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バス停の記憶  作者: ユト
27/27

27. ハッピーエンドは、まだすこし

「初めて会ったとき、六十里さんは『当たり前』や『普通』が好きだと言っていましたよね。人々の努力や仁義が見えるから、と。でも、誰かの我慢やかなしみのうえにある『当たり前』や『普通』もあると思うんです」

「……ああ、そうだな」

「母親が親権を主張して獲得することは、この国では『当たり前』で『普通』なんです。それを変えるのには、まだまだとても長い時間がかかると思います」

「……そうだろうな」

「それでもあなたは、杏里ちゃんの親権を獲得するのを諦めなかった。母親の親権を、『当たり前』を裁判で覆した」

「虐待をしていなかったら、覆せなかっただろうけどな。そもそも、あいつが虐待なんてしなかったら、親権を奪うことまでは考えなかっただろうよ」


 六十里さんの腕が、だらりと下がる。ようやく彼の顔が見えた。


「そうかも知れませんね。だけど、重要なのはあなたが『当たり前』を覆した事実です。六十里さん、杏里ちゃんは『あたしのせいで、パパは捕まった』と言っていました」

「杏里のせいじゃねぇ。俺がバカだったせいだ。それは、杏里には何度も言った」

「そうですか。じゃあ、『大好きなお父さんを犯罪者にさせるあたしなんて、存在しなきゃ良かった』と、杏里ちゃんが考えていたのは、知っていましたか?」

「……は?」

「六十里さん。杏里ちゃんは知らないんです。逮捕歴と犯罪歴が違うことを。不起訴は、犯罪歴がつきません。あなたは犯罪者じゃない。誘拐犯でもない。なのに、彼女は、杏里ちゃんはそれを知らない。あなたが自分の罪と向き合うたびに、彼女も苦しみ傷ついてきたんです」

「嘘だろ……」

「嘘じゃありません。それと、彼女は自分のことをバカだと思い込んでいます。バカだから、あなたを犯罪者にしてしまったと。杏里ちゃんにとっての『普通』と『当たり前』は、悲しいものばかりなんです。人は信じられないもの。期待はしないもの。自分は価値のないもの」

「違う! 杏里は! 杏里に価値がないなんてことは、ねぇ!」


 勢いよく立ち上がった六十里さんは、唇を歪め、今にも泣きそうな顔で怒っていた。手が白むほど拳を強く握りしめて。


「そうです。価値のない人など、いません! 信じられない人ばかりじゃ、ありません! でも、それは誰かが伝えないと、あなたが伝えないと、彼女にかけられた呪いは解けないんです! だから、六十里さん。まずはあなたが、杏里ちゃんのかなしい『当たり前』を覆してあげてください。親権を奪ったときみたいに。そして、自分が犯罪者ではないことを話して、過去の罪じゃなくて、今の杏里ちゃんと向き合ってください」

「……不起訴の話をすれば、杏里は嫌なことも思い出すかも知れねぇ。杏里を苦しませることになるかも知れねぇ。なにより、俺の罪は消えねぇ。それでも、か?」

「それでも、です。……怖いですか?」

「……ああ……怖い」


 ジリジリと夏の日射しが皮膚を灼く。彼の頬に浮き上がった汗は、今にも流れ落ちそうだった。

 私はもう、知っている。かっこいい大人だと思っていた六十里さんは、私と同じ普通の人だったということを。見えないところでいっぱい苦しんで悩む、娘が大好きな普通のお父さんなことを。


「なら、六十里さんがたくさん杏里ちゃんを愛してください。彼女が受けた苦しみも呪いも、全部どうでもよくなるくらい、愛してください。それで、いつか杏里ちゃんが『生まれてきて、よかった』って、『あたし、最高に愛されてる』って。そう言えるくらいになるまで、言葉で、行動で、全身で彼女を愛してあげてください」

「俺は、できてないのか……」

「もっとです」


 目を揺らしてうなだれる彼の肩を、私はグッとつかむ。


「六十里さん。あなたの罪の意識も立派だと思います。だけど行き過ぎれば、それはもう、あなたのエゴです。杏里ちゃんは関係ない。親のエゴに、もう子どもを巻き込まないでください! 進みましょう。あなたも杏里ちゃんも、人生はまだ続くんです」


 ビクッ、と彼の肩が揺れた。六十里さんがゆっくりと顔を上げる。まるで目から鱗が落ちたかのような、そんな表情をしていた。


「六十里さん。最後に一つだけ教えてください。今、幸せですか?」


 彼の口の中で、パキッ、とキャンディーが割れる音がした。聞き覚えのある音にハッとする。彼が嘘をついたときや、答えにくそうなときに聞こえていた音。小さなSOSは、あのときから出ていたんだ。私が見逃しただけで。


「幸せになってください、六十里さん」

「……俺が、幸せに?」

「幸せになってください。それが、杏里ちゃんの幸せに続きますから。それに、さっきも言ったように、まだ物語は途中なんです」

「物語?」

「人生の物語です」

「人生の……」

「どうせなら、物語はハッピーエンドが良いと思いません? いつか杏里ちゃんが、シワシワのおばあちゃんになったとき、『幸せな人生だった』と思って欲しくありませんか?」

「……そうだな」

「そうでしょう? そのためには、六十里さんが幸せなハッピーエンドを迎えることが絶対なんです。だから……」


 私は指切りをするように小指を出す。彼は戸惑いながらも、骨ばって長い小指を私の小指に絡めた。


「ひとつだけ、約束してください。なにか困ったことがあれば、一人で抱え込まず、私に相談する、と」

「……相談しても良いのか?」

「もちろんです。今こうしているのは、六十里さんと杏里ちゃんのおかげって、私、言いましたよね? 私、ずーっと後悔していたんです。ああなる前に、なにかできたんじゃないか、て。傲慢ですよね。でも、それで気が付いたんです。大人になったら、困っている人を助けられる人になりたいと。だから、私は看護師で社会福祉士になったんですよ。それなのに一番助けたかった二人に頼られないなんて、悲しいじゃないですか」

「おまえ……」

「はい! ひとまず、この話はここまでにしましょうか! さあ、行きますよ!」


 私は絡めた小指を解き、彼の右手をつかむ。グイグイと引っ張れば、その大きな体はあっけなくバランスを崩した。


「おい! 行くって、どこに」

「杏里ちゃんの待つ、待合室ですよ。これ以上ここにいたら、熱射病になっちゃいます。あ、これは看護師の山田としての忠告です。指示に従ってくれますよね?」

「……山田がパワーアップしてる」

「はいはい、パワーアップした山田ですよー」

「力、強ぇえ……」

「看護師ですからね。看護師は体力仕事なんですよ。ああ、そういえば、覚えてますか? 神社で救出した子ネコのこと。ナツって名前をつけたんですけど、大きくなりましたよー。すっごく可愛いので、あとで写真を見せてあげますね。そうそう。ネコを発見した祐太くんは、たまに、ナツに会いにうちに来るんですけど、消防士を目指すみたいで」


 私の口は止まらない。

 空白の十年。彼に会えたら、話したいことがたくさんあった。杏里ちゃんが願って、託してくれたように、私は少しでも六十里さんを助けることができただろうか。

 二人が抱える闇は、根が深い。だけど、いつか彼女たちが心から幸せだと言えるその日まで、私は支え続けようと思う。あの頃の私が願ったように。

 

 空は抜けるように青く、雲は沸き立つように白い。

 セミはうるさくて、流れる風はじっとりとしている。


 クリニックの入り口では、杏里ちゃんが立っていた。ガラス越しに私たちを見つめる顔は不安そうで、私はニッと笑ってみせると、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。

 勢いよく、ガラス扉が押し開く。クリニックから飛び出した杏里ちゃんは私たちに駆け寄ると、飛びつくように六十里さんに抱きついた。




 了


ぽちぽちと修正をする予定ですが、これにて完結です。

お読みいただき、ありがとうございました!


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