大賢者ソロン・ヴェルディクト
魔法使いといえば、この世界では王侯貴族に並ぶ高ステータスだと相場が決まっている。けれど、おじいさんの家は拍子抜けするほど質素だった。
石造りの小さな平屋。中に入ると、壁一面の本棚と、用途不明の実験器具が所狭しと並んでいる。魔法使いの館というよりは、偏屈な研究者の書斎といった趣だ。
天井からはドライフラワーになった薬草の束が無数に吊るされ、乾いた草の匂いと、鼻の奥をツンと突く薬品臭が混ざり合っている。生活感があるような、ないような、不思議な空間だ。
おじいさんは部屋の中央に立つと、何やら短く呪文を唱えた。
カッ、と部屋の空気が白く弾ける。
私は反射的に腕で顔を覆った。
え、何!? 目くらまし!?
光の粒子が収まると、そこには――別のおじいさんが立っていた。
ジジイがジジイに変身、だと……
「……同一人物ですか?」
思わずそんな言葉が漏れた。
さっきまでのヨボヨボの好々爺はどこへやら。そこにいたのは、背筋の伸びた老紳士だった。
顔の彫りは深く、刻まれた皺すら威厳の一部のように見える。ボロボロだった長衣は、深いミッドナイトブルーの上質なローブへと変わり、手には複雑な模様が刻まれた杖が握られている。
「わたしの名はソロン・ヴェルディクト――。普段は身分を隠して生活している」
おじいさん――いや、ソロンは、まるで王族のような所作で微笑んだ。
話を聞けば、若い頃の功績が積み重なり、いつの間にか「大賢者」などと呼ばれるようになったらしい。名声の重圧と面倒な依頼から逃げるため、本人は「遠い異国で隠居中」ということにし、街では変装魔法を使って一般老人を演じて楽しんでいるのだとか。
要するに、プライベートで変装して街を歩く有名人のようなものか。
「この紙に署名を」
ソロンが懐から取り出したのは、びっしりと文字が埋め尽くされた羊皮紙だった。
翻訳魔法に関する誓約書といったところか。魔法の効果のおかげか、文字が読めるぞ……。
ざっと目を走らせる。『本魔法により生じたいかなる精神的・肉体的損害についても、術者は一切の責任を負わないものとする』――責任逃れの文言がずらりと並んでいる。
魔法協会とやらの規則は意外と細かいらしい。私はスマホの画面上の契約書を読み飛ばす時のように、迷わずペンを走らせた。
名前欄に、サラサラと署名する。うん、文字もちゃんと現地語で書ける。
「ユズリハ・アオイというのか」
ソロンは署名を確認して、眉をひそめた。
「名字がユズリハで、名前の方がアオイですけど」
「アオイ……なかなか発音しづらい音の並びだな。アオィ……アォイ……」
「そうですか?」
日本人からすればありふれた名前だが、こちらの言語にはない発音なのだろうか。そういえばエイランも、私の名前を呼ぶときは少しぎこちなかった。
いやでも、ソロン・ヴェルディクトの方がよっぽど舌を噛みそうな名前だと思うけど。
「まあ良い」
ソロンは羊皮紙を丸めると、棚から小箱を取り出した。中には、薄い銀の金属を編み込んだような、繊細な指輪が収められている。
彼はそれを、自身の右手の人差し指にはめた。
「さて、永続魔法の効果を付与するとなれば、通常は家が一つ買えるほどの対価を頂くが……」
ソロンが流し目で私を見た。
心臓が跳ねる。げ……まさか、後から請求されるパターン?
「今回は命の恩人への礼だ。特別に無償で施そう」
家一軒分……!?
マジですか。人助けはしておくものだ。……正直、あの時は無我夢中だった。誰かの命を救ったなんて実感は、今もあまりない。地球にいた頃の私は、電車で席を譲るかどうかすら迷うような小心者だったのに。人生で初めて、見ず知らずの誰かのために体が動いた。それがたまたま大賢者だっただけで——いや、たまたまにしては引きが良すぎるが。
あの時、見て見ぬふりをして通り過ぎていたら、私は一生、言葉の壁にぶつかって生きていくところだった。
ソロンが瞳を閉じる。
紡がれる言葉は、さっきの翻訳魔法とは比べ物にならないほど長く、複雑だった。
重低音の響き。歌うような抑揚。空気が振動し、指輪が脈打つように銀色の光を放ち始める。
魔力の高まり。私には理解できない、神秘的な力が集まっていくのが分かる。
ソロンは、その光る指先を、ゆっくりと私の眉間へと突き出した。
「――解」
パチンッ!!
脳の奥で指を鳴らされたような衝撃に、私はよろめいた。熱くもなく、冷たくもない。「知識」の奔流だ。
膨大な言葉の海が、頭蓋の内側に無理やり流れ込んでくる感覚。今まで霧がかかっていた脳内が、一瞬でクリアに晴れ渡っていくような浮遊感。
それが足の爪先まで駆け巡り――スゥッ、と消えた。ふと見ると、ソロンの額にうっすらと汗が滲んでいた。
「アオイ。これよりお主は、いかなる言語も障壁なく理解し、操ることができるであろう――その命尽きるまで」
ソロンの声が、鼓膜を震わせ、脳に届く。
さっきの「脳内直接翻訳」とは違う。もっと自然で、澄んでいる。外の通りのざわめき、風の音、遠くの話し声。今までただの「雑音」だった環境音が、意味を持った「言葉」としてはっきりと入ってくる。
「すごい……。違和感が全くない……」
私は震える手で自分の口元を覆った。
「マジか……。これで……言葉の問題は解決したのか……」
涙が出そうだった。
この数週間の、あの地獄のような孤独。言いたいことが言えないもどかしさ。誤解される恐怖。それら全てから、今、解放されたのだ。
私は深々と頭を下げた。最上級の敬意を込めて。
「あの、靴でも舐めましょうか。右足からが良いですか?」
「結構だ」
「……」
食い気味に断られた。ですよね。
「それにしても、奇妙なものだな」
ソロンは腕を組み、探求者の目で私を見つめた。
「お主はここを『異世界』と言ったな? 遠い異国ではなく、異世界と。それはなぜだ?」
「え、いや……私の世界――地球っていうんですけど、そこには人間以外の知的生命体はいないんです」
私は言葉を選びながら説明を始めた。
「エルフもドワーフも、街を歩く獣人も、魔物も。少なくとも私が生きてきた二十六年間、物語の中でしか見たことがありません」
「ふむ……」
ソロンは顎を撫でる。
「単にお主の住む大陸で認知されていなかっただけ、という可能性は?」
「ないです。断言できます」
私は首を横に振った。
「地球には魔法がありません。その代わり、『科学技術』が極限まで発展しています」
どう説明すれば伝わるだろう。インターネット、テレビ、電話。
「この国の端から端まで情報を伝えるのに、どれくらいかかりますか?」
「アルテシアだけでも相当広いからな。早馬や伝書鳥を使えば数日。魔法を使っても、距離による減衰があるゆえ、相応の時間はかかるな」
「地球だと、一瞬です」
私は指を鳴らした。
「文字も、声も、映像さえも。一瞬で、世界の裏側まで届きます」
ソロンの目が、驚愕に見開かれた。
「だから、もし地球のどこかにエルフがいたら、次の日には全人類が知ることになります。誰かが写真――精巧な絵みたいなものを一瞬で世界中に広めるから、隠し通すなんて不可能です」
私は両手を広げた。
「つまり、地球とここは、物理法則の根幹からして違うんです。だから『異世界』なんです」
「なるほど……。しかし、その理屈でいけば、わざわざ翻訳魔法など不要だったのではないか? 全ての知恵と一瞬で繋がり、情報を取得できるのだろう?」
鋭い。さすが大賢者。
「地球の便利な道具は、地球の中でしか使えないんです。ここは……範囲外なので」
「……ふむ」
ソロンは深く息を吐き、ソファに沈み込んだ。
「異世界からの来訪者……書物でそれに似た物語なら読んだことはあるが、あれは作り話だ……まさか実在するとはな」
「そうなんですね……」
フィクションだと思っていた設定が、自分の身に起きている。
どこの世界でも、人は「ここではないどこか」を夢想するのだろうか。
ふと、強烈な寂しさが胸を刺した。
言葉が通じるようになった安堵の反動か、それとも「範囲外」と口に出してしまったせいか。無性に、帰りたくなった。
母の作る、少し味の濃い味噌汁。父の淹れる下手くそなコーヒー。コンビニのチキン。深夜のラーメン。ソシャゲー仲間との日々。仕事で炎上案件を1人で鎮火し讃えられたあの日の夜。
もう、二度と味わえないのだろうか。
「あの……もとの場所に戻る方法は、ご存じないですか?」
縋るように聞いていた。
姉はここで幸せになった。でも、私は? 私はここで、何者になれるというの?
「……ふむ。私の専門外ゆえ、正直なところ見当もつかん」
ソロンは顎髭をいじりながら言った。
「どこかに手がかりがあるかもしれん。知らんけど」
「ちょ、重要局面で『知らんけど』やめてくださいよ! それ口癖ですよね?」
「こう言っておけば、大抵の責任から逃れることができる、まさに魔法の言葉よ。魔法使いだけにな」
「嫌われますよ??」
「私も全知全能ではないのでな。専門外の領域は分からぬ。これは本当だ」
「それは……そうですよね。すみません、つい」
神様じゃないんだ。魔法使いだって、一人の研究者に過ぎない。
「だが、手掛かりを探す場所なら心当たりがある。……『ギルド』だ」
「ギルド……。冒険者が魔物を討伐したり、依頼を受けたりする?」
「そうだ。よく知っているな。ギルドはこの大陸の情報が集まる場所でもある。他国からの依頼や、未知の遺物の情報が集まる場所だ。そこで聞き込みを行えば、何か掴めるかもしれん」
RPGの定番施設、ギルド。
やはり実在するのか。
「聞き込みか……。身元の知れない女がちょろちょろ聞いて回るなんて、怪しまれませんかね」
「だろうな。……だから、私も付き合おう」
「えっマジすか」
思わず素が出た。
「その代わり――地球とやらについて、もっと詳しく教えろ。対価交換だ」
ソロンは少年のように目を輝かせていた。
知識欲の塊。研究者としての好奇心が、隠遁生活の平穏を上回ったらしい。
「はい! もう、いくらでも!」
私は語った。
手のひらサイズの板で世界中の知識が見られるスマートフォンのこと。鉄の塊が空を飛ぶ飛行機のこと。自動で階段が動くエスカレーター。二十四時間いつでも温かい食事が買えるコンビニ。異世界小説や漫画がある一定の支持を受けていることも。
ソロンは身を乗り出して聞いていた。時折「ほう!」と声を上げ、猛烈な勢いでメモを取っている。
魔法使いにとって、科学技術は「魔力を使わない魔法」のように映るのかもしれない。
気がつけば、窓の外は茜色に染まっていた。
姉ちゃんが心配する。今日はもう戻らないと。
「……この歳になって、これほど胸躍る話が聞けるとはな」
ソロンは満足げに頷いていたが、ふと眉を寄せた。
「……ふむ。しかし、解せんな。お主の話を聞く限り、地球というのは魔法など不要なほど便利で、満ち足りた世界ではないか。飢えもなく、情報も一瞬で手に入り、空さえ飛べる。それなのに、なぜお主の世界では、わざわざこのような不便な世界へ行く物語が流行るのだ?」
ソロンの疑問はもっともだ。
彼からすれば、科学技術という「神の御業」を持つ世界から、わざわざ文明レベルの低い場所へ来たがる心理が理解できないのだろう。
「それは……まあ、ないものねだり、なんですかね」
私は苦笑いを浮かべた。
「たいていの物語では、こっちに来ると同時に、すごい才能とか最強の魔法とかが貰えるんです。努力しなくても、誰よりも強くなれる。それを『無双する』って言うんですけど」
私はもらえなかったがな!
「無双……。並ぶ者がいないほど強い、という意味か」
「そうです。地球は便利ですけど、そのぶん社会の仕組みが複雑で、みんな疲れちゃってるんですよ。仕事に追われて、人付き合いに疲れて……。だから夢を見るんです。ワクワクしたい、新しい自分を探したい、エルフに会ってみたい、だとか」
私は遠い目をした。満員電車に揺られていた日々を思い出す。
「今の自分じゃない、特別な誰かになって、第二の人生をやり直したい――。そういう『逃避』の場所として、異世界は人気なんです。……実際は、言葉も通じず強制労働させられるハードモードでしたけど」
「ククッ、なるほどな」
ソロンは皮肉っぽく、しかし楽しげに喉を鳴らした。
「便利な世界に住む者も、心までは満たされぬということか。人間というのは、どこの世界でも因果な生き物よ。……また明日、ここに来るが良い。ギルドへ案内しよう」
「はい、ありがとうございます!」
ソロンの家を出て、夕暮れの街を歩く。警戒してしまっていたが、ソロンは好奇心旺盛な良いおじいさんだった、本当に。
通りのざわめき。商人の売り口上。子供の笑い声。恋人たちの囁き。すべてが、意味を持って聞こえてくる。
世界が、鮮やかに色づいていた。孤独な異邦人だった私は、今日、ようやくこの世界と「繋がった」のだ。
そして――帰る方法が、見つかるかもしれない。
強力なコネも手に入れた。なんてったって異世界でもコネは最強だからな!
あぁ、今日のこと姉ちゃんとエイランにどう報告しようか。石畳を踏みしめる足取りは、この世界に来て一番軽かった。




