弟子の誓いはエールの味
「ふむ……」
私の必死の訴えを聞き終えたソロンは、深く重い息を吐いた。
そして、窓の外へ視線を向ける。夕日がギルドの石畳を赤く染めている。少し離れた席では、オークのような男がジョッキを「バリバリ」と噛み砕いて食べていた。いや、それ食べないだろ普通……。何やってんの。ガラスだよそれ。
「お主は私の命の恩人だ。それは忘れておらん」
「……」
「……聞いておるか?」
「あ、はい。すいません……なんかあそこの男の人がジョッキ食べてて」
「ジョッキは食べるものではない」
ソロンは眉間に皺を寄せ、私を真っ直ぐに見据えた。
「いや、それ私に言われても……。さっきはジョッキ握りつぶしてる人もいました。このギルドってジョッキ壊す儀式でもあるんですか?」
「アオイ、わたしの話を聞きなさい」
「あ、はい」
「私は永い年月をかけ、寿命を延ばす法も、肉体を造り替える術も修めてきた。使おうと思えば、若さも力も自在に手に入る。……だが、私はそれらを己には使わん。この老いた体で十分だ。自然に逆らってまで生に執着するのは、私の性に合わん」
ソロンの視線が、遠くを見る目になる。数百年の時を見てきたような、深い瞳だ。
「そして他者にも滅多に使わん。人は無いものを欲しがる。権力、地位、金……手に入らぬからこそ必死に求めるが、労せず得てしまえば心はすぐに腐る。過程を飛ばした結果に、価値などないのだ。……お主の言う『無双』も、魔法なら可能かもしれん。だが、永続魔法は術者の命を削る。翻訳の永続魔法一つで、私の余命は1年は縮んだ。戦闘強化となれば、さらに十年は失うだろう」
絶句した。
この老魔術師は、会ったばかりの私のために、自分の寿命を削ったというのか。
1年。終わりが見えている老人にとってのそれは、ただの数字じゃない。取り返しのつかない、命そのものの切り出しだ。その重みが、冷たい塊になって胃の奥にずっしりと沈み込んだ。
「……私も、もうそう長くはない。それに、翻訳は『理解』だが、強化は『肉体の改変』だ。骨や神経を強引に作り変える禁術に近い。今の負荷にお主の体が耐えきれず、死ぬ可能性も高い。私の魔力をもってしても、それは制御しきれぬのだ」
ソロンは私の方を向き、諭すように言った。
「魔法とは便利なものだ。しかし、何でも叶えられるからといって、何でも叶えるべきではない。それを理解するまでに、私は随分と長い時間がかかったがな」
その言葉が、じわりと胸に染み入る。
……確かにそうだ。あんなに言語の学習を頑張っていたのに、翻訳魔法がインストールされて完璧になった瞬間、すごく嬉しかった反面、「今までのあの苦労はなんだったんだ」という虚しさが少しだけあった。それと同時につきっきりで勉強を教えてくれた姉やエイランへの申し訳なさのようなものもあった。
何かに情熱を注ぎ、泥臭く努力した先の栄光を味わうことが人生の醍醐味ってやつなのかもしれない。
でも……。
「右も左も分からぬまま、この世界に来たのなら気の毒には思う」
私の沈黙をどう受け取ったのか、ソロンが言葉を継ぐ。
「言語能力に関しては、今後お主の足かせになると思ったから永続魔法を施した。だが勘違いするな。これは特別な力を与えたわけではない。人として対等に話せる権利を与えただけだ。この世界では言葉が通じなければ、お主は何もできぬ。助けを求めることも、値切ることも、トイレの場所を聞くことすらできぬ。それは強さとは違う――生きるための最低限だ」
「……」
トイレの場所を聞くことすらできぬ、か……。砂漠で、誰にも見られないように岩陰で用を足した屈辱的な記憶が脳裏をよぎる。あれは二度と御免だ。
「だが、強さが欲しければ自分で鍛錬を重ねることが、お主の人生にとっても良いのではなかろうか」
正論だ。ぐうの音も出ないほどの正論だ。
しかも、私のために寿命まで削ってくれた人が言う正論だ。本来なら、私に反論する資格なんてない。
でも——今の私には、その正論を素直に受け入れる余裕がない。
だから、私の口からは別の言葉が飛び出していた。
「……私は、ここに来たくて来たわけじゃ……ない……です」
声が震える。抑え込んでいた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「姉の手がかりを探して、怪しげな黒魔術の本に縋って……呪文を唱えたら、気がついたら砂漠の真ん中でした。それからは、本当にひどい目に遭いました。言葉が通じるようにしてくれたことには感謝してます、本当に。でも……」
言葉が詰まる。
姉は見つかった。生きていて、幸せそうにしていた。それが知れただけで、会えただけで本当に良かったと思う。
けれど――姉はこの世界の人と結婚して、家庭を築いていた。私は今、姉夫婦の家に住まわせてもらっている身だ。二人はとても私に優しくしてくれる。だが、その優しさがかえって辛い。
あの温かい家庭の中で、私だけが異物だ。一生養ってもらうつもりなんてないし、新婚の家庭に居座るなんて邪魔なだけだというのは、私が一番分かっている。
「また一から努力して、元々日本で当たり前に持っていた『普通の生活』を取り戻すために、一体あとどれだけの労力を払えばいいんでしょうか。筋力もない、体格だって貧弱な私が、今さら鍛えて物理的に強くなれるはずもないし、魔法の適性だって豆電球レベル。強くなる過程を楽しむ余裕なんて、今の私にはない……」
涙が滲んでくるのを、必死に堪えた。
ギルドの喧騒の中で、私たちのテーブルだけがエアポケットのように静まり返っている。
「『レベル上げ』が楽しい娯楽なのは、きっと安全な家とお金と時間があって、心に余裕がある時だけです……。私はただただ、帰って、日常を取り戻したいだけなんです、それ以上は望みません。もう二度と帰れないかもしれないと思うと、どうして良いか……。すいません、こんなこと言って。あなたの寿命まで奪ったのに……私……」
思わず本音が決壊した。
「……すまん、そこまで切羽詰まっているとは」
ソロンは少し考え込むように黙った。
その沈黙が、妙に重く感じられる。
私は……どうしたいんだろう。楽をしたい。それは本音だ。でも、ソロンの言うことも分かる。簡単に手に入れたものには価値がない。それは、元の世界でも散々味わってきたことだ。でも、今は少しの救済措置が欲しい。溺れかけている時に、「泳ぎ方を覚えろ」と言われても無理なのだ。まずは浮き輪が欲しい。
「わたしはお主には魔法の才があるように見える。もし、自分である程度強くなれる見込みがあるなら――頑張れるか?」
ソロンが静かに問うた。
私は顔を上げ、涙を拭って頷いた。
「……見込み? 豆電球レベルなのに……? ……あるなら。ゼロじゃないなら、頑張りたいですけど」
自分でも情けないくらい、声が上ずっていた。
「よろしい」
ソロンは深く息を吐いた。そして、私をじっと見つめる。
「……お主の目を見た。その目は、まだ諦めておらぬ。ならば、手を貸そう」
そう言って、ソロンは懐から何かを取り出した。
差し出されたのは、薄い銀の金属を編み込んだような指輪だった。繊細だが、よく見るとどこか歪な形をしている。昨日私に永続魔法をかける時にソロンがはめていたやつだ。
「これをはめてみなさい」
私は言われるがまま、それを受け取り、右手の中指にはめた。
スカスカだ。指輪が指の根元でフラフープのごとく回っている。
「……ゆるいですね」
私は眉をひそめ、次は薬指にはめ直した。さっきより隙間が空く。重力に従って指輪が傾き、抜け落ちそうになる。
「あれ、まだゆるい」
おかしいな。私は首を傾げ、意を決して小指にはめた。
指輪は一瞬の抵抗もなく指を通り抜け、床に落ちそうになったのを慌てて空中でキャッチした。危ない。
「なんだと!?」
「なんだと、ではないだろう。すでに中指でゆるいと判明しておきながら、なぜ、より細い指へと旅に出た!? お主の思考回路はどうなっておる」
ソロンがこめかみを押さえている。
「いや、消去法で順番に……」
「残った選択肢の中で一番太い『親指』をなぜ消去した。はめるならそこだろう」
「あ、なるほど。この世界の指輪って親指にはめる文化なんですか?」
「いや、単に私のサイズで作ってあるからな。お主の細い指では親指くらいしか合うまい」
ロマンもへったくれもない理由だった。この世界の人の体格に合わせて作ったのならそりゃそうか。
言われた通り親指にはめると、まだ緩いが、ようやく指輪は止まった。
少し不格好だが、落ちることはなさそうだ。
「……なんか、あったかいですね」
指輪がボンヤリと発光している。
じんわりとした温もりが、指先から腕へ、そして体の中心へと伝わってくる。
さっきの豆電球みたいな水晶よりも、明らかに強い、確かな光を放っている。
「これは『循環の指輪』。装備者の滞った魔力をポンプのように吸い上げ、増幅し、循環させる補助具だ」
ソロンは指輪の光を見つめ、わずかに目を見開いた。
「ほう……。さっきの測定石では豆電球だったが、この反応は悪くない。お主、やはり素質はあるようだな。魔力の回路が錆びついて詰まっているだけで、ポンプを使えば流れるタイプだ。これをしばらくお主に託そう」
「配管掃除みたいな言い方ですね……ありがとうございます」
ソロンの言葉に、不思議と希望が湧いてきた。
私のために命を削ってくれたこの人が、「素質はある」と言ってくれた。
ゼロじゃない。それなら――私にだって。
「あの……弟子にしてくれませんか。魔法、頑張りたいです」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
チートをくれと言った数分後に、努力の道を志願するなんて。でも、「ゼロじゃない」という言葉が、私の中で何かを変えていた。完全な絶望と、わずかな希望——その差は、思った以上に大きいのだ。
「ほう」
ソロンがわずかに眉を上げた。
彼はゆっくりと、値踏みするように私を見る。
「もう弟子などは取る予定はなかったんだがな……。私の修行は厳しいぞ? 泣き言を言えば即座に破門だ」
「構いません。……これまで幾度も『死』を覚悟してきたんです。もうここまで来たなら何でもやります」
「フッ……言うようになったな」
ソロンは、また窓の外を見た。夕日はもうすっかり沈みかけ、夜の帳が下り始めている。ギルドの中は相変わらず筋肉の博覧会状態だが、不思議と恐怖心は薄れていた。
「お主が地球に帰るまでを見届けるのも悪くないかもしれん。それに、魔法の道を志す上で私が手を貸さない理由はないだろう。……アオイ、弟子入りを許可する」
そう言って、ソロンは初めて、本当に優しい笑みを浮かべた。まるで孫を見るような、温かい目だった。
「ただし、楽な道ではないぞ」
「……はい」
私は深く頷いた。
楽じゃないのは百も承知だ。でも、何もできないままここで立ち尽くしているよりは、ずっとマシだ。
よし、やってやろうじゃないの。まじで無理なら逃げ出すかもしれないけど! その時はその時だ。
「さて、契約成立だ。アオイ、酒は飲めるか?」
「はい、浴びるほど!」
即答だった。0.1秒の迷いもなかった。
「……そうか。では、祝杯に一杯付き合ってくれ。ここのエールはなかなか悪くないぞ」
エール……つまり、ビール!
その単語を聞いた瞬間、私の脳内で天使がラッパを吹いた。
「もちろんです!! ずっと……っ、ずっと飲みたかったんです!!」
声が少し震えた。
姉ちゃんたちは今、妊活中だ。そのため家では夫婦揃ってお酒を断っている。居候の身分で、私一人だけ横でプシュッとやるわけにもいかず、張り裂けそうな「飲みたい」という欲求を封印し続けてきたのだ。
泣きたいくらい辛い日々だった。でも、この小さな幸せが、今の私には何よりも嬉しい。
私は店員さんに向かって、高らかに手を挙げた。
「すみません! エールください! ジョッキで二つで!!」




