100円の国宝
それから、私の奇妙な二重生活が始まった。
午前中は町外れの荒れ地で、大声で叫びながら魔法の特訓。
人通りが少ないとはいえ、三十路手前の女が何もない空間に向かって「紅蓮の炎よ!」などと叫び続けるのは、精神的な自傷行為に近い。最初の一週間は、ソロンの前で叫ぶたびに羞恥心で顔から物理的に火が出そうだったが、今では少しだけ慣れてきた。慣れというのは恐ろしいものだ。
喉が枯れ、酸欠で頭がクラクラする毎日だが、成果は確実に出始めていた。
あの羞恥心にまみれた初日から数週間。私の魔法は「しけった線香の煙」を経て、ようやく「キャンプファイヤーの種火」くらいには成長していた。これで無人島に漂着しても、サバイバル番組で見るような木の棒を擦り合わせる苦行なしで焚き火が起こせる。多分。
まだ実戦で使えるレベルではないが、指先に魔力が集まる感覚――あの独特の熱さと、静電気が走るような痺れを、少しずつ掴めるようになってきていた。最初は全く分からなかったこの感覚も、今では意識すれば「スイッチを入れる」ように呼び起こせるようになってきている。
そして午後からは、姉の家に戻り、家事に精を出す。
居候の身としては、ただ飯を食うわけにはいかない。掃除、洗濯、料理の下ごしらえ。メイドが本来はその役割を担うが、彼女たちの邪魔にならない範囲で、いくつかの作業を分担させてもらっている。
無心で手を動かしていると、魔法特訓でオーバーヒートした脳のクールダウンになってちょうどよかった。何より、自分がこの家で「役に立っている」と実感できるのが、今の私には救いだった。
ある日の夕食後、私は洗い物をしながら姉にソロンのことを話した。これまで「ちょっと変わった薬師のおじいさん」と誤魔化していたが、お世話になっている以上、そろそろ正体を知らせておいた方がいいだろうと思ったのだ。
「えっ!? ソロンって……あの伝説の? 蒼に魔法を教えてくれてる先生って、あの大賢者ソロン様のことだったの!?」
姉が目を丸くして、拭いていた皿を取り落としそうになった。隣にいた義兄のエイランまでもが「なんと……」と口を開けて固まっている。
「うん。なんかこっちではすごい有名人らしいね」
「すごいなんてもんじゃないよ! この国の宮廷魔導士たちが束になっても敵わないって言われてる、生きる伝説だよ? そんな人にタダで教えてもらってるの?」
「まぁ、なりゆきで……」
「ダメだよ、ちゃんとお礼をしなきゃ。菓子折り……はこっちにないから、とっておきのワインでも包んで――」
慌てて立ち上がろうとする姉を、私は苦笑いで止めた。姉は昔から義理堅い。こういうところは変わっていない。
「いいよ姉ちゃん、余計なことしなくて。あの人、そういうの嫌いだから」
「でも……言語まで話せるようにしてくれたんでしょ? 一生かかっても返せないご恩じゃない」
「私が地球に帰る道を切り開くことが、先生への一番の恩返しになると思ってる。それに、魔法がちゃんと使えるようになって、一人前になったら私からしっかり恩返しするつもり。……もちろん、姉ちゃんたちにもね」
私がそう言うと、姉は少しだけ寂しそうな、でも嬉しそうな顔をして「そう……頑張ってね」と微笑んだ。
その表情には、複雑な感情が混じっていた。
私がここでずっと暮らすことを望んでいるわけではない、と分かっているからこその笑顔だ。
姉はこの世界での生活を愛しているし、義兄と離れる気なんて更々ない。けれど、二度と日本の家族や友人に会えないことを割り切れるほど薄情でもないのだ。
ふとした瞬間に「お母さんの唐揚げが食べたいな」と漏らしていたり、友人の近況を気にしていたりするのを私は知っている。
こちらの幸せも、あちらへの未練も、どちらも本当の気持ち。だからこそ、行き来できる道を作ることは、姉にとっても救いになるはずだ。
その夜。二階にある自室に戻った私は、ベッドに腰掛けてぼんやりと考えていた。
――魔力の適性について。
姉の魔力適性はゼロだったと聞いた。
姉妹でも、遺伝子のように個体差があるのだろうか。私はソロンのお墨付きで「まずまず(ただし回路は詰まり気味)」、姉は完全な「ゼロ」。
だとしたら、どうしても論理的にひっかかる部分がある。
どうして姉は、あの黒魔術の本を使って、この世界に来ることができたんだ?
私はソロンから貰った、魔力を微弱に増幅させる循環の指輪というブースターをつけて、数週間の特訓の末にようやく小火が出せる程度だ。ソロンによれば、その指輪はミスリル銀という素材でできており、この世界で最も魔力を通しやすい金属らしい。
それでも、この程度なのだ。
あの本が魔力をブーストできるアイテムだったとして、ブーストアイテムは適性ゼロの人にはまるで効果が無いと聞いた。ゼロに何を掛けてもゼロだ。
適性ゼロの人間が、世界を超えるほどの超高負荷な大魔法を発動させるなんて、計算が合わない。
「……なにか、外部要因があった?」
ふと、部屋の隅にある飾り棚に目が止まった。
そこには、私の数少ない私物が飾られている。
買い物の時に市場で買った、妙にリアルな魚の置物。ソロンに付き合わされて飲みまくった結果、ギルドの受付で貰った、「よく飲みましたで賞」と書かれた紙切れ。
そして――銀色に輝く、歪な球体。
「アルミ玉……」
姉が言っていた。あの時、日本で黒魔術の本を試した時、これをポケットに入れていたと。
私は吸い寄せられるように棚へと歩き、左手でその銀色の玉を持ち上げた。
ずっしりと重い。
何千回も、何万回もハンマーで叩き続け、極限まで圧縮された、家庭用アルミホイルの成れの果てだ。表面は鏡のように滑らかに研磨されており、部屋の明かりを鈍く反射している。
ひんやりとした金属の感触。その瞬間、右手の親指にはめた循環の指輪がピリピリと反応した。まるで二つの金属が共鳴しているかのようだ。
この感覚は……?
「……まさかな」
ただのアルミだ。100円ショップで売ってる、料理に使うあれだ。
でも、なんとなく気になった。この妙なピリピリ感は、魔法の訓練で魔力を練り上げる時の、「回路が繋がる」感覚に似ている。
いや、似ているどころじゃない。もっと太いパイプが直結したような、底知れない圧力を感じる。
私は玉を握りしめたまま、窓を開け放ち、窓の外の夜空に向かって軽く、本当に軽く呟いた。
「ファイアボール」
詠唱もなし。イメージも適当。ただの独り言レベルだった。
ドゴォォォォン!!!!
「目が、目がぁぁぁッ!?」
爆音と共に、視界が真っ白に染まった。
手から放たれたのは「火球」なんて生易しいものじゃない。腕全体を巨大な粒子加速器に改造されたような、暴力的なまでの重圧。放たれたのは火炎放射器とナパーム弾を混ぜて暴走させたような、極太の熱線だった。一瞬で周囲の酸素が食い尽くされ、衝撃波で窓ガラスが粉砕寸前まで悲鳴を上げる。私の意志とは無関係に、魔力がアルミ玉という「穴」に吸い込まれていくのが分かった。
熱線は庭の立派な木を幹ごと消し炭にし、その余波だけで庭の芝生を一瞬にして焼き払った。
「やばっ、火事火事火事!!」
一瞬でパニックになる。心臓が早鐘を打つ。まずい、本当にまずい。
燃え広がる炎。火災報知器はない。スプリンクラーもない。どうする、消火器――ない! 水を汲んでくるにも井戸まで遠い!
水! そうだ、昨日習ったばかりの水魔法!
「ウォーター!!」
私はアルミ玉を握ったまま、裏返った声で叫んだ。これも詠唱と呼べるものではない、出したいものをそのまま叫んだ。頭の中は真っ白だ。とにかく火を消さなければ。
ズドォォォォォン!!
今度は、ダムが決壊したような重低音が響いた。
虚空から出現したのは、消防車の放水どころではない、高圧洗浄機を巨大化させたような激流。津波じみた水の壁が、容赦なく押し寄せてくる。
水塊は炎を一瞬で叩き潰し、部屋の中を洗濯機よろしくかき回し、家具をなぎ倒し、私を壁まで押し流した。
「ぶごっ……!?」
メリメリメリッ!
床が悲鳴を上げている。まずい、ここ二階だぞ!? 底が抜ける!!
ガチャッ!
「アオイ様!? 何事ですか!?」
異変を察知した屋敷のメイドが、血相を変えてドアを開けた。
その瞬間。
「あ」
「ひぃえッ!?」
ドアが開いたことで出口を得た水流が、メイドを巻き込んで廊下へと鉄砲水のように噴出した。
二階の廊下をウォータースライダーのごとく滑走し、階段から一階の玄関ホールへと壮大な滝となって流れ落ちていく。
「きゃあああ!? 家が! 家がぁああ!!」
「ごめんなさぁぁぁい!!」
私たちはもみくちゃになりながら階段下のホールまで流された。
そこへ、パジャマ姿の姉と剣を構えた義兄、さらには騒ぎを聞きつけた近所の人たちが松明を持ってなだれ込んでくる。
「火事だー! 火の手が上がったぞー!」
「バケツを持て! ……って、なんだこの水は!?」
「洪水だ! 二階から滝が流れてるぞ!?」
「泥棒か!?」
玄関ホールは、ずぶ濡れの私とメイド、呆然とする姉夫婦、そしてパニックに陥る近隣住民でカオスと化していた。
「蒼!? 大丈夫!!??」
「あ、姉ちゃん……ごめん、ちょっと実験失敗して……」
「実験!? 何の実験!? 失敗ってレベルじゃないよこれぇ!!」
姉の絶叫が夜の住宅街に響き渡った。
数分後。
ご近所さんへの説明と謝罪に追われ、半泣きの姉が頭を下げている最中だった。
空間が歪み、寝巻きにナイトキャップ姿のソロンがいきなり空中に現れた。
「ええい、どういうことだ! お主の循環の指輪から空間がひしゃげるほどの魔力反応があったから来てみれば……なんという有様だ!」
ソロンは瞬き一つで屋敷の惨状を把握すると、溜息混じりに指を鳴らした。
瞬く間に水が引き、焦げた窓枠が再生し、ずぶ濡れだった服が乾いていく。
なんという力……さすが伝説の魔法使いだ。アフターケアも完璧である。ただ、彼らがソロンを「伝説の魔法使い様だ!」と拝み始めて収拾がつかなくなったのは別の話だ。
ひと段落ついた後。私は姉夫婦とメイドと共に、ソロンの前で正座をして小さくなっていた。
「……アオイよ」
「はい……」
「お主に才能があるとは言ったが……この家に対して、何か個人的な恨みでもあったのか?」
「そんなはずございません」
私は床に額をこすりつけんばかりに頭を下げた。なんでここまで良くしてくれている姉や義兄にこんな仕打ちを好きでするんだ。
「姉ちゃん、エイランさん、本当にごめんなさい。居候させてもらってるのに、家を壊すなんて……私、やっぱり出ていくよ」
何が起こったのか自分でも分からなかった。でも結果、私がこのような惨事を引き起こしてしまったことには変わりない。
以前から感じていた「邪魔者」だという思いが、この大惨事で確信に変わってしまった。恩を仇で返すとはこのことだ。
しかし、姉は深くため息をつくと、私の濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭いた。
「馬鹿。家ならソロン様が直してくれたじゃん。怪我がなくてよかったよ、本当に」
「でも……」
「アオイさん」
義兄が優しく声をかけてくれた。
「君が来てから、家の中が賑やかで楽しいんだ。少し……いや、だいぶ刺激的すぎるけどね。出ていくなんて言わないでくれ」
「……うぅ」
二人の優しさが心に沁みる。
私は涙目で顔を上げ、とっさに手元に残っていた「アルミ玉」を差し出した。
「これ……やばいものかもしれない」
「やばい?」
ソロンはこちらに近づき、その玉を拾い上げると、目が鋭く細められた。
「なんだこれは」
彼は玉をしげしげと眺め、指先で触れ、微量の魔力を流し込む。まるで不発弾を扱うような慎重さだ。
その瞬間、ソロンの顔色が変わった。
驚愕、困惑、そして畏怖が入り混じった表情だ。あの大賢者が、口を半開きにして固まっている。
「……おい。これは……ミスリル銀か? いや、違う……だが、この魔力伝導率は……!?」
「はい? いえ、ただのアルミですけど」
「アルミ……? 聞いたことがない名だが……信じられん」
ソロンは震える手で、その銀色の玉を見つめた。その反応の大きさに、私は再び不安になる。
「循環の指輪はミスリル銀で作られておるが、あれは他の金属と混ぜて加工したものだ。それでも国宝級の価値がある。だがこれは……不純物がほとんどない。純度99%以上……いや、ほぼ100%に近いかもしれん」
「はぁ……」
私は生返事をしつつ、自分の親指にはまった指輪を凝視した。
国宝級。城が買える。そんなとんでもない代物を、ソロンさんは「ほれ、託す」と私に気軽にあげちゃったのか。太っ腹すぎるだろ、師匠。一生ついていきます。
その事実に戦慄すると同時に、私の脳裏にはスーパーの陳列棚に並ぶ「アルミホイル」の映像が浮かんでいた。
城が買えるミスリル銀 ≒ 100円のアルミホイル。
この世界の経済概念が、私の頭の中で音を立てて崩壊しかけている。
「この金属は、魔力伝導率云々の次元ではない。『抵抗』が全く存在しないのだ。それどころか、ただそこにあるだけで大気中の魔力を勝手に吸い寄せ、凝縮し続けておる」
「えっ」
「こんな稀少な金属を、これほどの高密度で圧縮し、球体に加工する技術など……ドワーフの国宝級の職人でも不可能だぞ! 一体どこで手に入れた!?」
ソロンの迫力に、私は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。どう説明すればいいんだ、これ。
「……えっと、元の世界の近所のスーパーで、これくらいの箱に入って……百円くらいで……」
「ヒャクエン……?」
「あと、使い道はおにぎりを包んだり、魚を焼くときに敷いたり……」
「国宝級のもので魚を焼くだと!? 貴様の世界の住人は正気か!?」
ソロンの顔が、さらに困惑に染まる。彼の世界観が音を立てて崩れていくのが見えるようだった。
姉も私と同様にポカンとしている。
「それを……お主が……自分で加工したのか?」
「まあ、日本にいた頃、無心でハンマーで叩いてただけなんですけど……」
どうやら私は、とんでもないチートアイテムを、部屋に飾っていたらしい。
姉が適性ゼロで異世界転移できた理由。
それは、この「圧縮アルミホイル玉」という名の、この世界においては神話級の「無限魔力伝導体」を身に着けていたからだった。




