9. 男の子と子ネコ
すずのある とこのさす たすけて
『たすけて』という字を見て、私は全身から、冷や汗が吹き出るような感覚に襲われた。
もっと早く行くべきだった。
私が、邪魔をしたから。
どうして、私は――。
パンッと乾いた音がして、風が顔に当たる。
顔を上げると、目の前で、六十里さんの両手が祈るように合わさっていた。
「落ち着け、山田。大丈夫だから」
「大丈夫って。そんなのわかんないじゃないですか!」
「確率の問題だ」
「確率?」
「そうだ。起こりうる問題と現在の状況、それと常識を当てはめるんだ。本当に緊急事態だったら、叫ぶか、誰かに助けを求めるはずだ。なによりも、ボウズは一旦外に出たのに、境内に戻ってる。危険なら、行かない」
諭されて、ハッとする。
「それと『とこのさす』だが、『とこのうら』が正解だろうな。『さ=3』と『9=す』なら、『うら』も当てはまる。なによりも、床をトコと小学二年生が使うとは思えねぇ」
「『すずのあるとこ』……すず、すず……鈴? あ! 鈴のあるとこって、本殿のことかも! 鈴は本殿に吊るされてるから」
「なるほどな。良いぞ、山田。きっかり三分だ。行くぞ!」
六十里さんが、ボールペンや鏡を持ったまま、灰色の鳥居をくぐって行く。
境内は、白っぽいコンクリート塀でぐるりとコの字に囲まれていた。
鳥居から真っ直ぐに伸びる参道は、百メートルもない。参拝客を迎える親子の狛犬を通り過ぎ、慎ましやかな本殿に向かって進む。手を清める、屋根のついた手水舎を通り過ぎて、一対の石造りの灯籠と提灯の横に立つ。身近い参道。もう正面は、本殿だった。
(良かった、合ってた)
本殿には、鈴が三つとカラフルな細長い紐が三本、赤青黄と垂れ下がっていた。
木の葉の影でモザイク模様になった地面を見て、ここが一面、黄色に染まる秋を思い出す。イチョウがハラハラと落ちて、絨毯みたいになるのだ。その光景を見るのが好きで、ここでお参りをするようになったけど、それが役に立つなんて思わなかった。
隣で、手を叩く音がした。
六十里さんがペコッとお辞儀をしたかと思えば、スタスタと本殿の裏に向かう。慌てて、私も真似た。
「しっかし、こりゃすげぇな」
本殿の裏は、雑草が生え放題だった。
私の腰くらいはありそうな雑草は、自由、のびのび、すくすくを体現したみたいに、色んな草が四方八方にピョンピョンと生えている。私がこびとだったら、遭難間違いなしだ。
(本当に、こんなところに子どもがいるの?)
あふれ出る生命力に引いている私と違い、六十里さんはズンズンと雑草のなかに入っていく。掻き分けるとかじゃない。踏みつける勢いで、彼は進む。
コンクリート塀の間近、六十里さんが立ち止まり、カサカサと聞こえていた音が止む。彼の腰がググッと前に曲がり、消えた。
「六十里さん?!」
なんとかして見ようと、つま先立ちをしたが、ダメだった。なにも見えない。
(すっごい嫌だけど……)
意を決して、雑草地に足を踏み入れて、一歩。
「大丈夫か、ボウズ。待て。なにしてんだ、おまえ?」という、六十里さんの声。ついで、「おじちゃん!」と、男の子の嬉しそうな声が聞こえた。
ザザッと、勢いよく緑が揺れる。
(ああ、もう!)
こんなところを誰かに見られたら、六十里さんが不審者扱いされてしまう。嫌すぎるけど、行かなければ。チクチクどころか、スパッと切れてしまいそうな、草に嫌悪感を覚えながら進んでいると、派手なアロハシャツの柄が見えた。
目立つ服に助けられた。なんて思っていると、セミの声に交じり、ミァー……ミァー……と、弱々しい鳴き声が聞こえてきた。
「子ネコ……?」
「お、女子高生。お疲れさん。麦茶を出してくれるか?」
「お疲れさん、じゃないですよ! 女子高生(私)の肌に傷がついてたら、六十里さんのせいですからね!」
バッグからペットボトルを出して、ちょっとだけ顔を曇らせた六十里さんに手渡す。
「だ、大丈夫だろ。まだ若いんだ。治る、治る。……治るよな?」
心配そうな六十里さんの顔が、ピョコッと小さな体に遮られた。
男の子だ。
白いだろうシャツは、汗と土と草の汁で迷彩模様みたいになり、顔も汗でぐちゃぐちゃ。日に焼けた腕と丸出しの膝小僧には、土と砂利と葉っぱがついていた。
無事で良かったという安堵と、本当にいたという思いで、ホッと胸をなで下ろす。
「ねぇねぇ! なに話してるの? ぼくが先だよ!」
「待て、待て。おまえは、まず、茶を飲め」
六十里さんはペットボトルを開けると、グイグイと腕を引っ張る男の子に、手渡した。よっぽど喉が渇いていたのか、ンクンクと、勢いよく麦茶が減っていく。
でも、なんでこの子は、こんなところにいたんだろう。
雑草を両手で掻き分けて、腰を屈めたところで、私は固まった。
ひび割れたコンクリートから、ホワホワの毛玉が生えていた。
ミァー……ミァー……と鳴いている。
「え、子ネコ?! 挟まっちゃったの?!」
「そうなの! ねぇ! おじちゃんなら、たすけてくれるでしょ!」
男の子の持つ、ペットボトルの麦茶が揺れた。
彼のぱっちりとした目は、キラキラと輝いている。アンパンマンが登場したときと一緒だ。期待と希望に溢れた目で、彼は六十里さんを見ていた。
「助けるって、この子ネコは、いつからこうだったんだ?」
「わかんない。ぼくは、ねこがいるって聞いただけだから。ぼくんち、ママがどうぶつダメで、でも、ぼくはねこ好きだから。だから」
「そうか。聞いてっていうのは、学校の友だちに、か?」
「うん。でも、見つけたとおもったら、こうなってて。だから、ちょっとつかんで引っぱったんだけど。すごい声でないちゃって、こわかった」
「そうだな。ボウズ、おまえも突然つかまれて、引っ張られたらびっくりするだろ?」
「うん……」
「それと一緒だ。あと、痛かったんだろうな」
「そっか。ごめんなさい……」
男の子は、しょんぼりと頭を下げた。
私は、ズイと二人の間に割って入った。
「ねぇ、きみ。なんで、直接、言わなかったの? おじさんに、ねこを助けてって」
「だって、あやしい人には近づかないようにしましょうって、言われてたから。まだクラスのお友だちもいたし……」
フンフンと私はうなずく。
「じゃあ、暗号にしたのは、なんで?」
「かっこよかったから!」
あまりに単純明快で、浅はかすぎる答えに頭がくらっとした。人の振り見て我が振り直せとはいうけれど、私もこんな感じなんだろうかと不安になる。
「あ、あと、しらない人はこわいけど、おじちゃんならきっとわかってくれるし、だいじょうぶだとおもったんだもん。だって、なくしたカギも見つけてくれたもん!」
フフンと胸を張って喋る男の子に、六十里さんは深いため息を吐いた。
「……誰かに頼るのは、良い判断だ」
男の子は嬉しそうに笑っている。
私も、六十里さんなら、この子ネコもきっと助けてくれる。そう思っていた。