7. 優しいハリネズミ
「んなこと、するわけねぇだろ! 子どもを想う親の気持ちを、痛いほど知ってる俺が!」
びっくりした。
だって、クマ先生みたいに薬指に結婚指輪もつけてないし、この人からは家庭の匂いを感じなかった。
「お子さんが、いるんですか?」
「娘がいる。俺の全部といっても良いくらい、大事な娘だ」
彼の声と目には、怖いくらい静かな怒りが宿っていた。
それまでの彼の気遣いが、過剰なまでの私への配慮が、ようやくわかった。パズルのピースがパチンとはまるように、ガラスの靴がシンデレラの足に収まるように、頭がクリアになっていく。
(なんで、疑ってしまったんだろう)
でも、私の悔恨は六十里さんには届かない。
「……俺を疑って帰らないんなら、この暗号を解いたら、俺は去る。それで良いだろう?」
「うん」とは、言えなかった。でも、否定も出来なかった。
一瞬でも、怖いと疑ったことは事実だから。
だから、代わりに尋ねる。イエスともノーとも言わない、質問を質問で返す、ずるいやり方で。
「なんで、暗号を解くことにこだわるんですか?」
「……俺宛のメッセージだと思うからだ」
六十里さんが、ノートの切れ端を見る。
「境内を探したいなら、行けば良い。俺は止めない」
彼の声は、ステンレスのアイスキューブのように硬くて、冷たかった。
当然だ。あんなに酷い言葉を投げつけたんだから。
私は動けなかった。
ここで私が探しにいったり、警察を呼んだりするのは、たぶん違う。わからないけど、あの暗号を解けない人が探しに来るのは、男の子の望むことじゃない気がした。
「……男の子が、神社に入ってどれくらいになりましたか?」
「……二十五分くらいだ」
「男の子とは、どんなの会話をしたんですか?」
「それをおまえに話す必要があるか?」
「……もしかしたら、その会話がヒントになるかも知れないと思って」
最後の方は、自分でも驚くくらい声が小さくなってしまった。
彼の唇から伸びた白い棒が、ピコピコと小さく上下に動く。
(私、役立たずだ。もう、帰ろう)
私はバッグからペットボトルを出して、頭を下げる。
「酷いことを言って、ごめんなさい。麦茶は返します」
ガリガリッ、と棒付きキャンディーが砕け散っていく音がした。
私の胸がギュッと苦しくなる。
「ハァァ」と六十里さんがため息吐いた。その息で、雲が出来るんじゃないかと思うほど、深くて長いため息だった。
「……悪かった。大人気ない態度だった」
「なんで、六十里さんが謝るんですか?」
「……知らない人間を警戒するのは、当たり前の反応だからだ。俺の反応は過剰だった。不快になったのは事実だとしても、な」
「そう、ですよね。ごめんなさい」
「でもまぁ、後先を考えない、警戒心の薄いやつだと思ってたから、安心したわ。そのまま俺を警戒しておけ。それと、危険だと思う人間を怒らせるな。あぶねぇから」
「ウッ、……そのとおりデス」
ぐうの音も出ない。後先を考えないと言われたことも、正論もグサグサと刺さる。しかも、それがナイフとかじゃなくて、ハリネズミの針みたいだから、余計につらい。私を叱りながら、彼も自傷している。
今なら、ハリネズミのジレンマも、北風と太陽の旅人の気持ちもわかる。
さっきよりもずっと優しい声なのに、罪悪感がすごい。
「ごめんなさい」
「もう、良い。気にすんな。俺も気にしねぇから。それに、今は、優先すべきことがあるだろ?」
「メッセージの解読ですね」
「そうだ。ボウズが熱中症になる前に発見してやりたい。で、だ。山田が聞きたいのは、会話の内容だったな?」
私がコクンとうなずく。
さっきまでの険悪な雰囲気は、もう吹き飛んでいた。
感情で動くタイプっぽいのに、羨ましくなるくらい、切り替えの早い人だと思った。
六十里さんは、口からキャンディーのなくなった棒を引っこ抜いて、吸い殻入れにしまった。
「ボウズと話したのは、一昨日のことなんだけどな。なにを話したのかは、たいして覚えてねぇんだよ」
「え?」
「おまえ、割と感情が面に出るよな……」
彼は、額をポリポリと掻いた。
私って、そんなに、わかりやすいだろうか?
頬をムニムニと揉みながら、「拍子抜けだったのは事実ですけど……。なんて声をかけられたんですか?」と訊く。
「いいや。先に声をかけたのは、俺だ。俺に声をかけてきたのは、おまわり以外はおまえだけだったよ、女子高生。怪しい人間には声をかけねぇからな、普通は」
「怪しいって自覚があったんですね」
「……婉曲とか遠慮って言葉を知ってるか、女子高生」
「山田です。もちろんですよ。でも、ダイレクトに伝えるのも、時には大事かなって。なんですか、その目は」
六十里さんが残念な生き物でも見るように、私を見る。
不本意にも数秒、私たちは無言で見つめ合い、彼はそっと視線を外した。動物として、ちょっと勝った気がした。
「でも、なんで、声をかけたんです?」
「十分以上も半泣きのボウズが、俺の前を行ったり来たりしてみろ。もう、気になっちまうだろ? そのうち、ヒクヒク泣きはじめるし」
「それで、声をかけたと」
「ああ、そうだ」
「声かけ事案じゃないですか!」
私の反応に、六十里さんは面倒くさそうに顔を背けた。
「そうだよ。でも、無視をするのも可哀想だろう?!」
お人好しすぎて心配になる。壺とか押しつけられそうですね、と言い掛けて、やめた。失礼に失礼を重ねたいわけじゃない。代わりに、ゴックンと唾ごと言葉を飲み込んで、「そうですね」とうなずいた。
「それで、その子は、なにをしてたんですか?」
「家の鍵をなくしたとかで、探してたらしい」
「それは、半泣きになりますね……」
「だろ? 本当、見つかって良かったよ」
「六十里さんが鍵を見つけたんですか?」
「いや、俺は手助けをしただけだ」
「手助け?」
どんな手助けをしたら、なくした鍵が見つかるというのだろう。
魔法、手品、おまじない。そんな言葉が脳裏をよぎる。
「残念。全部、ハズレだ」
「まだ、なにも言ってないんですけど」
「目が期待を隠せてないんだよ。いいか? 俺は、状況を整理する手伝いをしただけだ」
「だけって。具体的には、なにしたんですか?」
「最後に鍵を見たのはいつか、とか。なくしたのに気が付いたのはいつか、とか。あとは、なんでこの辺りをずっと探してるのか、とか。不安や怒りとか、そういうのに支配されると、視野が狭くなりがちだからな」
「前ならえ」をするみたいに、六十里さんの手がまっすぐに伸びた。
「冷静なやつがいると、ちょっと落ち着くだろ? 俺がしたのは、それだ」
「六十里さんって、チョイチョイかっこいいですよね」
六十里さんのメガネの奥の目が、まん丸くなる。
(やっぱり、メガネ、似合ってない。髪もだけど。奥さん、何も言わないのかな?)
「いきなりなんだよ、気持ち悪いやつだな。飴が欲しくなったのか?」
「いりません。知らない人から、物を貰わないよう、言われてるし」
「ああ、そうか。賢明だ」
六十里さんが、強くうなずく。
「それで、鍵はどこに落ちてたんですか?」
「落ちてなかった」
「え?」
六十里さんの指が、道路の反対の駐車場をさす。さっきまで、彼が立っていた場所だ。
「駐車場?」
「ボウズは、あそこでチャンバラごっこをしてたんだ。ランドセルを置いて」
「チャンバラごっこ?」
「見たことねぇか? 傘を刀にみてぇに振り回すやつだ」
「あー、見たことあるかも。時代劇の真似ですよね?」
「そうだ。土砂降りの雨が、昼過ぎには止んだせいだろうな。楽しそうに遊んでたよ」
そういえば、と長傘を持ち帰ったことを思い出す。
「六十里さんは、それを微笑ましく見ていたと。でも、チャンバラごっごと鍵、なんの関係があるんですか?」
「それが、鍵はネックレスみたいに首から掛けてたらしんだよ。チャンバラごっこをするのに危ないから、外したらしいんだけどな」
「なるほど。それで、駐車場の近くに立っていた六十里さんの前をうろうろしてたんだ」
「そういうこった。ただボウズは、鍵を別の子に預けたと言ったんだよ」
「なんで?」
六十里さんが、愉快そうに小さく笑う。
「分かるぜ、その気持ち。けど、ボウズにとっては、それが当たり前のことだったらしい。チャンバラごっこに参加しないやつは荷物番をする、っていうのがな」
「じゃあ、荷物番の子から鍵を受け取りそびれた? でも、鍵は見つかったんですよね?」
「ボウズは、話してる途中で『鍵を受け取ってない』と言い出したけどな。でも、鍵を『その子の手は空っぽだった』とも、証言したんだよ」
「手品じゃないですか」
「手品か。まぁ、ボウズからしたら、手品みたいなもんだったかもな。鍵は、算数のノートに挟まってたんだから」
「鍵を預かった子が勝手にランドセルを開けて、なかに入れたってことです?」
「いや、たぶん、ランドセルのカバーと本体の間から入れたんだろうな。ボウズと話したのは、それっきりだ」
六十里さんの目は、再び、破れたノート見ていた。
男の子がメッセージを暗号にした理由はわからない。でも、なんで六十里さんにメッセージを託したのかはわかった。
たぶん、六十里さんは、男の子にとってヒーローなのだ。自分を助けてくれた味方。
「そういえば、ボウズのやつ、神社のなかに入ってから戻って来たんだよ」
「じゃあ、この暗号は用意してあったものじゃないってことです?」
「どうなんだろうな。でも、神社のなかで、なんかあったんだろうな」
私は、木々の間から、境内を覗き見る。
イチョウや杉の立木が整然と並ぶ境内は、セミはうるさいが、静かだ。人の気配がない。
「男の子が入ってから、参拝者は?」
「いねぇ」
チャンバラごっこをするような子が、こんなところに一人でずっと?
背筋が、ぞわっとした。




