冷たい牢屋と腹下し
……どれくらい時間が経過したのか、体内時計は完全に狂っていた。
とにかく、牢屋は寒い。
石造りの床は地下水を吸ったように湿っていて、座っているだけで尻から体温を根こそぎ奪っていく。壁に背中を預けようにも、触れれば指先が貼り付きそうなほど冷たい。
そして、匂い。
獣の排泄物と、湿った藁、そして微かな鉄錆のような血の匂い。それらが混ざり合った強烈なアンモニア臭が鼻腔を犯す。呼吸をするたびに、喉の奥が焼けるような不快感がある。口には粘着質の布テープが何重にも巻かれ、両手は後ろ手に回されて金属製の手錠で固定されている。
呼吸は鼻だけ。鼻が詰まったら死ぬ。その単純かつ絶対的な恐怖が、常に首元に刃物を突きつけられているようなストレスとなって精神を削る。
心臓はずっと、警告音のような早鐘を打ち続けている。私はただ、寒さと空腹、そして未知への恐怖に耐えながら、膝を抱えてうずくまるしかなかった。
――なんで、こんなことに。
思考のループが止まらない。砂漠で目覚め、女神のような女性に水を恵まれ、街にたどり着いたと思ったら、問答無用で逮捕。そして投獄。
理由が分からない。
私が言葉を話せないから? 明らかに異国の容姿をしているから? それとも、このジャージ姿がこの国では「公序良俗に反する猥褻物」とでもみなされたのか?
いや、門番たちのあの目。あれは単なる不審者を見る目ではなかった。もっとこう、獲物を見るような、あるいは――爆発物を警戒するような、張り詰めた目だった。
窓のない石牢。光源は通路にある松明の揺らめきだけ。時間の感覚が溶けていく。数時間なのか、丸一日なのか。
喉の渇きが再び鎌首をもたげてきた。砂漠で死ぬバッドエンドは回避したが、今度は獄中で干からびるエンドか。私が一体何をしたって言うんだよ。
その時――通路の奥から、硬質な靴音が響いてきた。
コツ、コツ、コツ。
石畳を叩く、規律正しいリズム。見回りの兵士の雑な足音とは違う。もっと理性的で、権威的な響きだ。足音は徐々に近づき、鉄格子を挟んだ目の前で止まった。
現れたのは、あからさまに「地位の高い」男だった。
年齢は四十代半ばほどだろうか。白髪交じりの髪を撫でつけ、銀縁の眼鏡のようなものをかけている。身にまとっているのは、白銀の刺繍が施された黒いロングコート。仕立てが良い。胸元には金の鎖と、鷲を模したような紋章が輝いている。
軍人というよりは、文官――それも、かなり冷徹な実務家といった風情だ。その背後には、長槍を構えた二人の衛兵が、石像のように控えている。
男は冷ややかな瞳で、檻の中の私を見下ろした。
まるで実験動物を観察するように、頭の先からつま先までをじっくりと舐めるように視線を這わせる。
彼は無言で顎をしゃくった。
衛兵の一人が手際よく鍵を開け、ガチャリと重い金属音が響く。男はためらいなく牢の中に入ってくると、革手袋をはめた手で私の顎を掴み、ぐいと上を向かせた。
革の匂いと、微かな香水の匂い。至近距離で見ると、その瞳は硝子細工のように無機質だった。何をされるか分からない恐怖で、身体が石のように固まる。呼吸が浅くなる。
男は何かを言った。
低く、抑揚のない声。問いかけのようでもあり、確認のようでもある。だが、単語の一つも理解できない。
男は私の反応を待っている。私の瞳孔の動き、呼吸の乱れ、筋肉の強張り――それら全てを観察しているようだった。
まばたきを繰り返すことしかできない。
男はしばらく私の目を見つめ続けていたが、やがて乱暴に口元のテープを剥がした。
ベリッ。
「っ……!!」
皮膚が持っていかれる激痛。悲鳴を上げる間もなく、男は懐から一枚の紙片を取り出し、私の目の前に突きつけた。いや、紙ではない。獣の皮を薄く加工した、羊皮紙だ。
そこには、羽根ペンで書かれたと思しき、複雑な図形と文字の羅列があった。男は指先でその文字をトントンと叩き、私に何かを促す。
「これを読め」とでも言っているのだろうか。それとも「この暗号に見覚えがあるか」と聞いているのか。
文字……なんだろうけど、私にはミミズが這った跡か、子供の落書きにしか見えない。アルファベットでも、アラビア文字でも、漢字でもない。知ってる文字が、一つもない。
私は首を激しく横に振り、「分からない」「読めない」とジェスチャーで伝えた。
男は目を細める。まるで私が「読めないふりをしている」かどうかを見極めるかのように。
数秒の沈黙。
男は「ふぅ」と短く息を吐き、羊皮紙を懐にしまった。徒労だった、というような顔だ。
彼が指を鳴らすと、背後の衛兵が動いた。私の二の腕を掴み、無理やり立たせる。
立ち上がった瞬間、膝の力が抜けた。砂漠を歩き通した疲労と、長時間拘束されていた痺れで、足が棒のようだ。ガクリと崩れそうになる身体を、衛兵が無造作に吊り上げる。
「っ……はぁ、ぁ……」
男が近づいてくる。顔を近づけ、私の目を覗き込みながら、再び何かを口にした。
今度は、違う言語のような響きだ。少し流暢で、歌うようなイントネーション。
反応がないと見ると、また別の言葉。今度は喉を鳴らすような硬い響き。
――ああ、なるほど。
こいつ、私がどこの国の言葉なら反応するか、試してるんだ。
鎌をかけている。私がどこの国の者なのか、あるいはどこの所属なのかを特定するために。
だけど残念。私は地球という星の、日本という島国の、ただのSEだ。
男は苛立ちを隠そうともせず、私を睨みつけた。期待するような目。自白を、あるいはボロが出るのを待っている目。あまりの理不尽さと、終わらない緊張感、そして生理的な不快感。
私のSEとしての堪忍袋の緒が、プツンと切れた。
「……ボケが」
私は精一杯の愛想笑いを浮かべて、そう口にした。
日本語だ。どうせ通じない。なら、何と言っても同じだ。
男の眉がピクリと動く。未知の言語に反応したのか、それとも私の笑顔に違和感を覚えたのか。
「カス」
もう一度、にっこりと笑って言ってやった。
目尻を下げ、口角を上げ、聖母のような慈愛に満ちた表情で、最低の暴言を吐く。
やってられるか。いきなり捕まえて、縛り上げて、尋問ごっこかよ。こっちは飯も食ってないし、トイレも行ってないし、家に帰りたいんだよ。
男はしばらく私を凝視していたが、やがてその瞳から警戒の色がわずかに薄れた。
こいつは工作員ではない――狂人か、あるいは本当にただの無知な漂流者だ。そう判断したのかもしれない。
彼は溜息をつくと、衛兵に目配せをして私の拘束を解かせた。自由になった腕が、血流の再開と共にジンジンと熱を持つ。男は腰のポーチから、何かを取り出した。
黒っぽい、石のように固そうな塊。パンだ。そして、革製の水袋。男はそれを無造作に私へ放った。
慌てて受け取る。毒入りか? 自白剤入りか? 警戒すべきところだが、私の本能が理性をねじ伏せた。
パンにかじりつく。
ガリッ、と音がしそうなほど固い。味は酸味が強く、決して美味しいものではない。けれど、今の私にはミシュラン三ツ星のディナーより輝いて見えた。
穀物の香り。唾液が溢れ出る。勢いよくむしゃぶりつき、水袋に口をつけて流し込む。水は少し泥臭かったが、カラカラの細胞に染み渡る聖水だった。
生き返る。喉が潤い、胃に固形物が落ちる感覚。それだけで、涙が出そうになる。
「……うめぇ」
あ、ボケとかカスとか言ってごめん、マジで。
食べ物くれる人に悪い人はいないって、おばあちゃんも言ってた。いや、こいつが私をここに閉じ込めた張本人なんだろうけど。私が貪るように食べる様子を、男は冷ややかに観察していた。
そして少しした後、彼は無言で背を向け、牢の外へと出て行った。ガチャン、と再び無慈悲な施錠音が響く。
男と衛兵の足音が遠ざかっていく。私はその場にへたり込んだ。
――ここを出しては、くれないのかよ。
私が「カス」とか言った報いですかね、これ。いや、相手には意味分かってないはずだけど。
でも、拘束は解かれた。殺されもしなかった。
「とりあえず生かしておく価値はある、あるいは殺すほど危険ではない」という判断を下されたのだろうか。
今、何時なんだろう。
お腹が満たされると、急激な睡魔が――いや、睡魔よりも先に、下腹部に雷が落ちたような衝撃が襲ってきた。
「うぐっ……!?」
ギュルルルッ、と腹の虫が暴動を起こしたような音が鳴り響く。脂汗が滲み出る。なんだ、この差し込むような痛みは。
……きっとストレスだ。異世界に放り出され、わけも分からず捕まり、命の危険に晒された極限状態。私のメンタルより先に、胃腸の方が悲鳴を上げたに違いない。
部屋の隅には、申し訳程度の「穴」が開いている。トイレだ。プライバシーもへったくれもない、ただの穴。
屈辱的だが、背に腹は代えられない――爆発寸前だ。
誰も見ていないことを確認し、私は半泣きでそこで用を足した。あまりの惨めさと、文明社会からの転落ぶりに、腹痛に耐えながら乾いた笑いが出る。
なんとか嵐が過ぎ去り、用を済ませると、部屋の隅にある薄汚れた毛布の上に横になった。
藁の上に布が一枚敷かれているだけの、粗末なベッド。毛布は薄く、カビ臭い。
それでも。
まあ、砂漠で寝るよりは幾分かマシか――。
そう自分に言い聞かせ、私は目を閉じた。明日生き残れるかも分からないけど。
石床の冷たさが伝わってくる。未来への不安は消えない。けれど、今は思考を停止させるしかなかった。
意識が、深い闇へと沈んでいく。




