4. 彼がバス停にいる理由
「でも、遅延も結構ありますよ。ていうか、バスも電車も、定刻通りに動くのは普通のことなんじゃないんですか?」
「普通、か。そう考えられるのは、良いことだな」
ふっと、彼の頬がゆるりと緩んだ。
「俺の地元は雪国なんだが、バスが時間通りに来ないのが普通だったんだよ。数分早く来たり、遅く来たり、な」
「そういえば、東京も、雪の日はダイヤが乱れるかも」
「だろうな。こっちは、雪に慣れてねえもん。でも、俺の地元はすごいぞ。夏でも冬でも、始発の停留所以外は、定刻通りに動かねえ。だから、そういうもんだと思ってたんだ。そしたら、この間、数十秒のズレでクレームになったのをネットニュースを見てな。驚いたね」
彼は、ジッと道路の向こう側を見ている。
「それで、バスを見てたんですか?」
「そういうことだな」
暇人なんだろうか。
「おーい。口に出てるぞ、女子高生。有給だよ、有給消化」
「ユーキュー?」
「あー。金のもらえる休みだな」
「あ、それ、知ってます。羨ましいやつだ」
「良いだろう?」
ニッ、と彼が笑った。どこか子どもっぽい笑い方。こんな大人もいるんだ、と私はちょっとびっくりした。
「もしかして、電車も遅れたりするんですか?」
「そういやぁ、シカやイノシシの追突で遅れることもあったな。これで満足か、女子高生?」
「ビミョーです」
「ビミョーかぁ。なにが不満なんだよ」
「だって、それなら、五日間もここに居る必要はなくないですか?」
「そんなことはないぜ。最低でも一週間。それも、午前と午後で日に五回は見ないと、検証には不十分だ」
即答だった。その言い方がなんか格好良くて、ちょっと悔しい。
「もしかして、探偵ですか?」
「は? なんでだよ」
「なんか、浮気の調査とかしてそうだなって。回数とか日程、具体的だったし」
「あー、なるほどね。でも、残念だったな。俺は、ただのサラリーマンだ」
その見た目で? という言葉は、ゴクンと飲み込む。
「よく、警察に捕まらなかったですね」
「おまわりは来たけどな。穏便に話したら、わかり合えたよ」
すでに、通報されていたのか。と、思うのと同時に、自分の知りたい欲求に従う強さに、曲げない意志に、チリッと胸の奥が痛んだ。
「すごいなー」
「は? 別に、すごかないだろ。ただ、バカなだけで」
「それは、そうかも知れないけど。でも、良いと思います」
「バカなのが?」
「違います。貫く姿勢が、です」
彼は少し驚いた顔をして、「そっか」と、くしゃと笑った。
どうしてか、わからない。けど、その笑みを見て、私は叶乃果を思い出した。あの、らしくない笑い方をした彼女を。
「さっき、『定刻通りに動くのは普通』って、言ったよな?」
「え、はい」
「『普通』や『当たり前』って、地域や国によって全然違うんだよ。たとえば、日本じゃ学校は四月はじまりだが、海外じゃあ九月からだろ?」
「らしいですね」
「あれは、子どもが農作業の手伝いをしていた頃の名残って説もあるけどな。でも、面白いよな。時代が変わっても、それが残り続けている」
「変える必要がないから、そのままなんじゃないんですか? あとは、面倒だからとか」
「たぶん、そうなんだろうな。でも、『普通』や『当たり前』の多くは仁義だと、俺は思ってるだよ。由来はなんであってもな。その無数の『普通』や『当たり前』が人々の小さな努力の歴史に見えてさ、好きなんだ。でも、『普通』は変わるだろう? 年代や流行、人々の意識でさ。だからだろうな。『普通』に触れると、なんか嬉しくなるんだよ。まあ、たまーに、自分にとって不都合なものもあるけどな。なんてな。悪いな、どうでも良いことを話しちまった。おっさんの独り言と思って、聞き流してくれ」
彼は小さくうつむいて、気まずそうに笑った。
私は、彼の言いたいことの半分も理解出来なかったけど、目の前の人の輪郭が見えた気がして、なんとなく嬉しくなった。野うさぎが近くまで来てくれたような、少しだけ気を許されたような感覚かもしれない。
私は、彼を見る。
じりじりと照りつける太陽に、じっとりと汗が滲む。
セミの鳴き声が途切れて、束の間の静寂が訪れる。
好奇心は、満たされた。まだ、この人と話していたいけど、これ以上は迷惑だろう。さっき、買い物帰りのおばさんがチラッとこっちを見ていた。
最後に、この人が見ている景色だけ見て、帰ろう。そう思って、道路の向かい側を見たとき、なにかが、いつもと違う気がした。
(なんだろう?)
並んで建つ色褪せたアパートは、いつもと変わらない。タオルや子ども服、布団や枕が気持ちよさそうに、日光浴をしている。
バス停前の灰色の石の鳥居は、今日も威厳たっぷりだ。境内の青々とした木々がざわざわと揺れて、濃淡の木陰が仲良さそうに土の上に浮かぶ。
気のせいだったのだろうか。と、鳥居の手前、柵のように連なる石柱に目をやったとき、ようやく違和感がわかった。
南無不動明王や神明社ののぼりが立ち並ぶなか、一本の石柱の根元が、まるで虫歯にでもなったように緑と黒になっていた。
なんで色が?
と思っていると、グッと腕を後ろに引っ張られた。
「危ねぇなー、女子高生。無敵っても、不死身じゃねぇんだぞ」
無意識に、前に進んでいたらしい。私の体は、車道の一歩手前まで来ていた。
「気を付けろよ。あ、訴えるなよ! とっさに触れただけだからな」
「訴えないです。ありがとうございます」
「二重の意味でヒヤヒヤしたぜ。で、なんかあったのか?」
「あそこだけ、柱の色が違うから、なんでかなって」
私の指さした先を、彼も見た。
「ああ、鏡か」
「鏡? 鏡が、なんで、あんなところに?」
落とし物だろうか。でも、鏡は割れ物だ。あんなところにあったら、危ないだろうに。
「おい、どこ行くんだ?」
「鏡を伏せに行きます。夜になったら、車のヘッドライトも反射しちゃうじゃないですか。そうなれば、事故の可能性だって」
「あー……、まあ、そうだよなぁ」
彼は上を向いて、またガリッとキャンディーを噛んだ。
どうにも、まごついた返事だ。
「あなたが、鏡を置いたんですか?」
「俺じゃない」
「じゃあ、鏡を置くところを見た?」
「まあ、そうだな」
つまり、誰かがわざと鏡を置いたことになる。
何のために?
「いたずら、なのかな……?」
私の独り言に、
「たぶん、違うな」と、やけに早い返事が返ってくる。
「……なにか、知ってますよね?」
「俺は、なにも知らねぇよ」
気まずい沈黙は、セミがかっさらっていく。
汗が背中を落ちていくなか、私はただ、彼をジッと見ていた。