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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
冒険者ギルドレビュー

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腹下し同盟

「あのっ、すみません!」



 私はソロンの制止を振り切り、人混みをかき分けて彼女の前に飛び出した。

 心臓が耳元で鳴っている。あの日、死の淵で見た幻。命の恩人。ここで声をかけなければ、一生自分を嫌いになる気がした。

 至近距離で対峙するルミナリエルフの存在感は、遠目で見た時の比ではなかった。砂漠で意識が朦朧としていた時とも違う。覚悟していたはずの圧が、真正面から叩きつけられる。

 息を呑む。本能が膝を震わせる。けれど、次がいつかなんて保証はない。ここで引くわけにはいかなかった。



「……私のこと、覚えていませんか?」



 ルミナリエルフの女性は、流れるような動作で足を止め、ゆっくりと私を見下ろした。

 その赤い瞳には、驚きも喜びも、ましてや慈悲もない。ただ、道端に転がる石ころや、空を舞う埃を眺めるような、完璧なまでの無関心。



「…………」



 無言。沈黙が物理的な重圧となって、私の肩にのしかかる。



「ほら、あの……少し前に、砂漠で行き倒れていた私に……水をくださった……」


「……あぁ」



 彼女はわずかに目を細めた。記憶の引き出しを一つ開けたらしい。しかし、氷のような表情は一ミリも動かない。



「死にかけていた、人間……」


「そうです! あの時はお水を恵んでくださって、本当にありがとうございました。おかげで命拾いしました。あそこで死んでたら、今こうして立って笑うこともできなかったので……」



 私は腰を折り、深々と頭を下げた。

 本来なら、異世界の最高級スイーツの一つでも持参して膝をつくべき場面だ。今の私には、精一杯の感謝を込めた言葉しか持っていないけれど。それでも、この「ありがとう」だけは届けたかった。

 しかし、返ってきたのは、感謝の余韻を切り裂く冷徹な拒絶だった。



「別に……」


「え?」


「そこ、どいてくれる? 邪魔」



 耳を疑った。

 彼女は私を一瞥しただけで、再び歩き出そうとする。目すら合わせず、まるで汚物でも避けるかのような足取り。

 ……なんなの、その態度。

 いや、分かってる。命の恩人だ。種族も実力も、冒険者としての格も桁違いの相手だ。たとえ態度が悪くても、私が生きているのは彼女のおかげだ。これ以上しつこくするのは迷惑かもしれない。

 膨らみきっていた純粋な感謝の念に、どろりとした不快感が混ざり始める。

 ――でも。

 このまま引き下がったら、私は一生この瞬間を後悔する。「ありがとう」は言った。でもあの反応じゃ、届いたうちに入らない。中途半端な気持ちを抱えて生きていくことになる。

 それだけは、嫌だ。



「……あの、今すぐ恩返しができるわけじゃないんですけど」



 私は奥歯を噛みしめ、逃げようとする彼女の背中に、最後の一線を保った声を絞り出した。



「いつか必ずお礼をさせてください。……これでも、恩を仇で返すような教育は受けていないので。ちゃんと返して、対等になりたいんです」


「お礼?」



 彼女は鼻で笑った。芸術品のような唇が、醜く嘲るように歪む。



「人間ごときが、私に何をしてくれるというの?」



 心臓が跳ねた。

 ごときって……。翻訳魔法は正常だ。意味は分かる。けれど、理解が拒否反応を起こす。



「……低俗。視界に入らないで」



 ――低俗。

 ――視界に入るな。



 落ち着け、私。この人は恩人だ。文化も違えば寿命も違う、エルフなのだ。きっとこれが彼女たちの「普通」なのだ。悪気はない、悪気は……。

 いや、ある。めちゃくちゃある。純度百パーセントの悪意だ。

 周囲の空気が凍りついた。

 酒場を兼ねたギルドの喧騒が消え、冒険者たちが固唾を呑んで見守っている。この絶対的な美貌と、圧倒的な魔力の奔流を前にすれば、普通の人間なら縮み上がって謝罪するだろう。



 でも――。

 プツン。私の中で、何かが音を立てて千切れた。

 牢屋の冷たい石畳の上で、尊厳をズタズタにされながら尻から水を垂れ流した、あの惨めな夜の記憶がフラッシュバックする。

 「人間ごとき」? あぁ、結構ですね。こちとら文明社会から来た現代人なんですよ。礼儀を欠いた相手にまで、へこへこするほどお人好しじゃない。

 感謝のメーターは、今の暴言でマイナス方向に振り切れた。もういい。恩人だろうが高貴なエルフ様だろうが、言うべきことは言う。

 私はこの異世界に来てから、理不尽に耐えてばかりだった。言葉も通じない牢獄に放り込まれ、汚物まみれの床で眠り、看守に蔑まれ、それでも「仕方ない」と飲み込んできた。

 でも、もう限界だ。

 せめてこの一言だけは、吐き出させてもらう。



「……あのさ」



 私は顔を引きつらせた笑みを浮かべ、彼女の背中に声を叩きつけた。



「水をもらったことは感謝してますよ。でもね、一つだけ言わせてください。あの魔法で作った水……そのまま飲ませたのはなんでですか!?」



 ルミナリエルフが眉をひそめて振り返る。その完璧な顔に、初めて「動揺」の影が走った。



「おかげで私、あのあと猛烈にお腹壊したんですけど!!」


「……っ」


「最初はストレスかと思ったんです。でも冷静に考えたら、原因はあの水以外にないんですよ! 壁もない、プライバシーもない石畳のトイレで尻から、もらった水をそのまま出す地獄の夜を過ごした私の気持ち、分かります!? 尊厳とか全部吹き飛んだわ! 感謝半分、恨み半分だよバカヤロー!」



 シーン……。

 ギルド内が、静まり返った。

 冒険者たちが「うわぁ……」という顔で引き、誰かが持っていたジョッキを床に落とした。奥のテーブルでは食事中だった冒険者が、黙ってスプーンを置いた。

 ひそひそ声が背中に刺さる。処刑だの不敬罪だの、穏やかじゃない単語が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにする。

 ソロンが額を押さえて天を仰ぎ、「もう、知らんぞ……」と弱々しく呟いているのが見えた。

 だが、ルミナリエルフの反応は、予想とは正反対のものだった。

 彼女の白い肌がみるみるうちに赤く染まり、その美しい耳の先までもが真っ赤に震えている。



「……うるさいわね、あんた」


「はぁ?」


「私だって……あなたに水を与えたせいで、手持ちの備蓄がなくなったんだけど」



 彼女はバッと顔を背け、忌々しそうに声を上ずらせた。



「そのせいで、私も喉が渇いて……仕方なく、あなたにあげたのと同じ『魔法精錬水』を飲んだ」


「えっ」


「……その後、砂漠を抜けた先の森の中で、私だってあなたと同じ……その、運命を辿ることになった……」



 沈黙。

 先ほどまでの凍りつくような緊張感とは違う、とてつもなく気まずい沈黙がギルドを包み込んだ。

 誰も笑えない。笑ったら殺されるが、それ以上に、話の内容が「高貴」から「排泄」へと急降下したことへの戸惑いが勝っている。

 


 この世のものとは思えない美女が。高潔なるエルフ様が。

 森の茂みで、一人、野……。ダメだ、想像するな。脳が拒絶する。金の髪をなびかせ、優雅なローブをたくし上げて必死に耐えている姿なんて、あってはならない光景だ。

 ……ふと周囲を見る。冒険者たちの目が虚ろだ。全員が同じ光景を脳内再生し、そして全員が後悔している顔をしていた。

 でも、確信した。この人もまた、あの『魔法水の呪い』の犠牲者だったのだ。



「え……あ……なんか、すいません……ほんとに」



 私は急速に冷静になり、深々と謝罪した。

 さっきまでの怒りはどこへやら。そこには、同じ地獄を見た者同士にしか分からない、奇妙な連帯感――「腹下し同盟」としての絆が芽生えていた。



「低俗な、生物……っ!」



 ルミナリエルフは顔を真っ赤にしたまま、殺気よりも恥辱に満ちた瞳で私を睨みつけた。

 そりゃそうだ。黒歴史どころではない。彼女にとっての神話が崩壊した瞬間である。



「で、でも! なんで助けてくれたんですか? 人間なんて、どうでもいいんでしょ? 私に最初の水を渡さなければあなたは――」


「子供に見えた」


「え?」


「……子供にそのまま目の前で野垂れ死なれたら、寝覚めが悪かっただけ」


「子供じゃないんですが」



 ……まあ、確かに。あの時の私は砂まみれのジャージ姿で半分死にかけていた。日本人は幼く見られがちだって聞くし、子供に見えたと言われても、残念ながら反論の余地がない。



「……勘違いしないで。慈悲でもなんでもないから」


「何そのテンプレ。ツンデレかよ。素直にどういたしましても言えないの?」



 私が呟いた日本語が翻訳魔法でどう変換されたかは知らない。たぶん「素直じゃない」くらいの意味で伝わったと思いたい。

 だが、周囲の冒険者たちが爆発した。



「おい貴様! ルミナリエルフ様になんて口を利くんだ!」


「失礼だぞ! 謝れ下等生物!」


「エルフ様に近づくな! 穢らわしい!」



 男たちが拳を握って詰め寄ってくる。彼らにとっての女神が、ポッと出の娘に下痢トークで詰められ、「ツンデレ」呼ばわりされている。彼らの信仰心がそれを許さないのだ。

 数人の男が私に掴みかかろうとした、その時。



「下がれ」



 低く、地を這うような冷徹な声。

 ルミナリエルフが一瞥しただけで、男たちは金縛りにあったように動きを止めた。圧倒的な魔圧。彼女はフンと鼻を鳴らし、逃げるように、それでいて優雅さを保とうとしながらギルドの奥へと歩き去った。

 その後ろ姿は、明らかに通常より歩幅が広い。耳の先がまだ赤いのが、後ろからでも分かった。

 受付カウンターで書類をひったくるように受け取ると、彼女は一度もこちらを振り返ることなく、風のようにギルドを去っていった。



「……ふぅ」



 深い溜息が出る。

 お礼を言うはずが、まさかの「排泄事情の共有」という最悪の結果に終わった。

 周囲の冒険者たちが、腫れ物を見るような目でこちらを窺っている。あからさまに距離を取る者、仲間と顔を見合わせて首を振る者。私の社会的信用が、音を立てて崩れていくのが分かった。

 明日から私のあだ名が「下痢女」にならないことを祈るばかりだ。



「……アオイよ」



 ソロンが、まるで不治の病を告げる医師のような遠い目で私の肩に手を置いた。



「お主、せっかくの再会をなぜあのような地獄絵図に変えたのだ……」


「だって! 『人間ごとき』だの『低俗』だの言われたんですよ!? あんなに不愉快な態度取られたら、こっちだって黙ってられないですよ!」


「……まあ、お主らしいと言えばらしいが」



 ソロン先生は力なく笑った。



「だがな、アオイ。あのルミナリエルフ様は、この国でも指折りの実力者だ。敵に回して良い相手ではない。……当分は関わらんようにしておけ」


「敵って……別に喧嘩したわけじゃないですし。ただのトラウマの共有ですよ」


「それを世間では『弱みを握った』と言うのだ」



 確かに。

 高貴なエルフの「森での失敗」をギルド中にぶちまけたのだ。これはもはや、戦争の宣戦布告に近いかもしれない。



「まあ、もう関わることはないと思いますけど……」



 そう言いながらも、私は彼女が去っていった方向をぼんやりと見つめていた。



 あの絶対零度のような瞳に、一瞬だけ宿った「人間らしい」感情。

 顔を真っ赤にして、早足で逃げていく後ろ姿。 

 ……意外と、面白い人なのかもしれない。

 そんな不謹慎な感想と、真っ赤になった耳の先が、頭の片隅に残り続けていた。


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