アルテシア王国、居候はじめます
エイランさんが執務室に戻った後、私は姉と二人で改めてお茶を飲んだ。温かいハーブティーが、ささくれ立った神経を鎮めてくれる。
私は質問攻めにした。この世界のこと、国のこと、文明のこと。これからここで生きていくにあたって、仕様書の確認は必須だ。
姉の説明によると、ここは『アルテシア王国』というらしい。大陸中央部に位置する大国で、周辺諸国にも大きな影響力を持っているとか。
私が唱えた呪文の「アルテシア」は、この国、あるいはこの大陸の名前だったようだ。文明レベルは、地球でいうところの中世から近世ヨーロッパに近い。電気はないが、「魔石」と呼ばれるエネルギー資源があり、それがガスや照明の代わりを果たしている。
ちなみにこの家は、王都からそう遠くない場所にある。馬車で30分ほどの距離だと言っていた。王都の目と鼻の先だ。
「人間以外の種族もいろいろいるんだよ」
「うん、エルフっぽいのとか、獣っぽいのとか見た」
「そう。人間が一番多いけど、エルフ族は魔術に長けていて、獣人族とかドワーフ族は体力があるから労働力として重宝されてる。他にも色々種族はあるけどメジャーどころだとそんな感じかな。政府は人間と他種族の共存を唄ってはいるけど……まあ、差別がないわけじゃないかな……」
姉の表情が少し曇る。地球でも人種で色々そういう問題はあるけど、ここでもないわけではない、と……。
ただ、この国自体は比較的豊かな部類に入るそうだ。王政だが議会制度もあり、法治国家としてそれなりに機能しているらしい。さっき私が放り込まれていた騎士団も、暴力装置ではあるが、一応は法に基づいて運営されているとのこと。
……まあ、身元不明というだけで強制労働させられる時点で、人権意識はお察しだけど。
「さて、難しい話はこれくらいにして」
姉がパンと手を叩いた。
「蒼、お風呂入ろうか。ずっと入れてなかったでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が出そうになった。
お風呂。日本人が愛してやまない、文明の利器。数日間、砂と埃と冷や汗にまみれたこの体を、清めることができる。
「私、臭い?」
「……香ばしい感じ」
「……」
「……わ、悪い意味じゃないよ」
悪い意味に決まってんだろ。
「……入ります。絶対入ります」
姉のPCの検索履歴に「妹 臭い」は刻みたくない。ここにはPCとかないけど。
案内されたバスルームは、私の想像をはるかに超えていた。白い石造りの床に、猫足のバスタブ。蛇口をひねると、魔石で加熱された湯がたっぷりと注がれ、湯気と一緒にフローラルな香りがふわりと立ちのぼる。
服を脱ぎ捨てた。砂まみれのジャージも、下着も。脱ぐという行為だけで、囚人という肩書きから少しずつ解放されていく気がした。
鏡に映る自分の姿と目が合う。肩にかかるかかからないかの黒髪は、砂埃でパサついて艶を失っている。切れ長の琥珀色の瞳。すっと通った鼻は健在みたいなようだ。
これまで容姿に関しては良く言われることが多かったが、正直どうでもいい。私にとっては何のメリットもない。
視線を下げて、息をのんだ。ここ数日で、ずいぶん痩せた。肋骨が浮いている。この痩せ方はさすがにまずい。本当頑張ったよな、私……。
ザブン、と音を立てて湯に身を沈めた。
「…………ふぁぁ」
言葉にならない声が漏れた。
温かい。熱が皮膚から浸透し、凝り固まった筋肉を一本一本解きほぐしていくようだ。石鹸の泡で体を洗う。こびりついた砂、牢屋の匂い、恐怖の記憶。それらを全て洗い流すように、ゴシゴシと擦る。
生き返る。
私は人間だ。家畜でも囚人でもなく、お風呂に入って清潔を保つ権利のある人間なんだ。湯船の中で手足を見つめる。あちこちに擦り傷や青あざができている。採掘場での労働の勲章だ。痛むけれど、清潔になった今なら、これも治る傷だと思える。
お風呂から上がると、姉が用意してくれた着替えに袖を通した。
肌触りの良い木綿のワンピース。淡い空色で、刺繍が施されている。姉の服だ。サイズは少しゆったりしているが、問題なく着られる。
鏡を見る。そこに映っているのは、ジャージ姿の不審者ではなく、この世界の住人のような恰好をした私だった。
コスプレみたいだ。
なんだか、自分の中身だけが追いついていない気がして、少し落ち着かない。
「ちょっと狭いけど、この部屋を使ってくれる?」
案内された客間を見て、私は首を横に振った。
「いやいや、広すぎるでしょ」
ベッドがあり、書き物机があり、立派な本棚まである。窓も大きく、上質なベルベットのカーテンがかかっている。「狭い」なんてとんでもない。牢屋に比べたら王族のスイートルームだ。というか、私が日本で住んでいた1Kの部屋より広いんですが。
「あまり人を泊めたりってことがなかったから……不便かけてごめんね」
「そんなそんな、こちらこそ、ごめん……」
むしろ申し訳ないのはこっちだ。新婚家庭に、いきなり住所不定無職の妹が転がり込んだのだ。迷惑極まりない。
「何か必要なものがあったら言ってね。今日はゆっくり休んで」
「……ありがとう、姉ちゃん」
姉が部屋を出ていく。私はふかふかのベッドにダイブした。
マットレスが体を優しく受け止めてくれる。枕も羽毛のように柔らかい。
天井を見上げる。知らない天井だ。ひどく疲れた……。身体だけじゃない。心も、すり減っている。
ひとまずあの地獄のような毎日からは解放された。それは間違いない。
でも――この先はどうすれば?
ずっとここにいるわけにはいかない。姉には姉の、エイランさんとの生活がある。そこに異物である妹が居候し続けるなんて、邪魔でしかない。考え始めると、不安が黒い波のように押し寄せてくる。
コンコン――。
ノックの音で、思考が中断された。
ドアを開けると、姉がいた。少しはにかんだような顔で、手に何かを持っている。
「どうしたの?」
「あの……これ」
姉が差し出した掌の上で、銀色のものが鈍く光っていた。
私は息を呑んだ。
「……あ」
アルミ玉だ。
私が一週間かけて、ハンマーで叩き、やすりで磨き上げ、魂を込めて作った、あの完全球体。
「アルミ玉、ここ《異世界》に持ってこられたの?」
「持ってきたっていうか……たまたま、だよ。気分転換に部屋を片づけてたら、蒼が作ったアルミ玉が出てきたから、なんとなく、そのままポケットに入れっぱなしにしてて」
姉は照れくさそうに肩をすくめる。
「それで、ノリで黒魔術に挑戦したら……アルテシアに来てた。ポケットの中のこれも一緒に」
「なるほど……」
胸の奥が、すとんと静まった。
つまり、転移の際に術者が身につけているもの、あるいは手元にあるものは、一緒に移動してしまうということだ。裸で転移することにならなかったのは良かった。
けれど、そこで一つの矛盾に気づく。
「……ねぇ、あの黒い本《Black Magic》は?」
「あ、そういえば……持ってないよ。蒼は私が使った本をそのまま使ってここに来たんだよね?」
「そうそう。なんらかの仕組みで地球にとどまる仕様なのかもね」
……あれが手元にあっても、どうせ帰還方法は書いていなかったし、今の私には枕くらいにしかならないけれど。
「まあでもアルミ玉が無事でよかった……」
「大事にしてたんだよ、ここに来てからずっと。蒼が作ったものだから。これを見ると、蒼と繋がっている気がして……蒼のこと思い出さない日はなかったよ」
胸が詰まる。
「……ありがと」
「はい、返却。……あ、でも、たまには貸してね?」
「うん」
受け取ったアルミ玉はずっしりと重く、そして姉の体温で温かかった。
「あと、これ」
姉がもう一つ、何かを差し出してきた。
ふにゃふにゃとした素材のもの。二つ。
オレンジ色の、低反発スポンジのような――。
「……なにこれ?」
「あのね、蒼。これエイランが研究で作った試作品なんだけど……」
姉が少し顔を赤らめて、もじもじと言った。
「私たち、今、その……妊活中なの」
「……」
一瞬、脳の処理が追いつかなかった。
妊活。
つまり、子作り。
つまり、夜の営み。
「そういうことデスカ」
理解した。これは耳栓だ。この世界の素材で作られた、お手製の耳栓。
「うん……その、こっちの家、石造りだけど意外と音響が良くて……壁もそんなに防音性高くなくて……」
「了解です」
私は食い気味に答え、即座にそれらを耳の穴にねじ込んだ。
ぎゅっと押し込む。遮音性、最重要事項。聞きたくない。姉の情事など、天地がひっくり返っても聞きたくない。
「ごめんね、本当に。気を使わせちゃって」
「い、いえ、お構いなく……。私は石のように眠りますので」
姉が申し訳なさそうに、でもどこか幸せそうなオーラを纏って部屋を出ていく。
私はベッドに倒れ込んだ。
――だめだ。
耳栓越しでも、気配を感じてしまう。……普通妊活中だからって妹に耳栓渡す?? あからさますぎるだろ。しかも作ったのエイランさんとか、なんのために? 専門は言語とか遺跡じゃないの? 耳栓なんで作るんだよ。……まさかこういう時の来客用!? 泊まった人全員にこれ渡す気か? 頭おかしいだろ!
姉ちゃんの足音が隣の部屋――夫婦の寝室へと消えていく。ドアが閉まる音。耳栓貫通して聞こえてくるほどデカい声出すわけじゃないだろうけど、想像力が勝手に補完してしまう。
まじで勘弁してくれ。新婚パワーやばすぎる。
というか、エイランさん、あんな真面目そうな顔して、やることやってんすね……。いや、考えるのやめよう。実の姉の性生活について思考を巡らせるなんて、精神衛生上最悪だ。
でも。
これが現実なんだな、って改めて突きつけられる。姉には、愛する夫がいる。新しい家族を作ろうとしている。この家は「姉の家」であって、私の家じゃない。きっと子供ができたら、今私が寝ているこの客間が、子供部屋になるんだろう。
そこには、異世界から来たニートの叔母さんの居場所はない。姉は幸せそうだった。私には――何もない。仕事も、家も、お金も。言葉すら通じない。元の世界に帰る手段も分からない。SEとしてのキャリアも、貯金も、全部日本に置いてきた。今の私は、レベル1の村人以下だ。
あぁ、やっぱり。この世界で働いて、稼いで、独り立ちしないといけない。姉の好意に甘え続けるわけにはいかない。お荷物になりたくない。絶対に。
そして――元の世界に戻るための手がかりを探さないと。
ここにはコンピュータはない。けれど、プログラマーとしてのスキル――論理的思考、構造設計、トラブルシューティング、最適化――これらは、この世界でも役立つはずだ。
でも、そのためには、いずれにせよ言語を理解しないとどうにもならない。
まず言葉を学習しなければ……。でも、どれくらいかかるんだろう。一年? 二年?
姉はエイランさんという専属の教師がいて二年かかった。私にそんな才能があるだろうか。学生時代、英語の成績は赤点ギリギリだった私が。焦りが募る。不安が膨らむ。
耳栓をした耳の奥で、自分の心臓の音だけが大きく響く。天井を見つめながら、私は小さく呟いた。
「おーい。神様? あのね、助けてくださってありがとうございます、姉にも会えましたおかげさまで。でもさ、これから先も思ったよりハードそうなんですけど? 転生して俺最強なんて夢物語……なんだろ、嘘つくのやめてもらって良いですか? そういう統計あるんですか? それってあなたの願望ですよね? もし神様が『異世界に来れば誰でも無双できる』ってデータ持ってるなら、今すぐエビデンス出してほしいんですけど」
誰もいない部屋に、虚しく声が響く。
「チート能力は? せめて言葉が自動翻訳されるスキルくらいくれても良くない? 私の知ってる異世界ものは、みんな言語に困った素振りなんてしてなかったぞ! 普通に日本語で会話してましたが? ご都合主義どこ行ったんだよ!」
答えは、もちろん返ってこない。
静かな部屋。そして――気のせいか、隣の部屋から、かすかに衣擦れのような、幸せそうな気配が漏れ聞こえてくる気がした。
「……ノイズキャンセリング機能付きのイヤホン何処――」
私はアルミ玉を枕元に置き、頭から布団をかぶって、現実から耳を塞ぐことにした。
明日から、新しい生活が始まる。不安しかない。でも、前に進むしかない。そう自分に言い聞かせながら、私は強く目を閉じた。




