星ゼロの夜
昨夜は緊張でなかなか寝付けなかった。布団の中でガルムを倒すシミュレーションを何度も繰り返していた。
ガルムが二体いたら? 三体いたら? 弱点はどこ? 目? 喉? 股間? ……そもそもガルムに股間はあるのか?
なんで私、深夜三時にガルムの股間について真剣に考えてるんだろう。
気づいたら朝だった。
リュックの中身は五回くらい確認した。
今日から数日間、ギルダロウの森でのガルム討伐任務。初めての泊まり込みクエストだ。
昨日会ったばかりの相手と野宿することになる。社会人時代の社員旅行ですら気が重かったのに、野外で寝泊まりって。……でも、金貨五枚。金がもらえるなら話は別だ。
私はギルドの前で、ラークとミナと待ち合わせをしていた。
「おはよう、ユズリハ!」
元気な声と共に、ラークが大剣を担いで現れた。その後ろには、自分の体くらいありそうな大きなリュックを背負ったミナがちょこちょことついてくる。
「おはようございます、お姉さん。今日もよろしくお願いしますね」
「う、うん。こちらこそ」
ミナがニコニコと微笑む。
昨日と同じ、人懐っこい笑顔。癒やしだ。この笑顔があれば、ガルムなんて怖くない気がしてくる。
「装備は揃えたか?」
「えっと……これくらいで……」
私は自分の荷物を見せた。
寝袋、着替え、干し肉、水筒。最低限の装備だ。唯一の新調品は、店主に「足元だけは金をかけろ」と言われて奮発した革製のブーツ。
「おいおい、それだけかよ」
ラークが呆れつつも、自分のリュックから予備のポーションや包帯を取り出して渡してくれた。
「ありがとう……」
「気にすんなって。俺たちパーティなんだからよ」
ラークがニカっと笑う。
頼れる兄貴分、という雰囲気が全身から溢れている。
「それにしても、金貨五枚って……Cランクの任務だと破格だよね?」
私が尋ねると、ラークの表情が一瞬だけ曇った。
「ああ、今回は特別報酬が上乗せされてるんだ。最近、ギルダロウの森で行方不明者が続出しててな」
「行方不明……」
「まあ、ガルムの仕業だろうけどな。だから早めに討伐しないと、被害が広がる」
ラークは軽く笑ったが、その目は笑っていなかった。
「大丈夫ですよ、お姉さん。お兄ちゃんはとっても強いんです。それに、お姉さんの魔法があれば怖いものなしですよ」
ミナが励ますように私の手をぎゅっと握った。小さいけど、力強い握り方だった。
「さあ、行くぜ! ギルダロウの森まではそこそこ距離があるからな。日が暮れる前に着きたい」
ラークの号令で、私たちは王都を出発した。
ギルダロウの森までの道のりは、思ったより長かった。
「ちょ、ちょっと休憩……」
三つ目の丘を越えたあたりで、私は膝に手をついて息を切らしていた。
「お姉さん、大丈夫ですか?」
「前職……座り仕事だったから……体力が……」
新調したブーツの履き心地は悪くないが、中身の足がもう悲鳴を上げている。
ラークとミナは涼しい顔で待っていた。冒険者の基礎体力、恐るべし。
「あと……どれくらい?」
「んー、半分くらいか?」
「半分!?」
まだ折り返し地点。帰りたい。色んな意味で帰りたい。
ミナに歩き方のコツを教わると少し楽になった。体力ゼロの私に最初に必要だったのは、魔法の修行じゃなくてウォーキングレッスンだったのでは。
道中、ラークが退屈しないようにと色々な冒険譚を語ってくれた。失敗談ばかりで、ミナが「お兄ちゃんやめてよー!」と顔を赤くするたびに腹を抱えて笑った。笑いすぎて体力を消耗するという本末転倒。でも、おかげで足の痛みを少しは忘れられた。
「ねえ、お姉さん」
笑い疲れて休憩している時、ミナが私の隣に座って話しかけてきた。
「お姉さんって、どこから来たんですか? そのお顔、アルテシアの人じゃないですよね?」
「え? あ、えっと……遠くの田舎で……」
「遠くの田舎? どんなところですか?」
ミナが目を輝かせて身を乗り出してくる。
「あ、その……山があって、川があって……夏にはセミが鳴いて、冬にはコタツ……じゃなくて、暖炉を囲むような、普通の村だよ」
「へぇ、そうなんですね。……私たちも田舎の出身なんです。お兄ちゃんと二人で、もっと北の、雪のある村で育ったんです」
「雪国なんだ。どうりで肌が白いわけだ」
私が言うと、ミナは少しだけ表情を曇らせた。
「……でも、もう帰れないんです」
「え?」
「村が……悪い人たちに襲われて。お兄ちゃんと二人で逃げてきたんです」
ミナの声が小さくなる。
「ごめん……辛いこと聞いちゃって」
「いえ、大丈夫です。もう昔のことですから」
ミナがまた笑顔に戻る。
でも、その笑顔はどこか貼り付けたように見えた。
「だから、私たちは強くならなきゃいけないんです。理不尽な力に負けないように。二度と、大切な居場所を奪われないために」
「……うん」
私は頷いた。
帰りたい場所がある私と、帰る場所をなくした二人。
同じ「故郷を離れた者」でも、背負っているものが違いすぎる。私がホームシックで泣き言を並べている間に、この二人は剣を握って生き延びてきたのだ。
……なんだか、丘三つで音を上げた自分が急に恥ずかしくなった。
「休憩終わりだ。そろそろ行くぞ」
ラークの声に、私たちは立ち上がった。
夕暮れ時、私たちはようやくギルダロウの森に到着した。鬱蒼とした木々が空を覆っている。
「今日はここで野営だ。明日の朝、ガルムを探す」
ラークが森の入り口近くの開けた場所を指差した。
私たちは荷物を下ろし、野営の準備を始めた。
ラークが手際よく薪集めを始め、ミナが料理の下ごしらえに取りかかる。
私は……何をすればいいんだろう。とりあえず役に立ちたくて、薪集めを買って出た。
「おう、助かるぜ。乾いた枝を頼む。地面に落ちてるやつな」
乾いた枝。了解。簡単なミッションだ。
意気揚々と森に入り、五分後。両腕いっぱいの枝を抱えて戻ってきた私を見て、ラークが微妙な顔をした。
「……ユズリハ、それ全部生木だぞ」
「え?」
「葉っぱ付いてるだろ。生木は燃やすとすげぇ煙が出んだよ。乾いた枝ってのは、こう……」
ラークが足元から一本の枝を拾い上げた。ポキッと小気味よく折れる。
「パキッと折れるやつ。お前のは……ほら」
私の枝をぐにゃりと曲げて見せた。
……確かに全然違う。でも見た目はほぼ同じなんですが。てか木は木だろ。どんな罠だよ。
「ごめん……取り直して――」
「いいよいいよ、俺が集めるから。ユズリハは火の番でも頼むわ」
「お、火なら任せて!」
ここぞとばかりに手を挙げた。火だ。火なら得意だ。アルミ玉なしでも種火くらいは造作もない。
ミナが組んだ薪に手をかざし、小さな炎を灯した。完璧な着火。
「おお、さすが魔法使い」
「ふふん」
得意げに胸を張った三秒後。さっき私が持ち込んだ生木の山に、焚き火の火の粉が飛んだ。
もうもうと白い煙が立ち上る。
「うわっ!?」
「あー……生木は離れたところに置いとけって言おうとしたんだけどな……」
風が吹くたびに、煙が私を追いかけてくる。左に逃げれば左に。右に逃げれば右に。まるで意思を持っているかのような執念深さだった。
「げほっ……なんで私だけ!?」
「煙は人を追うもんだって昔からよく言うぜ」
「そんな格言いらないんだけど!」
涙目で逃げ回る私を尻目に、ミナが黙って生木を撤去し、風通しの良い位置に焚き火を移してくれた。
私の貢献、実質マイナス。
懲りずに水汲みを志願すれば、小川への道で迷子。完敗だった。
「ユズリハは休んでていいよ。明日、魔法で戦ってもらうんだからさ」
ラークの言葉が、優しさなのかギブアップ宣言なのか分からなかった。
「え、でも……」
「いいんだって。俺たちに任せろ。なんなら、そこで応援の舞でも踊っててくれ」
「応援の舞って何だよ」
ラークが冗談めかして笑う。
申し訳ない気持ちでいっぱいだが、下手に手を出して邪魔になるよりは……。
「お姉さん、スープできましたよ。温まりますから」
ミナが木の器に入ったスープを差し出してくれた。
「ありがとう。……ミナちゃん、料理上手なんだね」
「ふふ、お姉さんは別のことが得意じゃないですか。でも私、お姉さんと一緒にいたら楽しそうです。ずっとお世話してあげたくなっちゃう」
「それ暗に生活力ゼロって言ってない?」
ミナがクスクスと笑う。
「私、お姉さんのことが好きです」
「え?」
「だから、ずっと一緒にいたいなって思って」
……昨日会ったばかりの相手に「好き」だの「ずっと一緒に」だの。前職の営業トークを思い出す。ここまでストレートな好意には、大抵どこかに見積書が隠れているのだ。
――いや、考えすぎか。この子はただ素直なだけだろう。
ミナが私の手を握った。
――冷たい。
焚き火のそばにいるのに、彼女の手だけが氷のように冷えている。
「ミナちゃん、手が冷たいよ。大丈夫?」
「大丈夫です。私、昔から体温が低いんです。冷え性なんですよ」
ミナが微笑む。
その笑顔は、夕暮れの光の中で、どこか儚く見えた。
焚き火を囲んで、私たちは夕食を食べた。ラークが持ってきた干し肉と、ミナが作ったスープ。簡素だけど、温かくて美味しい。
「なぁ、ユズリハ」
ラークが火を見つめながら言った。
「魔法使いになったばっかりなんだろ? よく、こんな危険な仕事を選んだな。……死ぬかもしれないんだぞ?」
ラークの言葉に、私は少し考えた。
「……私、帰りたい場所……いや、行きたい場所があるんだ」
「行きたい場所?」
「うん。遠い、遠い場所。でも、そこに行くためには、強くならなきゃいけない。だから、冒険者になった」
私の言葉に、ラークとミナは顔を見合わせた。
「そっか……。行きたい場所、か」
ラークが何か言いかけて、口をつぐんだ。
炎の明かりに照らされた彼の横顔が、一瞬だけひどく悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「さて、そろそろ寝るか。明日は早いぞ」
ラークが立ち上がった。
「ユズリハは寝てていいよ。見張りは俺たちでやるから」
「え、でも交代制にしませんか? 二人だけじゃ大変だし」
「いいんだ。ユズリハには明日、全力で魔法を撃ってもらわないとな。万全の状態でいてくれ」
ラークが私の肩を優しく押した。
――その手もまた、驚くほど冷たかった。
兄妹そろって冷え性なのだろうか。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
私は寝袋に潜り込んだ。
……狭い。そして地面が硬い。背中に小石が当たって痛い。
寝返りを打とうとしたら、寝袋ごと芋虫のように転がった。態勢を立て直したら、今度は首の角度がおかしい。枕がない。丸めた着替えを枕代わりにしてみたが、三秒で潰れた。
――異世界キャンプ、利用者レビュー。
寝心地:石の上。広さ:棺桶。保温性:外気とほぼ同じ。枕:なし。虫の訪問:あり(許可した覚えはない)。総合評価:星ゼロ。二度と利用しない。
……いや、あの牢屋よりはマシか。あの時はそもそも寝袋すらなかった。上を見ればキリがないが、下を見ても底なしだ。
「……これ、毎回こうなの?」
「慣れるよ」
「慣れる前に背骨が変な形に慣れそうなんだけど……」
ベッドが恋しい。布団が恋しい。コンビニが恋しい。
異世界転移の最大のデメリットは、魔物でも言語の壁でもなく、インフラの欠如だと今さら気づいた。
焚き火の温かさと、長旅の疲れで、すぐに眠気が襲ってきた。
「おやすみなさい、お姉さん」
ミナの優しい声が聞こえた。
私は小さく「おやすみ」と返して、目を閉じた。
――その時。
薄れゆく意識の中で、二人の会話が聞こえた気がした。
「……本当に、やるのか?」
「……仕方ないでしょ。私たちは、そうやって生きてきたんだから」
「……そうだな。……あいつは、いい奴なんだけどな」
何の会話だろう。
でも、もう考える余裕もなく、私は深い眠りに落ちていった。




