シャバの空気はマジでうまい
翌日の昼下がり。
私はギルドに併設された酒場で、一人どんよりとテーブルに突っ伏していた。
周囲では冒険者たちが酒を酌み交わしている。
笑い声。グラスがぶつかる音。仲間と肩を組む誰か。活気に満ちた空間のはずだった。私の耳には全てが、水槽の外から聞こえる音みたいにくぐもって届く。
昨日は結局、ソロンの家で泥のように眠ってしまった。
目が覚めたのは今朝。ソロンは何も言わずに朝食を出してくれて、「無理はするな」とだけ言って私を送り出した。
……本当に、不器用な人だ。
で、今日。
いつまでも引きこもっているわけにもいかないので、とりあえずギルドに顔を出してみたものの。
ソロンに話を聞いてもらって少し楽になったとはいえ、一度植え付けられた恐怖はそう簡単には拭えない。
――『なぁユズリハ。お前さん、特定のパーティには入ってねぇんだよな?』
――『ならさ、俺たちと組まねぇか?』
ラークの人懐っこい笑顔が、脳裏にフラッシュバックする。
あの時も、こんな風に賑やかな酒場だった。あの時も、私は「仲間ができた」と喜んでいた。
ミナが私の手を握って、「ずっと一緒にいたい」と笑っていた。
――そして、あの結末だ。
……もう、誰も信じられない。
酒場の喧騒が、やけに遠く感じる。
「よう、姉ちゃん。魔法使いなんだろ? 俺らのパーティに入らないか? そんなところに一人でいるなんてよ、勧誘待ちだろ?」
頭上から声がかかる。
顔を上げると、革鎧を着た男がニヤニヤと私を見下ろしていた。胸元のギルドプレートにはBランクの刻印。隣には仲間らしき二人組もいる。
普通の冒険者だ。どこにでもいる、少しチャラついた感じの連中。
でも。
――ラークも、最初はそうだった。
バンダナの下。角は?
袖口から覗く肌。紋様は?
目。笑っている。……本当に?
だめだ。
声をかけてくる人間が、全員、人間の皮を被った何かに見える。
「おい、聞いてるのか? 無視すんなよ」
「……間に合ってます」
「つれないなぁ。そんなこと言わずにさ。……そうだ、姉ちゃん酒はいける口だろ?」
男は勝手に私の向かいの席に座り込み、ドン、と二つのジョッキを置いた。
「エールだ。単純なルールでいこうぜ。『早飲み勝負』だ。俺より早く飲み干せたら、この場の酒代は全部俺が持ってやる」
男は自信満々にニカっと笑った。
「噂で聞いたぜ? お前、この前のギルドの宴会で『よく飲みましたで賞』取ったんだろ? あの万象の大賢者――ソロン様と飲んでたって話じゃねぇか。どこまでやれるか試してやるよ」
……あー、あの時の話か。初めてソロンに弟子入りした夜の話。……飲みすぎてあんまり記憶ないけど。
「その代わり、俺が勝ったら言うことを聞いてもらう。俺らのパーティに入れ。悪い話じゃねぇだろ?」
なるほど。酒の席での余興に見せかけた強引な勧誘か。
私は男と、なみなみと注がれたエールを交互に見た。
……まあいい。パーティに入るのはごめんだけど、飲むだけなら信用も何もいらない。負けたところで「やっぱ無理です」って逃げればいいだけだ。どうせ暇だし、酒がタダで飲めるなら付き合ってやる。
「……あなた持ちなら、やってやりますよ」
私はジョッキを掴んだ。
男も「威勢がいいねぇ」と笑いながらジョッキを構える。
「いくぞ、せーの……」
私はジョッキを傾けた。
喉を開く。味なんてどうでもいい。液体を胃袋に流し込むだけの作業だ。やけ酒でアルコール耐性が上がっている今、この程度のエールはただの水だ。
……あの森の帰り道で食べた、得体の知れない黒い塊の方がまだ味があったな。
――ダンッ!
「……は?」
男が目を見開いて動きを止める。口元からはエールの泡が垂れている。彼のジョッキはまだ半分ほど残っている。
対して、私のジョッキは空っぽだ。
「……ごちそうさまです。次もやります?」
「い、いや……まぐれだろ……次だ、次!」
二回戦。
ダンッ!
三回戦。
ダンッ!
四回戦。
ダンッ!
男の手が止まった。もはや勝負になっていない。
……正直、自分でも引いている。なんで私、Bランク冒険者相手に四連勝してるの?
納品完了の打ち上げ、炎上プロジェクトのやけ酒、先輩SEの「もう一杯」という名の強制イッキ。現代日本のIT業界で鍛えられた「喉を開けて流し込む」技術が、まさかこんなところで活きるとは。
「……ば、バカな……俺はBランクだぞ……? 魔力で身体強化だってしてるのに……」
男は呆然と呟いている。
私は五杯目のエールをゆっくりと味わいながら、冷ややかな目で見据えた。
「……よっわ」
思わず口から漏れた。声に出すつもりはなかったのに。
「なっ……!」
男の顔が赤く染まった。羞恥と怒りでワナワナと震えている。
「て、てめぇ……! 調子乗んなよコラァ! 俺はガルドだぞ!? この界隈じゃ顔が利くんだ!」
男――ガルドが立ち上がり、周囲の客が何事かとこちらを見る。
「だいたいな、噂で聞いたぞ! お前、いくら魔法使いだからってな、あのルミナリエルフ様に不敬な態度を取った世間知らずの馬鹿女らしいじゃねぇか! Cランクのくせに目上を舐めてんじゃねぇ!」
どうやら少し前のギルドの中でのやり取り――私がルミナリエルフに文句を言っていた場面――を見られていたらしい。噂が回るのは早いものだ。
ガルドがドスの利いた声で威圧してくる。普通の新人なら、ここで萎縮して謝るところだろう。
でも、今の私は昨日の今日で、精神のタガが外れている。魔族への恐怖に比べれば、人間のチンピラなんて可愛いものだ。
「はぁ……」
私は深いため息をつき、気だるげに頬杖をついた。
「あなたこそ、私を怒らせたらヤバいですよ?」
「あぁ? なんだと?」
「私……王都の騎士団に捕まってたことあるんで、こう見えて」
私はあえて声を潜め、凄味を利かせて言った。
嘘は言っていない。実際に捕まっていたのだから。
「き、騎士団だと……?」
ガルドの顔色が変わった。
騎士団といえば、この国の治安を守る組織。そこに捕まるということは、相応の罪を犯したということだ。……まあ、私の場合は単なる身元不明者扱いだったんだけど。
「シャバの空気はマジでうまいわー。自由って素晴らしいです」
ニヤリと笑う。
「……ね、姉ちゃん。綺麗な顔して、物騒だな……。な、何して捕まったんだよ」
「さあ? 私にも分からないんですよね」
本当のことだ。気づいたら砂漠にいて、アルテシアの門番に声をかけたら怪しまれ、気づいたら牢屋の中だ。
「は? 分からないって……自分のことだろ?」
「悪いことをした覚えなんてないんですけどね」
「お、おい……」
「この手を血で染めてきました」
私は自分の手を見つめた。採掘場での作業。ツルハシのマメが潰れて血が滲んだ、あの痛みを思い出していたのだ。
だがガルドは、ヒッと短く悲鳴を上げて後ずさった。全部本当のことしか言っていない。
どうせ碌でもない勘違いをしているのだろうけど、面倒くさい。訂正してあげる義理もなければ、気力もない。
「……ま、生きて出てこれただけマシですけどね」
「き、騎士団に捕まって……生きて出てきた……?」
ガルドがガタガタと震え始めた。
「や、やめろ……そんな目で見るな……!」
そんな目?
ああ、きっと今の私の目は、昨日のトラウマで据わっているんだろう。感情が摩耗した、虚ろな目。
彼にとっては、それが「何人も殺してきた者の目」に見えているのかもしれない。
……殺したのは角ウサギくらいなんだけどな。
「くっ……この魔法使い、ただの世間知らずかと思ったら……」
ガルドは青ざめた顔のまま、じりじりと距離を取った。
Bランク冒険者として魔物を狩ることには慣れているだろう。でも、人殺しと関わることには慣れていない。当たり前だ。冒険者は犯罪者じゃない。
彼の頭の中では今、損得勘定が高速回転しているはずだ。
こいつに関わったら面倒なことになる。ギルドに通報されるかもしれない。最悪、消されるかもしれない。勝てる勝てないの問題じゃない。関わること自体がリスクだ――と。
「わ、悪かった……! 絡んですまなかった……!」
「あれ、残念。続き、しないんですか? おごってくれるんでしょ?」
「い、いい! 勘弁してくれ! 約束通り払っとくから!」
ガルドは銀貨を数枚テーブルに叩きつけると、逃げるように酒場を出て行った。
……と思ったら、入口で一度振り返った。
その目には、恐怖とは別の何かが混じっていた。
面倒くさい。でも、今さら愛想よくする気にもなれない。
周囲の冒険者たちも、私を遠巻きに見ながらヒソヒソと話している。「関わらないほうがいい」なんて声に混じって、「最近やけに魔物が増えてないか」「ギルドが規制強化するって噂もある」なんて会話も聞こえた。
……知らないよ。私には関係ない。
「ふう……」
私は残ったエールを煽り、息を吐いた。
これでいい。変な噂が広まったかもしれないけれど、安易に近づいてくる人間はいなくなるだろう。
どいつもこいつも、魔族に見える。……しばらくは一人で修行がてら、簡単なクエストをこなして生計を立てていこう。
私はテーブルの銀貨を回収すると、誰とも目を合わせずに酒場を後にした。
――――――――――――――
翌日からは、地味で孤独なソロ活動の日々が始まった。
「……よし、討伐完了」
森の中で、私はフォレストラットの死骸を見下ろした。
中型犬ほどの大きさがある、凶暴なネズミだ。私は角を切り取って鞄に入れる前に、長い木の枝でつんつんと突く。
「……死んだふりして、近づいたらガブッとかないよね?」
念入りに確認。油断した新人が噛まれる事故は、ギルドの掲示板にもよく注意書きが貼られている。
「反応なし、よし」
私は恐る恐る解体作業に取り掛かる。
……ふと、さっきまで見えていた何かが消えている。
生きている魔物の体に――アルミ玉を持っている時だけ――光の筋のような、淡い模様のようなものが見えることがある。だが死ぬと、もう何も見えない。
……気のせいかもしれない。
森の中、鳥のさえずりすら疑わしい。他の冒険者とすれ違う気配がしたら、私は木の陰に隠れたり、わざと獣道へ逸れたりして接触を避けた。
――ガハハハ! お前、また転んだのかよ!
――うるせぇ! お前が急に止まるからだろ!
遠くから、冒険者パーティの笑い声が聞こえる。
楽しそうだ。仲間と一緒に依頼をこなして、成功を喜び合って、失敗を笑い合って。
……なんだろう、この温度差。冒険者って、もっとこう……ワクワクするもんじゃなかったっけ。仲間と遺跡に潜って、お宝見つけて、宿で乾杯。少なくとも私の知ってる物語の中ではそうだった。ラークとミナの時は――確かに、楽しかった。全部嘘だったけど。
現実はネズミの死体を棒で突いて、鳥の声にビクついて、人影が見えたら茂みに隠れる。
ソロ冒険者、心細すぎない?
……羨ましくなんか、ない。羨ましくなんか。
ソロンは「バディを組みたい相手ができたら連れてこい」と言ってくれた。
でも、今の私には誰かを信じる余裕がない。笑顔で近づいてくる相手ほど、怖い。優しい言葉をかけられるほど、裏があるんじゃないかと疑ってしまう。
ラークとミナの顔が、また浮かぶ。
あの二人も、最初は良い人たちだった。一緒に笑って、一緒に戦って、一緒に乾杯した。
それでも、裏切られた。連れていく相手なんて、きっと永遠にできない。
「……はぁ。疲れる」
ため息が、自分で思ったより深かった。
……認めたくないけど、遠くから聞こえてくる笑い声に、つい足が止まる。でも、あの恐怖をもう一度味わうくらいなら、孤独の方が百倍マシだ。
……まあ、ソロの方が報酬は独り占めできるし。意見の食い違いで揉めることもないし。トイレ行きたい時に気を使わなくていいし。悪いことばかりじゃない。
そう自分に言い聞かせる。
私は泥だらけになりながら、一人黙々と依頼をこなし続けた。
ふと、あのシャンパンゴールドの髪が脳裏をよぎった。「勝手に助かっただけ」――あの冷たい声が、妙に耳に残っている。
……別に、あの人のことを考えたわけじゃない。ただ、今の私には一人で見抜く力がないという事実を突きつけてきたのが、あの人だったというだけだ。
強くなるんだ。いつか、魔族の脅威から自分をちゃんと守れるように。誰も信じなくても、一人で生きていけるようになるまで。
右手の循環の指輪が、微かに温かかった。
そうして、私の人間不信全開なソロ魔法使いとしての生活が、静かに幕を開けた。




