紅蓮の羞恥心
翌日。
二日酔いの頭を抱えながら、私は街外れにある人気のない荒れ地に立っていた。こめかみの辺りで小人が工事を始めたかのようにズキズキと脈打ち、朝日の光が網膜を焼くように眩しい。
昨夜は確か、ソロンの酒癖に付き合わされて記憶が曖昧になった。気がついたら自室のベッドで目覚めていたが、どうやって帰ってきたのか、姉ちゃんたちにどんな醜態を晒したのか、まったく覚えていない。考えるだけで胃が痛い。
いや、飲みすぎたのは事実だが、別に後悔はしていない。むしろ、あれだけ上質なエールを心ゆくまで飲ませてもらえたのは本当にありがたかった。この世界に来てからというもの、まともに酒を飲む機会なんてなかったし。
ただ、翌日の代償がここまで高くつくとは思わなかっただけだ。
目の前には、腕組みをしたソロン先生が仁王立ちしている。爽やかな顔で朝の空気を満喫しているこの老人は、自分が昨夜の加害者であることをまるで忘れているようだった。どんだけ酒強いねんこの爺さん。
「では、始めるぞ」
「お手柔らかにお願いします……頭がガンガンするんで」
「酒は百薬の長だが、飲みすぎれば毒だ。魔法も同じこと。過ぎたる力は身を滅ぼす」
うまいこと言ったみたいな顔をしているが、昨日「ほれ、これも飲め、あれも飲め」と私にジョッキを浴びせてきたのはこの爺さんだ。完全にハメられた。新入社員を歓迎会で潰す上司の手口だ。人の弱みに付け込んで酔わせておいて、翌日に説教とは恐れ入る。
「魔法を発動させるには、明確な『イメージ』と『詠唱』が必要だ。初心者は魔力の制御が未熟ゆえ、言葉に乗せて魔力を形にする必要がある」
「なるほど、言葉ですか」
頭痛と戦いながら、私は必死に脳内メモを取る。ソロンの話は理路整然としていて分かりやすい。きっと、長年人を指導してきた経験があるのだろう。
「うむ。ではまず、基本の火球の魔法だ。手本を見せるゆえ、よく見ておけ」
ソロンは咳払いを一つすると、右手を突き出し、朗々としたバリトンボイスで詠唱を始めた。その姿はまるでシェイクスピア劇の舞台俳優のようで、無駄に堂々としている。
「『我は求め訴える。紅蓮の炎よ、我が手に集いて敵を討て――ファイアボール!』」
ヒュゥゥゥ……。
一陣の風が吹いた。
枯れ草がカサカサと揺れる。
……それだけだった。
火も光も、爆発も起きない。相変わらず乾いた荒れ地が広がっているだけだ。
「……」
「……」
「先生、何も起きてませんけど。不発ですか? 湿気ってました?」
私が半眼で見ると、ソロンはフンと鼻を鳴らした。まるで「愚問だな」とでも言いたげな表情だ。
「馬鹿を言え。私が本気で魔力を込めてみろ。この一帯はクレーターになり、お主は消し炭、ついでに町も半分消し飛んで地図が書き換わるだろう」
なんか昨日、ギルドで「ソロン様が山を消し飛ばした」とか言ってた人いたな……。あれ、比喩表現じゃなかったのか。この人、本当に歩く戦略兵器だったんだ。
「……つまり、魔力を込めずに詠唱の『型』だけ見せたってことですか」
「そうだ。まずは型から入るのだ。ほれ、次はアオイの番だ。復唱せよ!」
「……え、これ言わなきゃダメですか?」
私は頬が引きつるのを感じた。
いや、分かるよ? アニメや漫画でよく見るやつだ。子供の頃は憧れたかもしれない。必殺技を叫んで敵を倒す、あの手のシーンをテレビの前で真似したこともある。
でもさ、私もうアラサーなんですよ。
いくら人通りが少ない場所とはいえ、いい大人が素手で空を指差して「紅蓮の炎よ」とか叫ぶの、自分自身への精神的ダメージが凄まじい。
ご丁寧におじいさんの魔法で現地の言葉の意味が完全に分かってしまった手前、そのポエミーな内容に脳が拒絶反応を起こしてしまう。中身を理解していなければ、まだ「異国の呪文」として割り切れたかもしれないのに。
「何を躊躇っている。言葉に魔力を乗せるのだ。さぁ!」
「あ、あの、もうちょっとこう、現代的な……『着火』とかじゃダメですかね」
「そんな味気ない言葉でイメージが固まるか! もっと感情を込めろ、熱き魂を燃やすのだ! はいッ!」
「わ、我は求め……訴えるぅ……」
「声が小さい! 腹から出せ!」
「うぅ……! 『我は求め訴える! 紅蓮の炎よ、我が手に集いて敵を討て! ファイアボール!!』」
叫んだ。
自分の声が虚しく荒れ地に響き渡る。
恥ずかしい。本当に恥ずかしい。もし誰かに見られていたら、この場で蒸発したい。いや、むしろ私がファイアボールになって燃え尽きて消えたい。
……何も起こらなかった。
静寂。遠くで鳥がアホみたいに鳴いている。風がまた吹いて、枯れ草が揺れた。
「もうやめて良いですか」
「早すぎだろう!?」
「……」
「……ふむ、イメージが足りんのだ」
「詠唱のダメージがデカすぎてイメージどころじゃなかったです」
私は膝から崩れ落ちた。魔法使いへの道は、精神的な羞恥プレイから始まるらしい。
親指にはめた「循環の指輪」が、かすかに温かい。ソロン曰く、これが私の詰まった魔力回路を補助してくれているらしいのだが……補助されてこの有様か。先が思いやられる。
メンタルが鋼鉄じゃないと異世界ではやっていけないのか。地球にいた頃の常識が、ここでは何の役にも立たない。むしろ足枷になっている気さえする。
「よいかアオイ。この世界には大きく分けて四つの魔法系統がある」
ソロンは私の醜態を無視して講義を始めた。いや、無視というより、「これくらいで凹むな、若造が」とでも言いたげな様子だった。
「火や水などを操る『元素魔法』、身体能力を強化する『付与魔法』、傷を癒やす『治癒魔法』、そして時空や精神に干渉する『特殊魔法』だ。お主が使おうとしているのは元素魔法の初歩だ」
「はぁ……特殊魔法ってのが一番強そうですけど」
「あれは選ばれた者しか使えん。お主のような凡人が手を出せば、脳が焼き切れて廃人になるのがオチだ」
あらやだ怖い。
「それに、魔力の総量と制御能力は種族によっても大きく異なる。魔法を最も得意とするのは、やはり『エルフ』だ」
「あー、やっぱりエルフなんですね。テンプレ通りだ」
同じようなことを姉からも聞いたことがあったが、やはりそうらしい。
「うむ。エルフの中には森に住むハイエルフや、地下を好むダークエルフなど種類はあるが、彼らは皆、生まれながらに魔力親和性が高い。高ランクの冒険者や、王宮魔導士などは、エルフの割合が極めて高い。ドワーフは魔法よりも武具の加工に魔力を使うし、獣人族は身体強化の魔法を無意識に使う程度だ」
「なるほど……人間はどうなんですか?」
「数が多いだけで、突出した才能を持つ者は稀だ。だからこそ、人間がのし上がるには『魔法協会』の認定が必要になる」
ソロンは足元の小石を拾い上げ、軽く放り投げながら説明を続けた。淡々と現実を突きつけてくるその口調は、昨日の酔っ払った時とは大違いだ。
「冒険者ギルドで一からランクを上げるのは骨が折れるだろう? 薬草採取で小銭を稼ぐ日々など、お主には耐えられまい」
その言葉で、昨夜の記憶が蘇る。
酒に酔って赤くなったソロンが、テーブルをバンバン叩きながらギルドのランク制度について熱弁していた光景だ。
『よいかアオイ、ギルドの冒険者のランクは上のSから下のFまでの完全な階級社会だ』
Sランクは国家戦力レベルの化け物。Aランクは超一流のエリート。対して最下位のFは初心者冒険者。ここまでは分かる。問題はその昇格システムだ。
ただ依頼をこなせばいいわけじゃない。FランクからEに上がるだけでも、指定されたドブさらいのような依頼を数十回こなし、ギルドへの貢献ポイントを貯め、さらに上官の推薦をもらって、最後に実技の昇格試験に合格しなければならない。その過程で何ヶ月、場合によっては何年もかかることがあるという。
『まるで終わりのないスタンプラリーというところだろう。Fランクでは受けられる依頼も限られている。もはや彼らは冒険者ではない。あれはただのフリーターだ』
ソロンの無慈悲な言葉が脳裏でリフレインする。あの時は笑い飛ばしていたが、シラフで考えると笑えない。
「薬草摘んでる間にババアになってるやつですよね……」
「そうならぬための提案をしとるのだ。『魔法協会』から一定の実力を認められ、認定証をもらえれば話は別だ。その認定証をギルドに提示すれば、Fランクではなく、Dランクや、運が良ければCランクの上位からのスタートが可能になる。魔法使いというのはそれほど価値がある」
「飛び級ってことですか! いいですねそれ」
「永遠のフリーター地獄」をスキップして、いきなり正社員待遇になれるなら御の字だ。地球にいた頃の就職活動を思い出す。あの頃も、結局は「資格」や「実務経験」が物を言った。この世界も結局は同じなのか。世知辛い。
「だろう。ただし、認定試験は甘くない。魔法が使えるだけではだめだ。魔力の高さ、個々人の魔法のオリジナリティが評価される。今のレベルでは門前払いだ」
次元転移魔法の魔導書があるとされるダンジョンは推奨ランクがA。一からランクを上げていくと思えばDランク、またはCスタートは魅力的だ。泥臭い下積み時代をショートカットできるなら、恥ずかしいポエム詠唱くらいなんだと言うのだ。背に腹は代えられない。プライドで飯は食えないし、日本へは帰れない。
「……はぁ。でも、私にできるかなぁ」
弱音が漏れる。
ふと、姉のことを思い出した。
姉も以前、一度魔法適性を測ってもらったと言っていた。結果は『適性ゼロ』。魔力回路そのものが存在しないタイプ。多くの人は適性ゼロらしい。魔法が使えること自体が、少数派なのだ。
姉は「私には無理だったけど、蒼ならきっと大丈夫」と笑っていた。根拠のない励ましだったのか、それとも本当にそう信じてくれているのか。
姉は、この世界で出会った旦那さんを本当に愛している。そして愛されている。生きるために結婚したわけじゃない。二人の間には確かな愛があって、お互いを必要としていた。だからこそ、魔法なんてなくても彼女はここで生きていける。愛する人がいれば、それだけで生きる理由になる。
でも、私は違う。愛する人もいない、守るべき家庭もない。私にあるのは「帰りたい」という執念だけだ。それ以外に、私をここに繋ぎ止めるものは何もない。
「姉は、魔法が全く使えなかったんです。それに比べれば……微弱でも光っただけ、私はマシなんですよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
ソロンは静かに言った。その声には、珍しく優しさが混じっていた。
「ゼロとイチは違う。イチがあれば、あとはそれを百にするか千にするかは、お主の努力と――『妄想力』次第だ」
「妄想力? さっきはイメージって言ってましたけど」
「うむ。ただ漠然と『火が出ろ』と願っても魔法は発動せん。あれは現象を定義し、脳内で詳細に構築する作業だ。火の大きさ、温度、飛距離、着弾点の爆発規模……それらを組み立てる力。それをわたしは『妄想力』と呼んでおる」
定義、構築、組み立て……。
その言葉を聞いた時、ふと既視感を覚えた。
何かに似ている。入力があり、処理があり、出力がある。パラメータを設定し、エラーが出ないようにロジックを組む。
これって、まるで――。
「聞いているか? よそ見をするな」
「え、あ、はい」
「羞恥心を捨てろ。己が最強の魔導士であると錯覚するのだ。厨二病? とやらを患うくらいが丁度いい」
「……先生、その言葉どこで覚えたんですか」
昨日私が酔っ払って変な単語を教えてしまったのかもしれない。後悔先に立たず。
私は溜息をつき、再び空いた右手を前に突き出した。もう一度やるしかない。この羞恥プレイに耐えなければ、私は一生Fランクのフリーターだ。それだけは嫌だ。
私は腹に力を入れ、大きく息を吸い込んだ。よし、やってやる。どうせ誰も見てない。見てるのはこの爺さんと、遠くの鳥だけだ。
「いでよッ!! 全てを焼き尽くす地獄の業火ァァァーーッ!!」
「声は良いが、構築が雑だ! ただの叫び声になっている! やり直し!」
私の異世界生活は、こうして近所迷惑な黒歴史の構築から始まったのだった。




