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バス停の記憶  作者: ユト
23/27

23. あれから、十年

 七


 クリームサイダーがシュワシュワと弾けるように、市川先生と杏里ちゃんの診察は和やかに、楽しそうに進んでいる。最初の緊張も、ほどけたようで安心した。さすが、市川先生だ。


 六十里杏里ちゃんに初めて会ったのは、この病院で働くようになって、間もないころのことだった。

 いちかわ子どもクリニックに来る前、大学病院に勤務していた私は、理想と現実の狭間で押しつぶされていた。早く職場に馴染もうと焦り、自分の未熟さに打ちひしがれ、目の前でいっぱい、いっぱいになる毎日。

 大学病院という気質も重なって、私のやりたかったことは、なにひとつできなかった。「私」が消しゴムのように、汚く、すり減っていった。今日辞めると言おう、明日辞めると言おう。そればかりが頭に浮かび、通勤の道路は細くて暗い崖道に見えていた。


 そんなときだった。いちかわ子どもクリニックの求人を見つけたのは。すぐに目が貼り付けになった。実家から近くて、福利厚生も良いだけじゃない。私が希望する小児科の個人クリニック。ここで働きたいと思った。でも、経験の浅い私は厳しいだろうとも思っていた。なんせ、看護師歴は二年とちょっと。新米からようやく抜け出したくらいだ。だから、ダメで元々と応募した。結果、採用。驚いたけれど、たまらなく嬉しかった。


 そうして、気合いを入れて出勤した日。私はカルテに『六十里杏里』の名前を見つけた。偶然だと思った。六十里さんは離婚していたし、娘の名字は母親の旧姓に変わっているはずだと。同時に、身勝手な自分を恥じた。なぜなら、アンリちゃんは、どこかで穏やかに暮らしているのだと無意識に思い込んでいたのだから。


 そう、私は間違っていた。中学二年生になったアンリちゃんは、あれから十年の時を経ても、穏やかには暮らしていなかった。それは、実際の杏里ちゃんを目の当たりにして、すぐにわかった。彼女は、悪霊に取り付かれているのかと思うほど暗く、底の見えない沼のように昏い目をしていた。


 私はなんてバカなんだと思った。

 杏里ちゃんは、六十里さんの顔には似ていなかった。お母さん似なのかも知れない。だけど、彼の娘だと確信できるほど、雰囲気がそっくりだった。

 杏里ちゃんのなかの六十里さんの影を見つけてしまえば、もう逃げられなかった。彼と話した日があざやかによみがえり、アンリちゃんへの気持ちがブワワッと膨らんで膨らんで、ポップコーンみたいに勢いよく弾けた。気がつけば、ダムが決壊したみたいに、私はボロボロと泣いていた。患者のまえで泣くなんて、あってはならないことだとわかっているのに、止まらなかった。


 引きずられるようにスタッフルームに下げられたのは、当然だと思う。そうして勤務初日から、私は市川先生とベテラン看護師にこってりと叱られた。クビにならなくて、本当に良かった。


 自責の念にかられた私は、帰ってからすぐに叶乃果に連絡をした。久しぶりに話すというのに、電話をかけることにためらいはなかった。開口一番、叶乃果は「良かったね~!」と言った。昔とあまり変わらない、甘く柔らかな声が耳に心地良かった。


「全然、良くないよ。あの子も、六十里さんもまだ苦しんでるのに、私は」

「もちろん、それは良くないよ~。でも、さ。花菜はなんのために看護師になったの? 社会福祉士になったの? 今なら、できることがあるんじゃないかなぁ〜?」


 ハッ、とした。ガツーンと頭を殴られた気がした。そうだ、あの頃の私とは違う。彼女は私の原点。助けたかった人の一人が目の前で苦しんでいるのに、私はいつから観客になったんだ。本当に、私は大馬鹿者だ。


「叶乃果、私、彼女のまえで泣いちゃったんだ……。本当、バカだよね」

「あらら〜。患者のまえで泣いちゃったのかぁ。ん〜、でも、ま、大丈夫でしょ~。なんだ、この人っていう悪印象くらいだよ~」

「それ、フォローになってないよ、叶乃果」

「そうかなぁ〜? だって、下手に第一印象が良いより、よくな~い? マイナススタートの方が加点も多いし、伸びしろがあるんだよ~? ほら、最初からすっぴんで会うほうが気が楽でしょ〜?」

「そのたとえも、どうかと思うんだけど……。でも、わかる」

「ほらね〜! 最初に嫌われとくのもありだよ〜。あ、そういえば、アンリちゃんに会ったってことは、ツイヒジさんにも会うかも知れないよね~」

「……六十里さんに、会う?」

「あらら〜? もしかして、その可能性は考えてなかった〜?」

「うん……微塵も考えてなかった」

「そっか〜。もう、花菜は六十里さんに会いたくない?」

「会いた、い、かも」


 咄嗟に出てきた言葉に、自分でも驚く。

 あれから追い続けて、どんな結果になったのかは知っている。なのに、私はまだ六十里さんの口から聞きたかったんだ。真実を。


「うん、知ってた〜」

「なんで、」

「わかるよ~。わたしは、花菜の親友だからね~」


 電話口の向こうの彼女は、今も、自慢気な顔をしてくれているのだろうか。自尊心なんて未だにぐちゃぐちゃで、仕事も完璧にはほど遠くて、あの日描いていたような大人に全然なれていないけど。でも、私は彼女の誇れる親友でありたかった。


「ありがとう、叶乃果」

「どういたしまして、花菜。じゃあ、今度はわたしの愚痴でも聞いてもらおうかな〜!」

「あ、やっぱり愚痴たまってんだ」

「え〜? バレてたの~?」

「わかるよ、ちょっと暗いし。なにより、私は叶乃果の親友だからね。でも、明日も仕事だから、ほどほどでよろしくお願いします」

「さっすが、親友だぁ〜! じゃあ、ほどほどに愚痴るけどね〜」


 忖度も勘定もいらない気の置けない会話は、私たちを女子高生に戻してくれた。もう二度と戻れない青春時代。だけど、たしかに、あの日々は今に続いていた。


 翌日。出勤してすぐに、私は六十里さんとの関係を医院長の市川先生に話した。杏里ちゃんが私の原点であることも、めいいっぱいのどうしようもない後悔も、彼女と彼女の父にできることはないかと探し続けていることも。全て、洗いざらい話した。

 最初、先生は良い顔をしなかった。当たり前だ。私の願いは、ただの医療従事者が関わって良い範囲を超えていたのだから。でも、先生は突き放すだけじゃなかった。杏里ちゃんと友人関係を築くのなら構わないと、彼女と関わることを医師として、私の上司として許可してくれた。


 私がまず思ったのは、杏里ちゃんと友だちになりたいということだった。歳の差はあるけれど、叶乃果が私にしてくれたように、彼女が本音の一部でもこぼしたくなるような友人になりたいと思った。

 もちろん、嫌われたら終わりという時点で対等の関係じゃない。でも、そんなのは看護師と患者として出会っているのだから、今更だ。それに、どうせマイナスからのスタート。ベストじゃなくても、やれるだけやりたい。

 私は慎重に慎重を重ねながら、声をかけ続けた。心の箱を叩くでもない。こじ開けるでもない。ただ、開くのをじーっと待った。


 誰も信じません、希望をもちませんという(くら)い瞳が私を映すまで、半年。

 私の第一印象――この人も、自分を哀れんでくるタイプの人か、と思ったらしい――を話してくれるようになるまで、一年。

 カスミソウのような控えめ笑みをみせるようになった杏里ちゃんに、六十里さんに一度だけ会ったことがあると話しをするのに、一年八ヶ月。

 彼の誘拐事件を知っていると話すのに、二年。初めて激しい感情(憤り)を見せた彼女は、しばらくの間、口も聞いてくれなかった。


 なんとかもう一度、言葉を交わしてくれるようになったのが、誘拐事件の話をしてから半年経った、今年の雪が積もった一月。

 杏里ちゃんの口から、杏里ちゃんにとっての真実を聞いたのが、四月の桜が散る頃。

 私を「花菜ちゃん」と呼んでくれるようになったのが、五月の連休明け。

 私が六十里さんち会う計画を二人で立てたのが、六月の梅雨入り後。神社の紫陽花が雨に濡れていた。

 そして、今日、計画の実行日。


 私は、これまでと同じように彼女の診察を見守っていた。



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