん。これはペンですって言葉多分私一生使わないと思うんだ。ペンだって見れば分かるし、主張する必要がないというか……。今の私、崖っぷちすぎて『もっと死活問題な言葉』から覚えなきゃいけない気がして……。たとえば『それは食べられますか?』とか『私を殺さないで』とか、そういうの教えてくれると嬉しい」
「あぁ、確かにそうかも……ね。じゃあ、もっと実用的なやつ――」
姉が、深呼吸をしてから呪文のような長い単語を発音した。
「コンスティラティウムセスアルカマンティウアティミス」
「……コン、コンスティ……ラ、ラ……え、コン何?」
「コンスティラティウムセスアルカマンティウアティミス。はい、言って」
私はノートを放り出し、全神経を耳に集中させた。
「……コン、コンソメ……ラティ……うむ……セス、あ、アルカ……カマンベール……ティ、ティラミス?」
「違う違う、惜しいよ! コンスティ・ラ・ティ・ウム・セス・アルカ・マン・ティ・ウ・ア・ティ・ミス!」
姉が身を乗り出して、一音ずつ区切って復唱する。私はその口の動きを凝視しながら、縋るような思いで言葉を紡いだ。
「コン、コンスティ……コンソメスープ……セス、カマンベールチーズ、追い込みティラミス……」
「最後の方、全部イタリアンになってるよ!?」
「コン、コンスティ……コン……コン……。……うん、無理ですね」
コンマ一秒、思考を放棄した潔い判断だった。
「こんな早口言葉みたいなのみんな使ってるの?」
「知識人と話す時には必要かも。ちょっと特別な挨拶みたいなもので」
「……ごめんね、せっかく教えてくれたのに。『こんにちは』の発音も怪しいから……まず単語一つ一つ、ちゃんと発音できるように頑張るね」
五日目。
「やっぱりエイランに教えてもらった方がいいかも」
姉がついに白旗を上げた。私の物覚えの悪さと、日本語脳ゆえの混乱に、彼女の優しさも限界が来たらしい。
「うん……そうだよね。ごめん。姉ちゃんが一生懸命やってくれたのは分かってるよ。私がもっと器用だったら良かったんだけど」
「こっちこそごめんね、役に立てなくて」
そんなやり取りを経て、夜。仕事から帰ってきたエイランさんが講師を交代してくれた。
彼はさすが学者。姉の「フィーリング指導」とは打って変わって、論理的で体系的だった。
まず、紙に文字を書いて見せてくれる。この世界の文字。丸い形をした、不思議な記号のような文字。
「この文字が『ア』の音素を表す」
姉が横から通訳してくれる。
「で、これが『ラ』。一つずつ、丁寧に」
「組み合わせると『アラ』――『ある』っていう意味の動詞になる」
「なるほど……」
エイランさんは、発音記号のようなものまで使って、口の形、舌の位置、息の出し方まで理詰めで教えてくれる。さすが言語学のプロ。
「あ、これ、英語の『R』の発音に近いかも」
「そうそう! 蒼、飲み込み早いね」
姉が嬉しそうに言う。
でも――やっぱり難しい。文字は覚えられても、実際に話すとなると、舌が回らない。頭では理解していても、口が追いつかないのだ。何より、二人がかりでこんなに丁寧に教えてくれているのに、満足に吸収できない自分が情けなかった。申し訳なさが、焦りに変わっていく。
「マンダール……マンダオ……ああっ、また活用間違えた! ごめん、もう一回いい?」
みんな自分の時間を削って私を助けてくれているのに、私は「こんにちは」の喉の鳴らし方すら満足にできない。情けなくて、悔しくて、申し訳ない。
それでも、やるしかないのだ。姉ちゃんのように、いつかこの世界の言葉で笑えるようになるために。
六日目。
エイランさんと通訳の姉を添えて勉強中、突然メイドさんが部屋に入ってきた。エイランさんに何か報告している。私には一言も分からない。すると、エイランさんが私の方を見て言った。
「オマー エクサイ」
「……え、今『お前、臭い』って聞こえたんだけど。私そんなに臭う……?」
「違う違う! 『オマー』が『あなたは』、『エクサイ』が『入浴する』なの。お風呂が沸いたって教えてくれたんだよ」
「あ、ああ、良かった……。エイランさんはたまに日本語を混ぜてくれるから、シンプルに悪口を言われたのかと……焦った」
「確かにそう聞こえるね。入浴の意味だから、ある意味合ってる気もするけど」
思わぬところで日本語もどきに遭遇して、変な汗をかいた。姉に「香ばしい」と言われてから、自分の体臭関係のことにかなり敏感になっているのかもしれない。この世界、日本語話者に対するトラップが多すぎる。
七日目。
「クァラートゥス」
「くぁらーとぅす」
「もっと『クァ』を強く」
「くぁらーとぅす!」
エイランさんと姉の指導のもと、必死に食らいつく。
単語は少しずつ覚えてきた。挨拶、数字、基本的な動詞。でも、文章になると途端に分からなくなる。語順が日本語と全然違うのだ。
「この世界の言語は、英語と似て主語、動詞、目的語の順番なの」
「ああ、英語と同じか……」
でも、それに慣れるのが大変だ。
日本語だと「私はリンゴを食べる」で思考する。それを頭の中で一旦英語みたいに組み立て直してから、異世界の単語に変換する――という二段階のコンパイル作業が必要で、会話のスピードに全くついていけない。
「エグ マンダオ ポメラ」
私が言う。『私・食べる・リンゴ』のつもりだ。エイランさんが首を傾げる。
「蒼、『マンダオ』じゃなくて『マンダール』ね。活用が違う」
「ああ、また間違えた……」
動詞の活用。これが本当に厄介だ。さらに、目的語の性別によっても形が変わる場合があるらしい。
「なんで目的語に性別があるの……リンゴにオスもメスもないでしょ」
「この世界の名詞には性別があるの。ドイツ語やフランス語みたいに」
「うわぁ……。プログラミング言語の方がよっぽどシンプルだよ……」
そんなこんなで、私の言語学習は難航を極めた。
単語を覚えても、すぐ忘れる。発音を練習しても、舌が回らない。文法を理解しても、実際の会話では一言も出てこない。こんなに私のために時間を割いてもらっているというのに、本当に申し訳ない。
メイドさんが「グラーナス(おはよう)」と挨拶してくれても、あの「優しく痰を絡ませる」発音が咄嗟にできず、ただ頭を下げるだけ。エイランさんが何か話しかけてくれても、単語の半分も聞き取れなくて、姉に通訳を頼む。
自分が情けなくて、悔しくて、それでも諦められなくて――。
それでも、少しずつ。本当に少しずつだけど、分かる単語が増えていった。
「ありがとう」が言えるようになる。
「美味しい」が伝えられるようになる。
「おやすみ」が言えるようになる。
小さな、本当に小さな前進。これが数日続いた。毎日毎日、朝から晩まで言葉の勉強。エイランさんが仕事に行っている間は姉と復習。彼が帰ってきたら発音チェック。食事の時も、お茶の時も、常に異世界の言葉が飛び交う環境。脳みそが疲弊して、夜にはベッドに倒れ込む。それでも翌朝には、また机に向かう。
この世界で生きていくために。姉に頼りきりにならないために。
いつか、元の世界に帰る手がかりを自分で探せるようになるために。
私の、長い長い言語学習の日々が――始まったと思っていた。
この時までは。




