25. 過去と向き合うとき
完結までの残り3話、連続投稿します。
最後まで、楽しんでいただけますように。
あの日と同じように、その人はバス停のすぐそばの駐車場に立っていた。前に会ったときよりも、痩せたのだろうか。背の高い柳のようで、どこか頼りなく見えた。
一人ぽつんと道路の向こう側を眺める横顔に、メガネはない。白髪が混じってグレーになった短髪に、白のポロシャツ。黒のコットンパンツはちょっと色褪せていて、足下のダークブラウンの革靴はつま先が禿げていた。
あの日とは何もかもが違う、ありふれた格好。それに、ほんの一瞬、私は驚いた。同時に思う。やっぱり、あれは変装だったのだと。
一歩、また一歩。地面を踏みしめるように、私は胸を張って堂々と近づいていく。
「お久しぶりです、六十里さん」
そう声をかけたときにはもう、手を伸ばせば彼に届く距離だった。会いたかった人が訝しむようにこちらを向く。私はなにも言わなかった。ややあって、彼の眉がゆっくりと開いた。彼の黒々とした瞳には、驚きと困惑の色が浮かんでいた。
「……おまえ、まさか、女子高生か?」
「山田です、六十里さん。今は看護師になって、そこのいちかわ子どもクリニックに勤めています」
「……そうか。……立派になったな」
「おかげさまで」
「俺は、なにもしてねぇよ」
「いいえ。今こうしているのは、六十里さんと杏里ちゃんのおかげなんです」
「全く理解できねぇが、それは光栄なこって。でも、なんで杏里が関係あるんだ? そもそも、なんでおまえが杏里を知ってるんだ、女子高、いや看護師さん」
「言ったじゃないですか。私は、いちかわ子どもクリニックの看護師だと。もちろん患者さんの杏里ちゃんとも、よくお話ししていますよ」
「つまり、杏里の過去も」
「ある程度は知っています。もちろん、あなたの過去も」
六十里さんの目つきが、グッと鋭くなった。怒り、いや、強い警戒だ。
「へぇ? それで? なにをしに来たのか知らねえが、さっさと戻ったほうがいいんじゃないか? なんたって、俺は誘拐犯だからな」
「六十里さん。まさか、今、こうして私があなたと再会して、話しているのが偶然だと思っているんですか?」
「違うっていうのかよ」
「私が杏里ちゃんに、今日、あなたがこの駐車場に来てもらえるよう、お願いしたんです」
「はっ! なるほどな。それで、最近の杏里はずっとそわそわしてたのか。で、要件はなんだ? 脅すつもりか?」
「脅す?」
腹立たしさに、私は拳を握りしめた。
その言葉は、杏里ちゃんと私への侮辱にも等しかった。
「見くびらないでもらえますか? 私は真実を知りに来たんです。それと、十年前の嘘を返します」
「『嘘を返す』?」
「十年前、あなたが私についた嘘です」
理解できないと言わんばかりの顔をして、彼はポロシャツのポケットから棒付きキャンディーを取り出した。
「初めてこのバス停で会話をしたとき、私がなんて訊いたか、覚えていますか?」
「……『ここで、なにをしているんですか?』だったな」
「そうです。六十里さんは、こう答えました。『バスを見ている』と」
「……そうだったか?」
キャンディーの袋を破り、彼は口に咥える。
「それが嘘だと気づいたのは、あの事件が報道された後でした。あなたが見ていたのは、バスなんかじゃない。あなたの娘の杏里ちゃんだった。そうですよね、六十里渉さん」
セミが、うるさいくらいに鳴いている。六十里さんはなにも答えない。ゴミと一緒に片手をパンツのポケットに突っ込んだ彼は、道路の向こうに視線を移した。緑色の都営バスが一台、走り去っていった。
「当時、杏里ちゃんは、あの道を通って学校に通っていたそうですね」
「……杏里が教えたのか?」
「ええ、そうです」
「……そうか。ああ、おまえの言うとおりだよ、山田。俺はバスを見ていたんじゃねえ。杏里を見ていたんだ、誘拐するためにな。これで良いだろう?」
「また嘘をつくんですか?」
「あ?」
「ここで、あんなに目立つ変な格好で五日間も立ち続けておいて、娘の誘拐を企てていたと?」
「……俺がどんな格好をしていようと自由だろ」
「六十里さんのセンスが壊滅的でも、それは自由です。だけど、おかしいじゃないですか。犯罪行為の下見で、人目につくような格好をしているなんて。実際、警察に職務質問をされたんですよね?」
「……そうだったか?」
「六十里さん」
「…………まるで、探偵だな」
「残念。私はただの看護師ですよ、六十里さん」
フッ、と彼が自嘲気味に小さく笑った。
「懐かしいな……。あれからもう、十年も経ったのか……」
「そうですよ。十年で、私はこんなに大きくなりました」
「……でっかくなったな」
「冗談です。女性にでかいとか言わないでください。それよりも教えてください。あんな格好でいたのは、杏里ちゃんに見つけてもらいたかったからですか?」
「……残念、真逆だ。杏里にだけは、見つかりたくなかったんだ」
「それは、どうして……?」
「不利になるからだ。なによりも、杏里と少しでも話してしまえば、感情に囚われて冷静な判断ができなくなると思った。事実、俺は過ちを犯した」
「不利っていうのは、杏里ちゃんとの面会が拒否されていたからですか?」
「そうだな」
「不利になるとわかっているのに、変装までして杏里ちゃんを見たかったんですか? 会話もできないのに?」
「ああ、そうだ」
「面会ができるまで、待つ選択肢はなかったんですか?」
「なかった」
「どうして?」
「父親が最愛の娘を見たいと思うのは、おかしいことじゃないだろ?」
「それは、そうかも知れませんが」
なにかが引っかかった。
たぶん、これまでの六十里さんの言葉に嘘はない。だけど、全てを話してもらえているわけじゃないのもわかる。
ただ、一目娘に会いたかっただけなのに、五日も必要だったのだろうか。
もう少し、あともう少しで繋がりそうなのに。
じりじりと照りつける太陽が憎い。額に浮かぶ汗を拭う。ずっと、ここにいたら熱中症になりそうだ。
……ずっと?
かつて、六十里さんは「一時しのぎの助けなんてもんは、ただの自己満足で、無責任だ」と言っていた。そうだ。彼なら虐待されている杏里ちゃんを助けるために、永続的手段を考えたはずだ。
点と点が、一本の線で結ばれた。




