体験版にもほどがある
ある日のことだった。
姉に買い物を頼まれ、いくらかの金を渡されて街へ出ることになった。
この世界の通貨単位は「ディル」。渡された銀貨と銅貨はずっしりと重く、手触りが妙に生々しい。電子マネーに慣れきった現代っ子には、これだけで少し冒険感が漂う。
異世界の街。
正直、怖い。
郊外では人間を攻撃する魔物が出ると聞くし、日本人のような平たい顔立ちは珍しいらしく、どうしても視線を集めてしまう。そのうえ言葉も片言しか通じないのだから、恐怖倍増だ。
治安は悪くないと姉は言うけれど、言葉が通じない場所にいるだけで、心の耐久力が削られていく。
本当は引きこもっていたかった。けれど「これも勉強だ」と姉に背中を押され、半ば強制的に放り出された結果が、これである。
――ひとりでできるもん。はじめてのおつかい、二十六歳。
泣きそうだ。
「ぐわぁあああ」
太陽の光をもろに受けるのは久々で、まるで吸血鬼にでもなった気分だ。姉の家での快適引きこもり生活が、確実に私の肌を弱体化させている。
吸血鬼といえば――。この街を歩く人々のほとんどは人間だが、耳のとがった者――多分エルフや、背が低く筋肉質な者――多分ドワーフも決して数は多くないがちらほら見かける。
この世界には角のある者、青白い肌の者、尻尾のある者……とにかく「人っぽいけど人じゃない」種族が多くいるようで、脳の情報処理が追いつかない。
ファンタジー系のソシャゲは散々やってきたが、実写解像度で目の前に迫られると、リアルすぎて結構引く。
ここは「アルテシア王国」。人間をはじめとする多様な種族が共に暮らしているが、繁殖力と勢力の強さでは人間が群を抜いている。そのため国を統治しているのもやはり人間だ。
渡されたのは手書きの地図とメモ。ターゲットは『フロッケン鹿の肉』。
銀色の毛並みを持つ、高級食材らしい。姉いわく「臭みがなくて美味しい」そうだが、私はそもそも普通の鹿すら見たことがない。ジビエってやつ? あれ高いよね。異世界でもやっぱり高級なのか。
こっちに来てからいろいろ食べてきたが、どれも「食べられなくはないけど、何かが足りない」という感じだ。地球で馴染みの動物や魚もこの世界には多くいるが、塩気が強すぎたり、妙に酸っぱかったり、なんとも言えない未知の香辛料の味だったり。
……日本食が恋しい。特に緑茶と味噌汁、ラーメン。あと白米。炊きたてのあのツヤツヤした……あぁ、だめだ。思い出すとホームシックで死にそうになる。
フロッケン鹿。発音は練習した。「フロッケン」。そのままだ。それさえ言えれば、きっと買える――たぶん。いや、買えるはず。買えなかったら泣く。マジで泣く。
街は想像以上に活気づいていた。
石畳の通りに木の屋台が並び、香ばし……香り高い匂いと人々の声が入り混じる。
異国の香辛料、見たことのない毒々しい色の果実、透明な球体に泳ぐ魚――すべてが未知の世界だ。
あの球体、水槽じゃなくて本当に空中に「浮いてる」んだけど……どういう仕組み? 重力操作? 魔法?
……そう、魔法。
この国には確かに存在する。けれど扱える者はごくわずかで、一種の特権階級らしい。商売に使うには「免許」が要るとか。
魔法なら私はこの目で見たことがある。砂漠でフードを被った赤い目の女性に水をもらった時。あれは手品なんかじゃなかった。
私がここに転移したのもおそらく魔法。
そして――私が最初に不当逮捕されたのも、そのせいだ。魔法を使うスパイ、あるいは魔族だと疑われ、魔法発動に欠かせない口と手の自由をまず奪われた。最終的に、私が「魔法を使えない無能」だと判断した偉そうな騎士団のおっさんが拘束を解き――代わりに私を労働力という名の家畜にした。
……思い出すだけで腹が立つ。あのおっさんの頭頂部に、ピンポイントで鳥のフンが直撃する魔法とかないかな。
「……フロッケン、フロッケン……」
念仏のように呟きながら歩いていると、通りの向こうから、獣の皮を吊るした店が目に入った。
店の軒先には、銀色の毛皮が風に揺れている。
あれだ。たぶん、あれだ。キラキラしてる。高そう。私はごくりと唾を飲んで、その店に近づいた。店主は大柄な男性で、腕には丸太のような筋肉が浮き出ている。腰には血の染みた前掛け。手には中華包丁みたいな刃物。
こ、こわ……いや、こわくない。職業柄、血がついてるだけだ。肉屋だもん。返り血くらい浴びるさ。
私は震える手で地図とメモを見せた。
「ふ、ふろっけん……にく、ください」
つたない発音。声も裏返った。店主は一瞬だけ目を見開いて、それから豪快に笑った。
「《《あいよ》》」
短い言葉。でも、意味は分かった。肯定だ。あぁ、通じた……!
嬉しすぎる。言葉が通じるって素晴らしい。人類の叡智だ。文明の勝利だ。覚えている限りのお礼の言葉を述べて、包まれた肉を受け取り、逃げるようにその場を後にした。
ミッション成功。やったぜ。怪しまれてミンチにされて、フロッケン肉の隣に「異世界人肉」として並ぶバッドエンドまで想像してたけど、本当に良かった。
帰り道のことだった。
路地の片隅で、杖をついたおじいさんが蹲っていた。周りに人だかりはない。大通りの喧騒にかき消されて、誰も気づいていないのか。
私はとっさにそのおじいさんに駆け寄った。おじいさんは長い白髪を束ね、深い皺の刻まれた顔をしていた。ボロボロの長衣は砂埃にまみれている。そして何より――その顔色が、土気色を通り越して青紫色だ。
「だ、大丈夫ですか!?」
日本語で叫んでしまった。
おじいさんは私の顔を見て驚いたような表情を浮かべ、何か言った。けれど、その言葉は私にはただの雑音にしか聞こえない。
あぁ、分からん! 私は首をかしげる。おじいさんは再び何か言った。必死な様子で、私の腕を掴んでくる。握力が弱い。指が冷たい。
いや、まじでわかんないっす。困ってる人がいたら助けたいけど、言葉の壁はベルリンの壁より高い。周りに助けを求めようとするが人がいない。どうすればいいんだ? ジェスチャーで意思疎通? 救急車を呼ぶ? そもそも救急車って概念あるの?
おじいさんは何かをぶつぶつとつぶやき始めた。
呪文のような、リズムのある言葉。顔はさらに青白くなり、額には脂汗が玉のように浮かんでいる。呼吸も浅く、ヒューヒューと鳴っている。
これ、かなりまずい状態なんじゃ……。心不全とか?
その時――おじいさんの指先が淡く光った。細く震える指を、私の眉間の方へと誘導してくる。
――ちょっと待て、何!? 攻撃!?
そう思う間もなく、視界が一瞬だけホワイトアウトして、晴れた。
頭の中に、パチンとスイッチが入ったような感覚。そしておじいさんの声が――鼓膜を通さず、ダイレクトに脳内へ聞こえてきた。
「わたしの言葉が分かるか?」
「え、分かる……」
え、今のなに?
脳内に直接意味が書き込まれたような感じ。自動翻訳アプリを脳に埋め込まれたような。
え……魔法……?
「そうか……助かった。ではお願いしたい。紅心草という薬草を買ってきて欲しい。急いでくれ。これがないと、私は……」
おじいさんの声が、途中でかすれた。苦しそうに胸を押さえている。さっきより悪化してる? やばい。本当にやばいやつだ、これ。
「ここから百歩くらい先にある肉屋の店主に聞けば出してくれるだろう。それをもってきてくれ。代金はこれで……」
震える手で差し出された革の大袋。ずっしりとした重み。中を覗くと、金貨がぎっしり詰まっていた。金貨は日本円にして1枚10万くらいの価値があるらしい。
え、こんな大金持ち歩いてるの? 不用心すぎない? 私が持ち逃げしたらどうすんの?
それはさておき――確かにおじいさんが口にしているのは未知の言語なのに、私の脳内では完璧な日本語として再生されている。
すごい、めちゃくちゃすごい。超高性能リアルタイム翻訳機能。SEとしてそのアルゴリズムが気になりすぎる。
けど、今はそれどころじゃない。
「……肉屋って、なんで肉屋? 肉屋に薬草なんか売ってるんですか?」
「知らん。いいから早く……」
知らんってなんだし。とりあえず私は全力疾走した。
今日は買い物依頼が多い日だ。
たどり着いたのは――さっきのこわいおじさんの店じゃん……。
息を切らせながら店に駆け込むと、さっきの筋肉だるま店主が驚いた顔でこちらを見た。作業中だったのか、手には包丁。血が滴っている。ホラーだ。
「あの、紅心草ありますか? 急いでます!」
「ん? あんたはさっきの……」
通じる。通じてる!
私の言葉も、店主の言葉も、何一つ詰まることなく理解できる。
「倒れてたおじいさんに頼まれて……!」
「……倒れてるだと? あぁ、すぐに準備する」
店主は急いだ様子で、店の奥の棚から小さな布袋を取り出した。
「あんた……さっきと全然違うな。ちゃんと言葉話せたんじゃねぇか」
魔法の力だよ☆(心の中で)
店主は紅心草の入った袋を私に放り投げた。
「あいよ。早く持ってってやれ」
店主に言われるがまま革袋を差し出すと、彼は中から代金分の貨幣をつまみ出し、残りを返してくれた。私は礼もそこそこに、おじいさんのもとへ走った。
走りながら、周囲の音が意味を持って耳に入ってくることに気づいた。
「今日の魚、新鮮だよ!」
「ちょっと、押さないでよ」
「母ちゃん、これ買ってー」
「値切りはダメだって言ってるだろ!」
世界が、急に色づいた気がした。
言葉が分かるって、こんなにも違うんだ。今まで「雑音」としか聞こえなかった音が、全部意味のある「情報」になる。
これが、言葉の通じる世界。私が欲しかったものだ。
おじいさんのところに戻ると、彼はさらに小さくなっていた。
「これで良いですか? 大丈夫ですか!?」
「あぁ、それだ……」
おじいさんは袋をひったくると、中身を直接口に入れた。乾燥した葉を、そのままバリバリと噛み砕く。
え、そのまま食べるの? お湯で煎じるとかじゃなくて? 直食い? ワイルドすぎる。
しかし、その効果はすぐに現れた。おじいさんの顔色が見る見るうちに良くなっていく。土気色が引き、赤みが戻る。荒かった呼吸も、嘘のように整っていく。
――すごい。即効性が強すぎる。劇薬か?
「大丈夫ですか……?」
「あぁ、助かった。魔力の使いすぎで心臓への負担があってな。それを紅心草が抑えてくれる……」
「魔力……。あの、私この世界の言葉あまり分からないはずですけど、こうやって普通に会話できてるのは……魔法ですか?」
「言語が分からんようだから、分かる魔法をかけた。翻訳の術式だ」
「魔法使いさん……ですか」
「そうだ」
「すげぇ」
素直な感想が口から出た。語彙力が死んだ。
だっておとぎ話じゃん。フィクションじゃん。でも現実に、私の脳は異世界語を日本語として処理している。
おじいさんは立ち上がり、埃を払った。さっきまでの瀕死状態が嘘のように、しっかりとした足取りだ。ピンピンしている。
肉屋の店主がこちらの様子を見に来たが、おじいさんが回復したのを確認すると店の方に戻っていった。
「あぁ、ではまたどこかで。これは礼だ」
私からお金の入った袋を受け取ったおじいさんは、その中の一枚を取り出して私に渡して丁寧に頭を下げた。
え、もう行っちゃうの? ちょっと待って。
「待ってください!! この魔法の効果っていつまで続きます?」
「翻訳魔法か。これは一時的なものだ。夕方ごろには切れるだろう」
「は!? 夕方!?」
それじゃ困る。
せっかく手に入れた「言葉の壁を超える力」が、あと数時間で消失? 体験版にもほどがある。
私は必死に食い下がった。
「あの……本当にお願いです、ずっと言葉が分かるようにしてくれませんか? 私、急に異世界に来ちゃったみたいで……言葉が分からなくて、本当に困ってて……。これあげますから!」
先ほどおじいさんから謝礼としてもらった金貨を返す形で渡した。
おじいさんは私の顔をじっと見つめた。その目は、何かを探るように鋭く、そして底知れない光を宿していた。ただの老人ではない。百戦錬磨の魔術師の目のように見える。
「ふむ……。永続効果のある魔法には多大な魔力が必要だ。それに、かけられる側の正式な同意も要る。魔法協会の決まりでな。こんな金貨一枚でどうこうできる話ではない」
おじいさんは杖をコツンと地面に突いた。
「わたしの家に魔力を増幅させるアイテムと、契約の同意書がある。そちらで手続きをしよう。ついて来るがよい」
同意書……。ネットサービスでよくある『利用規約に同意します』のチェックボックスの物理版か。
え、これって追加で魔法かけてくれるってことで良いの? ……怪しい。
冷静に考えれば、知らない爺さんの家についていくなんて、事案だ。
姉に連絡……いや、連絡手段がない。スマホないし。
でも。
この「言葉が分かる」というチート能力。これを逃したら、また地獄のような終わりのない言語学習の日々に戻らなきゃいけない。
それは嫌だ。絶対に嫌だ。
私はごくりと唾を飲み込み、その怪しげな背中を追うことにした。




