豆電球と冒険者ギルド
「ただいま。遅くなってごめんね」
玄関を開けた瞬間、姉が飛び出してきた。
「蒼! どこ行ってたの!? 全然帰ってこないから……!」
姉の目が赤い。本気で心配していたらしい。言葉も満足に話せない妹が、日暮れまで帰ってこなかったのだ。最悪の事態を想像しない方がおかしい。
「ごめんごめん、色々あって……あ」
私は自分の手元を見下ろした。
フロッケン肉の包み。高級食材だが、なんとも言えない灰色に変色し、かすかに酸っぱい匂いを放ち始めている。
「……これまだイける?」
「うん、それもう腐ってるね」
姉のジト目が痛い。
「ごめん……。で、でも! ……良いことがあったんだ! 聞いて!」
私がその言葉を口にした瞬間、姉の表情が驚愕に変わった。
無理もない。私が発したのは日本語ではない言語だったから。朝出ていくまで「あー」「うー」しか言えなかった妹が、突然流暢な現地語を話したのだ。
「……え? 蒼? 今、こっちの言葉で……?」
姉がおそるおそる問いかけてくる。
「うん。街で親切な魔法使いのおじいさんに会ってね。言葉が分かる魔法をかけてもらった。これでもう、通訳もいらないよ」
私はあらかじめ用意しておいた「設定」を説明した。
相手は名を明かせない隠遁賢者だ。姉たちには「街外れに住む、ちょっと変わった元・薬師の老人」ということにしてある。本名の「ソロン」なんて口が裂けても言えない。
「魔法で……言語習得を……?」
食いついたのは、言語学者のエイランだった。彼は眼鏡の位置を直しながら、信じられないものを見る目で私に歩み寄ってきた。
「あり得ない……。脳の言語野に直接干渉する術式など、禁術指定レベルの高度な魔法だ。それを、街の老人が一瞬で? 副作用はないのか? 記憶の混濁は?」
エイランが矢継ぎ早に専門的な質問を浴びせてくる。
普段は温厚な彼だが、学者のスイッチが入ると怖い。私の目を覗き込み、脈を取り、まるで珍しい実験動物を見る目だ。
「だ、大丈夫です。頭も痛くないし、過去の記憶もはっきりしてます。ただ、日本語……私の故郷の言葉が、脳内で自動的に変換されて口から出るような感覚で……」
「興味深い……。実に興味深い事例だ。アオイさん、その老人の特徴は? 使用した触媒は?」
「エイラン、落ち着いて。蒼が引いてる」
姉が苦笑しながら彼を諌めた。エイランは「ハッ」と我に返り、「すまない、つい……」と頭をかいた。
姉は改めて私に向き直り、潤んだ瞳で私の手を握りしめた。
「良かった……。本当に良かったね、蒼」
その言葉と、姉の温かい手。
胸の奥がじんわりと熱くなる。言葉が通じない間、姉はずっと不安だったのだ。妹を守らなければという責任感と、私のこの世界での立ち位置に。それらから解放された安堵が、姉の表情から伝わってきた。
ソロンの件で嘘をついている罪悪感は少しあるけれど、この笑顔が見られたなら、怪しいおじいさんについていった甲斐があったというものだ。
「うん。ありがとう、姉ちゃん」
私はこの世界に来て初めて、心の底からリラックスして笑うことができた気がした。
――――――――――――――
そして、翌日。
姉には「例の老人にお礼を言いに行く」とだけ伝えて家を出た。昨日の今日で心配されるかと思ったが、言葉が通じるようになった安心感からか、「気をつけてね」と送り出してくれた。
私はソロンとの約束通り、まずソロンの家へ向かい、そこから一緒に街の中心部にある「冒険者ギルド」へと向かった。
姉の家での温かい団らんとは打って変わって、そこはまさに「男の世界」だった。
「うわぁ……場違い感半端ないな。めっちゃ視線感じるし」
ギルドの重厚な両開き扉を開けた瞬間、むせ返るような熱気と汗、そして鉄と脂の匂いが鼻をついた。
体育会系の部室を百倍濃縮して煮詰めたような匂いだ。広大なホールには、木製の頑丈なテーブルが並び、昼間からジョッキを傾ける荒くれ者たちでごった返している。
筋骨隆々とした男たち。全身を鋼の鎧で固めた女戦士。背中に巨大な斧を背負った獣人。
特にあそこのテーブルでジョッキを握り潰している男なんて、僧帽筋が盛り上がりすぎて首が見当たらない。顔が胴体に埋没している。人体構造のバグか? どうやって呼吸してるんだ。とりあえずこの握手文化においてあの人と握手した瞬間に私の右手が粉砕骨折するだろうから気をつけなければ。
そんなマッスル・テーマパークに、私みたいなヒョロヒョロの現代っ子――しかもインドア派SEが入り込めば、そりゃ浮く。
「おぉ、もしや魔法使い、ソロン様では?」
ビクビクしながら受付に向かうと、カウンターにいた強面の職員が、私の隣にいるおじいさんを見て、眼球が飛び出るんじゃないかというほど目を見張った。
今日のソロンは、昨日の「ただの老人」モードではなく、きちんとしたローブを纏った「賢者」モードだ。変装魔法を解いているらしい。
「あぁ、いかにも。久しいな」
ソロンは鷹揚に頷いただけだったが、その声はざわめきを一瞬で静寂に変えた。
そして次の瞬間、爆発的な反応が起こる。
「おい、あの方だろ?」
「伝説の……宮廷魔導師筆頭だった……」
「山を一つ消し飛ばしたっていう、あの大賢者か!? なんでここに!」
さっきの首なしマッチョまでもが、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、直立不動で敬礼している。
え、すご。
やっぱりこの人、ただ者じゃなかったんだ。「隠居中」とか言ってたけど、知名度は現役バリバリのトップアイドル並みじゃないか。
「おお、ソロン様! こんな所でお目にかかれるとは!」
「いつぞやの依頼では命を救われました!」
「ぜひ一杯奢らせてください!」
ソロンはわらわらと集まってきた冒険者たちに囲まれ、あっという間に談笑の輪に飲み込まれてしまった。完全にアイドルの握手会状態だ。
そして、私は完全に取り残された。周囲からは「あいつ誰だ?」という値踏みするような視線が突き刺さる。
いたたまれない。私は好奇の視線に耐えきれず、そそくさとギルドの片隅にある薄暗い席へ避難した。借りてきた猫のように背中を丸め、存在感を消す。
壁のシミになりたい。そう願うこと数十分。ようやくファンサービスを終えたソロンが、悠然とこちらへやってきた。
彼は私の向かいに座るなり声を潜め、まるで国家機密でも漏らすかのような顔つきになった。
「待たせたな、アオイ」
「いえ、人気者は大変ですね……」
「ふむ。それより、興味深い情報が聞けたぞ」
「なんです?」
「『次元転移魔法の魔導書』の目撃情報だ」
「次元転移魔法?」
「次元転移魔法――異なる世界を渡る術だ。お主がここに来た手段も、おそらくこれに近い。逆向きに発動できれば、元の世界に帰還できる可能性がある」
昨日話した「帰還の手がかり」が、こんなにあっさり見つかるなんて。
「魔導書って、読めば誰でも使えるんですか?」
「魔導書とは、古の魔法使いが術式を記した書物だ。解読には相応の知識と魔力が要るが……まあ、そこは私がなんとかしよう。問題は手に入れることだ」
「どこに……? それって、確実にあるんですか?」
「……正直なところ、分からん。目撃情報自体がかなり古い。既に持ち去られたか、朽ちて消えている可能性もある。過度な期待はせぬことだ」
ソロンはテーブルに指で地図のようなものを描き始めた。
「魔導書が目撃されたのは、ここからはるか北にある『虚ろの迷宮』。国が管理する高ランクダンジョンの最深部だ。そこは危険度が極めて高く、安全上の理由から単独での侵入は固く禁じられておる」
「あー……なるほど。パーティ的なのを組まないと門前払いって感じですか」
「そういうことだ。だがそれ以前にお主には実績が無い。ギルドの規定で、実績のない者は高ランクダンジョンの探索許可が下りぬ」
やっぱりそうなるか。
ゲームでもそうだ。レベル1の勇者がいきなりラストダンジョンには行けない。
「となれば、手段は二つ。一つは、お主自身が依頼主となり、高ランク冒険者を雇い、ダンジョンへ派遣することだ」
「なるほど、金で解決するパターンですね。いくらくらいです?」
「相手はAランク級の猛者たちだ。命を預ける対価となれば……そうだな、金貨100枚では挨拶代わりにもならぬだろうな」
「ひゃ、100枚……」
目の前が真っ暗になった。
金貨100枚。
私が今持っている全財産は、姉の家の掃除を手伝ってお駄賃としてもらった銅貨数枚だ。
こちらの物価感覚で言えば、金貨100枚は日本円で数千万円クラスの大金だろう。牛丼一杯食べるのにも躊躇する今の経済状況で、高級車を買えと言われているようなものだ。
しかも、魔導書が確実にあるという保証もない。無いかもしれないものに数千万円。ギャンブルにしては分が悪すぎるし、そもそも元手がない。
「内臓売ればいけます?」
「やめておけ」
「じゃあ……無理かもです」
「だろうな。となれば、もう一つの手段だ」
ソロンはゆっくりとこちらを見た。
「お主自身が冒険者となり、実績を積んでランクを上げ、自分の足でダンジョンに潜ることだ」
「……私が、冒険者に?」
自分の腕を見る。
細い。白い。筋肉なんてどこにもない。
これまでの人生、一番重いものを持った経験といえば、秋葉原で買ったPCパーツ一式くらいだ。
そんな私が、あの首なしマッチョたちと肩を並べてモンスターと戦う?
「……私が強くなって、自分で行くしかない、のか?」
口に出してみたものの、現実味がなさすぎて乾いた笑いしか出ない。
強くなるって、具体的にどうすればいい? 筋トレ? 走り込み?
いや、あそこのマッチョたちの領域に達するまで何年かかると思っているんだ。語学の次は筋トレですか?
「ランクを上げれば、ダンジョン探索の許可だけでなく、報酬も得られる。ここで自立して生きていくための資金源にもなるだろう」
「……あの、剣とか槍とかは無理だと思うんですけど、私も魔法、使えたりしませんかね」
一縷の望みをかけて聞いた。
この世界では、魔法を使えるだけでヒエラルキーの上に行ける。肉体労働が無理なら、知的労働にかけるしかない。
ほら、私、異世界転移者だし。実は潜在能力がすごいとか、そういう展開があってもいいはずだ。
「ふむ……。転移魔法でここに来ることができたということは、魔力に対する親和性はゼロではないはず」
ソロンは懐から、親指大の小さな透明な石を取り出した。
「これは魔力測定石だ。これを持ってみろ。体内の魔力を込めると光る」
「魔力を込めるって、どうやるんですか?」
「腹の底から熱いものを指先に送るイメージだ」
「イメージ……」
私は石を握りしめた。
目を閉じる。頼む。光ってくれ。レーザービームみたいに。あるいは部屋中を照らす太陽みたいに。
私の未来を照らす光よ、カモン!
念じること数秒。石の中心に、ほんのりと灯りがともった。
チカッ……チカッ……。それは、切れかけた蛍光灯か、あるいは寿命を迎える寸前の蛍のような、あまりにも頼りない明滅だった。
フゥーッと息を吹きかけたら消えそうである。
「…………」
周りで見ていた冒険者たちが一瞬だけこちらを見たが、「なんだ、豆電球か」といった顔ですぐに酒盛りへ戻っていった。
期待した私が馬鹿だった。
「……まあ、無くはない、といったところだな。頑張れば生活魔法――火種を起こしたり、コップ一杯の水を出す程度は使えるようになるだろう」
「えぇ……今の評価、だいぶお情けが含まれてましたよね?」
生活魔法。つまり、ライターと蛇口代わり。
戦闘には全く役に立たない。スライム一匹倒せる気がしない。
あぁ、チート能力とは何だったのか。言語を理解できるようになったのは本当にありがたい。感謝してもしきれない。
でも、それでようやくスタートラインに立っただけだ。私はもう大人だ。若さゆえの吸収力も、無限の可能性もない。三十路手前で、脳細胞も筋肉もピークを過ぎようとしている凡人が、この過酷な異世界でゼロから成り上がる?
無理ゲーにも程がある。絶望と焦りが混ざり合い、私は縋るようにソロンを見た。
「……ソロンさん。何か、私を最強にする魔法とかありません? こう、一瞬で相手を粉砕するような……」
半分冗談、半分本気で聞いてみる。だってRPGとかだと、最強の魔法使いって大体そういうの持ってるじゃん。
無理なのは分かってる。でも、理不尽に知らぬ場所に転生させられて、牢屋に入れられ、ひどい目にあったんだ。藁にもすがりたくなる気持ち、少しくらい許してほしい。まじで。
私の必死の訴えに、ソロンは深く、重いため息をついた。
それは呆れと、わずかな憐れみを含んだものだった。




