異世界語が通じないので捕まりました
「……うぅ」
暴力的なまでの眩しさで、私は目を細めた。
夜が明けていた。
世界は容赦なく金色に塗り替えられ、太陽が地平線の上から傲慢に顔を出している。
熱い。皮膚の上をじりじりと焦がすような光線が、物理的な圧力を持って降り注いでいる。
「生きてる」
――夢だと思いたかった。
けれど、口の中のじゃりつく砂の感触が、丸くなって寝たせいでバキバキに固まった背中の痛みが、あまりにも現実的だった。
昨日の夜は極寒の冷蔵庫だったのに、今は灼熱のオーブンの中だ。息を吸うだけで、乾いた熱風が喉の奥を焼く。
見渡す限り、やはり砂漠。朝日に照らされた砂の波紋は、美術品のように美しい黄金色をしていた。
「……あっつ」
額から汗がとめどなく流れ落ちる。スウェットの中が蒸れて気持ち悪い。
身体を起こそうとした瞬間、頭の奥がぐらりと揺れた。視界の端がチカチカと明滅する。おそらく脱水の初期症状だ。喉が張り付くように痛い。唇が干からびてひび割れているのが分かる。
水を……水をくれ……。
ぼやけた意識の中で、昨日見た遠くの光景を思い出した。
――街の灯り。
あれは夢ではなかったはずだ。なら、まだ希望はある。とにかく人のいる場所に――。
足を引きずるように立ち上がる。頭がくらくらして、足元の砂がぐにゃりと歪んで見えた。
空は抜けるように青く、雲ひとつない。だからこそ、逃げ場のない日差しが私を殺しにかかっている。遠くにかすかに見える、蜃気楼のような揺らめきを目印に、私は歩き出した。
一歩進むたびに体力が削られる。私の足跡は、砂の上に浅く刻まれては風に消えていく。まるで、私の存在そのものが風化していくようだった。
「……コンチクショー。まじここどこなん? いい加減にしろや」
誰に向けた言葉か分からない。でも、声に出して悪態をつかないと、自分の気力を保てそうにない。
だから私は、ひび割れた唇を動かし続けた。
水を求めて、街を目指して、ただ前へ――。
どれほど時間が経っただろう。
気がつけば、あの蜃気楼のように遠かった街が、手を伸ばせば届きそうな距離に見えていた。
数百メートル先――高い外壁に囲まれた巨大な都市。
石造りの堅牢な城壁。巨大な門の両脇には、銀の鎧を身にまとった門番らしき人影が立っている。陽光を反射して、鎧の表面がギラギラと光っているのが見えた。
――人がいる。
その顔立ちは明らかに日本人ではなかった。大きな体格に肌は少し浅黒く、彫りが深い。完全に異国の人間だ。
門番の一人がふと視線を上げた気がして、私は咄嗟に近くの岩陰に身を潜めた。心臓がうるさい。早鐘を打っている。
そもそも言葉は通じるのか? 私が行ったところで助けてもらえるのだろうか。敵なのか、味方なのか?
もしあれが蛮族の砦で、見つかった瞬間に矢で射抜かれたら? 考える余裕もなく、ただ呼吸だけが荒くなる。極度の緊張で、喉の渇きが一層ひどくなる。唾液すら出ない。
どうする。出るべきか、隠れるべきか。じっとしていても体の痛みと脱水で死ぬ。出れば殺されるかもしれない。
思考が熱射の中でぐるぐると空回りしていると――。
「……?」
耳に、鈴を転がしたような声が届いた。
驚いて振り返ると、岩の向こうからこちらを見下ろす人影があった。深くフードを被ったひとりの女性だ。
逆光の中でも分かるほど、肌は陶器のように白く、すらりと伸びた長身はモデルのように洗練されている。フードの縁からこぼれているのは、白に近い金色の髪。
そして影の奥で、燃えるような紅い瞳と視線がかち合った。
「……赤い、目?」
その鮮烈な色に、私は乾きも忘れて一瞬息を呑んだ。
溶けたルビーみたいな赤い瞳。綺麗なのに、温度がない。悪役の目の色ですよねこれ……。
彼女は感情の読めない顔で、私の全身をじろりと観察している。彼女は眉をひそめ、短く何かを言った。
聞き取れない――耳慣れない言語。音の並びもイントネーションも、地球のどの言語とも違う気がする。
敵意は……たぶん、ない。ただ、関わり合いになるのを躊躇しているような、品定めするような気配を感じる。喉の奥が張り付いて声が出ない。私は最後の力を振り絞った。
「Water, please……」
英語。とっさに出たが、彼女は怪訝そうに小首をかしげただけだった。
ああ、通じてない。ここは英語すら通じないのか。焦りながら、私は必死に水を飲む仕草をしてみせる。女性はそんな私をしばらく無言で見下ろしていたが、やがて、やれやれとでも言うように深いため息をついた。
次の瞬間、彼女は腰のカバンを探り、金属製の水筒のようなものを取り出して、無造作に突き出してきた。
その拍子に、ふわりと鼻先を甘い香りが掠めた。
砂と乾いた風の匂いしかしないこの灼熱の世界で、そこだけ鮮烈に異質な香り。上品で、どこか薬草や花を煮詰めたような、不思議な香油の匂い。
「……っ」
けれど、今の私にはその香りの正体を考える余裕なんてなかった。
礼儀も遠慮もなく、水筒をひったくるように掴み、口をつけて喉に流し込む。冷たさが食道を通り、胃に落ちていく感覚。
うまい。あぁ、うまい。水ってこんなに美味いものだったのか。
夢中で飲み干した瞬間、呼吸を忘れていたことに気づき、激しくむせた。
彼女は一瞬だけ目を見開き、それから――ため息みたいに息を吐いて、私の背中を軽く撫でた。
……なんだこれ、女神か。
涙と咳でぐしゃぐしゃになりながら、私はようやく呼吸を整える。
けれど、手の中の水筒が軽くなっていることに気づき、血の気が引いた。
――あ。
――やばい。
――空っぽだ。
この人の飲み水、全部飲んじゃった――!?
最悪だ。灼熱の砂漠で他人の貴重な水を奪うって、これ、殺人未遂に近いんじゃないか?
謝罪をしようにも言葉が通じない。私はせめてもの気持ちで空になった水筒を両手で捧げ持ち、深く頭を下げた。土下座したい勢いだった。
女性は、かすかに鼻で笑った。
そして指先をこちらに向け、何かを小声で唱える。
透明な水が噴き出し、空中で一瞬だけ形を変えながら、水筒の中へと吸い込まれていった。
まるで生き物みたいに滑らかで、当たり前みたいに。
私は目を疑った。
「……は?」
女性は満タンになった水筒を軽く振り、もう一度こちらへ差し出してくる。
これっていわゆる異世界名物の魔法……?
いや、そんな。CGでもVRでもない、本物の物理現象としての水生成。質量保存の法則はどうなっている? エネルギー源は?
SEとしての理屈っぽい脳が混乱を起こしたが、今この喉の渇きには勝てない。
私は迷いながらも受け取り、再び一口――そして、また止まらなくなった。
胃の中がたぷたぷになるまで飲み、ようやく息をつく。
女性はそんな私を見て、口の端を優雅に持ち上げ、ふわりと微笑んでみせた。
その笑みはどこか艶やかで、それでいてすべてを見透かすような神秘的な響きを帯びていた。
……本物の女神だ、この人。
どうしよう、ここまでしてもらって、お礼のひとつも言えない。何かお返ししたいのに、何も持っていない。ポケットを探ったが、出てきたのは砂だけだった。
お礼に砂を渡すか? ――「砂漠」の中で? しかも、私の手汗で少し湿った砂を。頭のおかしい奴だと思われるだけだ。
そう考えてうろたえていると、女性はそんな私の様子がおかしかったのか、ふっと口元を緩めた。
嘲笑なのか、それとも気まぐれな優しさなのか。
どちらとも取れるミステリアスな笑みを残し、彼女は無言で踵を返した。
――行ってしまうのか。
私は慌てて、去りゆく背中にもう一度深く頭を下げた。
ちょっと待って、私を置いて行かないでという思いが込み上げてきたが、言葉の通じない異邦人がついて行っても迷惑なだけだ。彼女の親切にこれ以上甘えるわけにはいかない。
女性が去った後、水のおかげで、ようやく頭がはっきりしてきた。
だが次の瞬間、腹が鳴った。ぐぅぅぅぅ、と。ひどく、長く。それも二回。
強烈な空腹感が襲ってきた。
「呪文の効果が切れたのかな……」
効果は一時だって書いてあったもんな。
あれだけ歩いてエネルギーを使い果たした後だ、反動が一気に来たらしい。胃袋が空っぽだと叫んでいる。
とにかく、街に入って食べ物を探さないと。
さっきの人はとても親切だった。言葉は通じないかもしれないが、困っている素振りをしていたら、この街の人たちも何かしら助けてくれるのではないか。
そんな甘い期待を胸に、私は勇気を振り絞り、砂を踏みしめながら門へと近づいた。
視界の中で、銀の鎧が朝日に反射して眩しく光る。
近づくにつれて、門番の輪郭がはっきりしていく。肩幅の広い体格に、顔を覆う無骨な兜。重厚な槍の穂先が、鋭く光っている。
門番のひとりが私を見つけ、何かを叫んだ。低く響く、威圧的な声。言葉はまったく分からないが、歓迎されていないことだけは分かる。
自分の心臓の音ばかりがやけに大きく聞こえる。
「え、えっと……」
必死に両手を上げて、敵意がないことを示そうとする。でも、言葉が出ない。何を言えばいい?
「異世界から来ました、お腹が空いてます」なんて、どう説明するんだ。
それに、もう立っているだけで限界だ。
空腹で頭がぼうっとする。膝が笑う。スマホもない。地図もない。ここがどこかも分からない。
――かわいそうすぎるでしょ? 私。目で訴える。
門番は再び何かを怒鳴った。その口調が、さっきより鋭い。威嚇だ。
次の瞬間、二人目の門番が無言で歩み寄り、私の腕を荒っぽく掴んだ。
「待っ……!」
声を上げたが、腕力の差は圧倒的だった。肩を掴まれ、身体が引きずられる。抵抗しようにも、体力が残っていない。足が砂に沈み、靴下が脱げかけた。
「私は、悪い人じゃ――!」
必死に訴えるように見上げるが、兜の奥の目は無機質で、話を聞く気配など微塵もない。まるで害獣でも駆除するかのような手つきだ。
槍の柄で背中をぐいと押され、そのまま街の中へと連れ込まれた。
――異世界転生した主人公って、最初は大体歓迎されるよね?
「勇者様ですか!?」とか「お待ちしておりました!」とか。
なのに私、しょっぱなから砂漠に放り投げられ、命からがら歩いてきたは良いものの、なんか逮捕っぽいことされてませんか。おかしいだろ、シナリオライター誰だよ。
街の中は、外から想像していた以上に人であふれていた。
肌の黒い人、白い人。耳の尖った人――エルフ? 体毛の濃い人――獣人?
見たことのない恰好の人々が行き交っている。石畳の道、レンガ造りの建物。漂ってくるスパイスの香り。ここはやはり異世界……。
みんな、連行される私を一瞬だけ見て、何かを囁き合う。汚れたジャージ姿の不審者を見る目だ。好奇心、警戒、そして哀れみ。
通り抜けるたび、ざわめきが生まれる。私はただ、さらし者のように引かれるまま歩くしかなかった。
たどり着いたのは、石造りの建物の奥――薄暗い、湿気を帯びた空間。
鉄格子が並び、奥からは水滴の音が絶えず響いている。カビと錆の匂いがした。
「……牢屋?」
答える者はいない。門番は無言で私の口元に粘着テープのような布を貼り、両手を背中に回して拘束具をカチャンと嵌め、そのまま檻の中に押し込んだ。
ガチャン、と重い扉が閉まる。金属が軋む音とともに、外の光が遮断される。
残されたのは、石の冷たさと、自分の心臓の音だけだった。
――異世界転移。
現在のステータス:囚人。
所持金:ゼロ。
所持品:砂まみれのジャージのみ。
スキル:特になし
いきなりハードモードすぎませんか。




