義妹の策略で婚約破棄させられたので、わたくしは国を奪い取ることにしました
「エステル・グランヴィア、君との婚約は破棄する」
その言葉が放たれた瞬間、エステルの世界は静止したかのようだった。
言葉を発したのは、ソレイユ王国の第一王子、フェルナンド・ソレイユ。若き英雄と讃えられる、数々の功績を重ねてきた王族。そして、エステルの婚約者だった男──。
彼の隣には、あどけない笑みを浮かべる少女が寄り添っていた。フェルナンドの妹、イライザ王女である。
「わたくしたちを苦しめるような女性なんて、王家にはふさわしくありませんわ」
そのささやきは、エステルの胸に深く刺さった。
この婚約破棄が、イライザ王女の策略によるものであることを、エステルはすでに理解していた。
◇
エステルは、隣国アルトワのグランヴィア公爵家の長女。冷静沈着で穏やか、そして礼儀正しい淑女。その裏には、戦略・政治・外交・経済、あらゆる分野に秀でた天賦の才が秘められていた。
幼少のころから「神童」と称された彼女は、才知を誇ることなく、常に一歩引いて他者を立てる生き方を貫いてきた。
中でもフェルナンド王子に対しては、徹底して陰で支える道を選んだ。
「この改革案は素晴らしい! よく思いついたな、フェルナンド」
「ありがとうございます、陛下」
王子の提案として称賛された施策は、すべてエステルの導きによるものだった。彼女は、あくまでも「気づくためのヒント」を与えるだけ。フェルナンドが自らの才覚で成し遂げたと錯覚できるよう、巧みに誘導していたのだ。
フェルナンド本人も、自分の能力で国政を動かしていると信じて疑わなかった。周囲の者たちもまた、その着眼点と決断力を称え、「将来有望な王子」と期待していた。
誰一人として、その背後に彼を支える存在がいたことに気づかなかった。いや、気づけるはずがなかった。エステルがあまりにも巧妙に、「陰」に徹していたからだ。
(この国が安定するなら、わたくしの名前など必要ありません。それに、王子が優秀だと思われたほうが、内外に対しても都合が良いでしょう……)
そう考え、エステルは王子を支え続けた。「王子のため」というより、「ソレイユ王国の繁栄のため」という思いのほうが、ずっと強かった。
しかしその均衡は──
イライザの存在によって崩されていった。
◇
「はじめまして、エステル様! 妹のイライザ・ソレイユですわ!」
王宮に初めて招かれた日のこと。咲き誇る庭園を駆けるように現れた少女──イライザは、まるで絵画の中から抜け出したように可憐だった。
金髪に大きな青い瞳、ふわりと広がるドレス。無垢な笑顔に包まれながらも、エステルはふと違和感を覚えた。
(この子……わたくしを値踏みしている……)
その視線は一瞬だけ、獣のように鋭く光り、次の瞬間にはまた天使のような笑みに戻っていた。
「わたくし、エステル様と仲良くなりたいですわ!」
「ええ、こちらこそ」
微笑みながら、エステルは内心で警戒を強めた。
イライザは典型的な箱入り娘だった。ソレイユ王家には四人の子どもがいたが、女子は彼女一人。そのため、国王夫妻の愛情は自然とイライザに集中し、兄たちも彼女を特別扱いするのが当たり前となっていた。
王と王妃に溺愛され、誰にも叱られずに育ち、ワガママは日常茶飯事。自分の欲しいものはすべて手に入り、誰もそれを咎める者はいなかった。兄フェルナンドの存在も「自分だけのもの」と思い込んでいた。
イライザにはこれまで幾度となく縁談の話が持ち上がったが──
「兄様以上の男性でなければ婚約などしませんわ」 とすべてを撥ねつけてきた。
その執着の強さは、周囲が軽く笑って済ませるには、少し異質なものだった。
そして今──その兄が、自分ではなく、エステルを優先し始めたことに、イライザは耐えられなかった。
本来、両国の友好の証としては王女が嫁ぐはずだった婚約。だが、アルトワには王女が存在せず、最も信頼のおける名家──グランヴィア家の長女であるエステルが選ばれたのだった。
エステルはその責務を果たすため、誠心誠意ソレイユのために尽くしていた。だが、イライザの嫉妬は静かに、そして確実に彼女を蝕み始める。
「エステル様って、昔はふくよかだったそうですわね? 今もその名残があって、とても愛らしいですわ」
──無邪気を装った侮辱。
ある時の茶会では──
「あら、エステル様、ご到着が遅れましたのね? まあ、皆をお待たせするのもご愛嬌かしら」
──イライザが集合時間を偽って伝えていたにもかかわらず、非難の矛先はエステルへ向いた。
フェルナンドへの贈り物として選んだ手作りの香水も、渡る前にすり替えられていた。
「兄様、こんな香り、あまりお好きではないでしょう?」
──贈り物が手に渡る瞬間、イライザは眉をひそめ、そっと囁いた。
さらに、彼女は侍女たちを操り陰口を言わせ、貴族の子女たちに根も葉もない噂を広め、じわじわとエステルを孤立させていく。
それでもエステルは耐えた。
いつかイライザも、自分を兄の婚約者として認めてくれる──そう信じていたから。
だが──
ついに、決定的な事件が起こる。
◇
舞踏会の翌朝、王宮が騒然としていた。
「イライザ王女のティアラが盗まれました!」
代々王家の姫君に受け継がれてきた、由緒ある宝飾品。その紛失に、廷臣たちは色めき立ち、宮中の空気は一変した。
「そんな、大切なものが……」
エステルも驚き、心配の言葉を口にした。
「昨夜、ティアラは舞踏会が終わって、外しましたの。控室に置いてから、兄様に挨拶しに行って……その後、自分の部屋に戻ったので、朝まで気づかなかったのですけれど……」
イライザはしおらしい様子でそう語ると、ちらりと視線をある人物に向けた。
「兄様とお話しした後、控室の前の廊下で……エステル様とすれ違いましたわよね?」
場が凍りつく。
「……ええ。確かに、わたくしはそこにいましたが」
エステルは落ち着いた声で答えた。だがイライザは、あくまで悲しげな表情のまま続けた。
「もちろん、まさかとは思っておりますわ。ただ……控室の前を通る人なんて、限られておりますから」
明言はしない。だが、その静かな疑念は、周囲の空気に波紋を広げた。
そして──
「陛下! エステル様の部屋にある植木鉢から、ティアラが発見されました!」
駆けつけた近衛兵の声に、廷臣たちがどよめく。
それを見た国王が、重々しい声で告げた。
「エステル嬢、そなたが犯人であるとは断じて決めつけぬ。しかしながら、イライザの証言もある……。婚約者とはいえ、王宮内でこのような騒動の中心に立たれたことは、重く受け止めねばならぬ」
「陛下、わたくしは何も……」
「真偽は改めて調査する。ただしそれまでの間、そなたは自室にて謹慎を命ずる」
エステルは唇を噛み、ただ静かに頭を下げた。
その後ろで、イライザがわずかに涙を浮かべ、ほくそ笑む。
(……完全に仕組まれた罠)
冷たい怒りが胸を満たす。しかし、今は動く時ではなかった。まだ、フェルナンドを信じていたから。
けれど──
その信頼は、あまりにあっけなく裏切られる……。
◇
「エステル・グランヴィア、君との婚約は破棄する」
フェルナンドの顔には失望と怒りが浮かんでいた。
「わたくしたちを苦しめるような女性なんて、王家にはふさわしくありませんわ」
フェルナンドに寄り添いながら、イライザが囁いた。
「君は、イライザを何度も傷つけた。本来ならば、こんな場で話すべきではないが……もはや我慢ならない。これ以上、君を傍に置くわけにはいかない」
エステルは静かにフェルナンドを見つめた。かつての信頼も、愛情も、彼の瞳には微塵も残っていなかった。
(イライザの言葉を信じたのね……)
フェルナンドはイライザに唆され、エステルをソレイユから追放する決断をしたのだ。
胸に鋭い痛みが走る。それは失恋の痛みではなく、信じてもらえなかったことへの苦しみだった。しかし、エステルはその痛みにも動じることなく、冷静さを保っていた。
「わかりました。フェルナンド様、どうかお幸せに……」
彼女はドレスの裾を持ち上げ、一礼した。
「すぐにでも王宮を出ていただきたい。不要な噂が立つ前にな」
フェルナンド王子の言葉は冷たく、容赦なかった。
エステルは黙って頷いた。
(……この数年間、あなたに費やした知恵も時間も、すべて『なかったこと』にされるのですね)
悲しみよりも、ただ虚しさが生まれた。
エステルは自室に戻り、荷物の整理を始めた。持っていくものは限られており、すぐに作業は終わった。王宮で使っていた書簡や資料、政策草案が静かにまとめられた。
「エステル様……どうして……」
そう泣きながらすがってきたのは、彼女を慕っていた侍女の少女だった。
「どうして王子様は、エステル様を……」
「いいのよ。ここでの生活が終わったというだけ……」
そう微笑んで、エステルはそっと彼女の髪を撫でた。
──真実が明るみに出る日が、きっと来る。
(わたくしは、わたくしのやり方でソレイユの民を守ってみせる)
その静かな決意を胸に、エステルは王宮を去った。
◇
エステルが追放されてからというもの、ソレイユ王国は見る間に瓦解していった。
フェルナンド王子の政策は稚拙で、的外れ。経済は沈滞し、秩序は崩れ、貴族たちの苛立ちは臨界点に達していた。
無理もない。これまでの政治は、何一つフェルナンドの才覚によるものではなかったのだから。エステルという陰の賢女が、全てを裏で操っていたに過ぎない。
「なぜだ……なぜ、うまくいかない……?」
己の無能を省みることもなく、彼はただ嘆き続けた。真実を口にする者は遠ざけられ、お追従を述べる者だけが周囲を固めていく。
だが、民の目は欺けなかった。
「やはり、王子は無能だったか」
「公爵令嬢がいなくなった途端に、失政ばかりだ」
そんな声が、王都の広場でも、貴族の晩餐会でもささやかれ始めた。
さらに追い打ちをかけるように、王宮から有能な人材が次々と姿を消す。──それも当然だった。エステルが見抜き、育て、配していた者たちが、忠誠の対象を失ったからだ。
混乱と混迷を極めた国政の責任を問われ、国王はついに退位に追い込まれた。そして、その場しのぎとはいえ、王位はフェルナンドに引き継がれることとなった。
◇
一方、故郷アルトワに戻ったエステルは、弟たちとともに父の政務を補佐していた。
そんな折、彼女のもとに届けられたのは、アルトワ第一王子・ジェフリーからの正式な縁談だった。
それは、単なる政略結婚ではなかった。
ジェフリーは、幼き日に一度だけ出会ったエステルの姿を今なお胸に刻んでいた。才気と気品を兼ね備えた少女。その記憶は、いつしか彼の心の奥深くに静かに根を張っていたのだ。
だが、当時から既にエステルには婚約者がいた。ジェフリーは想いを胸に秘め、ただ遠くから見守ることしかできなかった。そしてそれ以降、いかなる良縁の話にも応じることなく、王族の間では密かに問題視されていた。
「いずれ国を継ぐ身でありながら、なぜ縁談を断り続けるのか?」
「理想の妃を求めすぎではないのか?」
──そんな囁きが王宮に流れるなか、ジェフリーが自らエステルに縁談を申し出てきたのだ。
「どうか、我が妃として迎えさせてほしい。あの日、あなたに出会って以来、ずっと胸の奥に想いを抱き続けてきた。だが、あなたにはすでに婚約者がいた。だから私は、誰の手も取らず、ただ見守ることしかできなかった。──けれど今、ようやく言える。あなたとともに歩みたい。どうか、その才を、この国の未来のために、共に振るってくれないか」
それは、まっすぐな敬意と、純粋な好意に満ちた申し出だった。
エステルは悩んだ。けれど、数日後──その申し出を受け入れる決断を下した。
「こちらこそ、あなたのお力になりたいわ。でも、一つだけ条件があります」
毅然としたその声に、ジェフリーは静かに耳を傾けた。
「──ソレイユを属国とすること」
ジェフリーの目がわずかに見開かれる。
「ソレイユを……?」
「ええ。わたくしは、あの国への『責任』があるのです」
その言葉に宿っていたのは、復讐の念ではなく、揺るぎなき決意だった。
フェルナンドやイライザには不義理な仕打ちを受けた。それでもエステルは、ソレイユを──そして、そこに生きる人々──を心から愛していた。だからこそ、国を繁栄へと導けなかったこと、志半ばで中枢から退いたことを悔いていた。どのような形であれ、ソレイユを繁栄へと導きたかった。だが、もはやソレイユ王家に再び関わることは叶わない。ならば、アルトワの支配下に置く。それが、エステルの導き出した答えだった。
「わたくしは、わたくしのやり方で、あの国に『責任』を果たします。イライザにも、フェルナンドにも──相応の代償を払ってもらいます」
エステルの瞳に迷いはなかった。
ジェフリーはしばし沈黙し、やがてふっと息を吐いて頷いた。
「……わかった。そのときが来たら、君に一任しよう。僕は、君の『刃』になる。君の怒りも悲しみも、すべて僕が引き受ける」
エステルは初めて、少しだけ安らいだように微笑んだ。
「ありがとう、ジェフリー。わたくし……きっと取り返します。私の名誉も、ソレイユの未来も」
こうして、エステル・グランヴィアの「復讐」と「救国」の物語は、静かに幕を上げた──。
◇
かつて、エステルはソレイユとアルトワの共栄を願い、フェルナンドに幾度も示唆を与えていた。彼女の意図を知らぬまま、フェルナンドは経済政策を進め、結果的に重要物資の流通をアルトワ経由に集中させる体制が築かれていた。
(まさか、あのときソレイユの未来を思って築いた仕組みが──皮肉にも、ソレイユを滅ぼす切り札になるとは)
そう思いながらも、エステルは迷うことなくソレイユへの輸出停止を命じた。
「アルトワが……我が国への輸出を止めた、だと……?」
報を受けたフェルナンドは、顔色を失って叫んだ。
「なぜだ……!? あれほどの盟友だったはずなのに!」
内政の混乱に忙殺されたフェルナンドには、国外の動きに目を向ける余裕もなく、ましてやエステルがアルトワの中枢にいるなどとは夢にも思っていなかった。
エステルはさらに、急速に台頭する周辺諸国と経済同盟を築き、アルトワを中心とした強固な経済圏を構築。ソレイユは、国際社会から完全に孤立させられた。
そして、計画の最終段階が始まる。
「ソレイユ王国の存亡について、国際会議を設けよう」
そう提案したのは、ジェフリー王子だった。
周辺諸国の代表が集まる中、アルトワの主導により「共同保護領」という名目の属国化が提案された。
だが、その実態は──完全な従属。
拒めば、経済封鎖と武力行使。受け入れれば、王族としての立場を保つ代わりに、実権を手放す。
すべてはエステルの描いた筋書き通りだった。
◇
一か月後。
ソレイユ王国は、もはや国家の体を成していなかった。外交は破綻、経済は崩壊。王都ですら物資が不足し、民衆は次々と国外へ脱出。残されたのは、王家と一部の貴族だけ。
唯一残された道──それは、アルトワによる「保護」、すなわち属国化だった。
その調印式のため、アルトワから使節団がソレイユに到着する。
先頭に立っていたのは、ジェフリー王子と、その婚約者──エステル・グランヴィア。
玉座の間へと堂々と歩み入るエステルの姿に、フェルナンドとイライザの顔が引き攣る。
「エステル……様!」
イライザは蒼白になり、信じられないものを見るように名を呼んだ。
エステルは彼らに一瞥もくれず、玉座の前まで進んだ。従者たちの整然とした動きが、両国の「格」の差を際立たせていた。
それでもイライザは、まだ取り戻せると信じていた。
「ま、待ってくださいまし! エステル様! そろそろ水に流してもよろしいでしょう? わたくし、本当に反省しておりますのよ? 昔のご友情を思い出して……ね? 女同士の信頼が大切な時ですわよ!」
なおも上から目線のまま、必死に取り繕おうとする。
「ですから! 今ならまだ間に合いますわ! お願いすれば、ジェフリー殿下も──」
その声を、エステルの冷ややかな声が切り裂いた。
「……誤解? 嫉妬? ──それを理由に、一国の未来と民の幸せを踏みにじったのです。王族としての恥を知りなさい!」
「ま、待って、話を──!」
フェルナンドが叫ぶ。
「黙れ、イライザ! 全部お前のせいだ! 俺は……俺は反対したんだ! エステルを追い出すなんて、何度もやめろと言ったのに!」
「は、はあ!? 兄様だって、わたくしの言葉を信じておりましたでしょう!? ご自分だけ被害者のつもりでいらっしゃらないでくださいまし!」
──惨めな責任のなすりつけ合い。
フェルナンドは必死に手を伸ばす。
「エステル、君さえ戻ってきてくれれば……! この国は、俺は、きっとやり直せるはずだ……っ!」
イライザも泣き叫んだ。
「ねえ、エステル様! わたくしたち、友人でございましょう? こんなことになるなんて、思ってもいませんでしたのよ!」
だが──
エステルの目に、同情は一切浮かばなかった。
その声は、冷たい銀の刃のようだった。
「あの日、あなたたちがわたくしを捨てた瞬間──すべては終わっていたの。……もう遅いわ」
ジェフリーが一歩前に出て、厳かに告げた。
「調印書に署名を。さもなくば、アルトワからの支援は即座に打ち切られる。それが我が国の方針だ」
イライザはその場に泣き崩れ、フェルナンドはうなだれながら署名した。その瞬間、ソレイユ王国は正式にアルトワ王国の属国となった。
屈辱にまみれ、もはや逆らう力を失ったフェルナンド。玉座を見上げながら、イライザは泣き叫ぶ。
「こんなはずではございませんでしたのに……!」
だが、誰一人として彼女に応える者はいなかった。
エステルは振り返り、二人を見下ろして静かに告げた。
「これが、あなたたちが選んだ未来。愚かさが導いた、当然の結末よ」
そう言い残し、エステルはジェフリーとともに、揺るぎない足取りで新たな時代へと歩み出した。──新たなる王国を築くために。
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