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バス停の記憶  作者: ユト
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2. 進路希望調査票

 二


 十年前の高校二年生の七月、最初の金曜日は憂鬱で終わった。

 ようやく期末試験から開放され、ガヤガヤとざわめく教室。クラスメイトたちが浮つくなかで、一人、私はポケーッと外を眺めていた。あざやかな木々の緑が、夏の日射しでキラキラしている。窓を閉めても聞こえてくるセミの声に、よく頑張るなと思ってしまう。そこそこ緑があっても、ここは東京。生きにくくは、ないのだろうか。


「花菜、おつかれ~。どうだった~?」


 スミレの香りみたいな柔らかい声に、ぼんやりとした意識が現実に引き戻される。

 前の席の叶乃果(かのか)が、ぐるりとこちらを向いていた。


「空が青いなって思ってた」

「わぁ、現実逃避~」

「解けるところは、解いたわよ。でも、無理。だって、テスト範囲、間違えて勉強してたし」

「生物と世界史の暗記セットだったもんね~、今日」

「不覚なり」


 机の上に突っ伏すと、叶乃果が私の頭をうりうりと撫でた。


「武士か~」

「ハラキリは嫌でござる~」

「大丈夫。武士の情けで、補習があるでござるよ」


 首だけ上げると、叶乃果が良い笑顔で親指を立てていた。


「武士の情け、嬉しくないし。大体、なんで世界史があるのよ。私たち、国公立理系クラスでしょう?」

「それは、文部科学省に訊く案件かな~」

「一学生は、無力だわ……」


 もう一度、顔を伏せる。ちょっとだけ、机がひんやりとして気持ち良い。


「そういえばさ。なんか、最近、不審者が出てるらしいよ~」

「別に驚かないでしょ。うちは、女子校なんだし。定期的に、不審者は出没してるじゃない。露出魔、声かけ、つきまわし」

「冷静だな~、花菜サンは」

「冷静っていうか、慣れ? 先生たちも、見回りしてくれてるみたいだし」

「おかげで、買い食い出来ないけどね~。でも、一生会いたくないな~。不審者とか変質者とか。怖いもん」

「同じく。と、言いたいんだけど、」

「え? 出会っちゃったの? どこで?」


 体を後ろに引いた叶乃果の眉間に、シワがよる。


「どこでって、最寄りのバス停だけど……」

「それ、いつの話?」

「え、現在進行形?」

「え、めっちゃ怖い。大丈夫なの~?」

「う~ん。大丈夫なんじゃない? 別に、害はなさそうだし」


 彼女の目がすごく、残念なものを見るような、哀れむようなものに変わっていく。


「花菜の危機管理能力が心配~」

「そんなことないって。叶乃果も見れば分かるよ」

「見るかいっ」


 スパンッと音がしそうな勢いで、叶乃果の手の甲が空中を叩いた。そよっと、頬のあたりに生ぬるい風が吹く。


「でも、本当に心配~。絶対に近寄っちゃダメだよ~?」

「え、う、うん」

「花菜~?」


 叶乃果の顔がグイッと近づいて、ロングストレートの髪が机を撫でる。栗色の瞳に映る、とぼけた顔の私が大きくなった。


「近い、近い」

「イヤだからね、花菜がなにか危ないことに巻き込まれるの」

「わかってるって」


 むぅと下唇を突き出した、彼女の顔が離れる。


「花菜って、好奇心と行動力の塊みたいなところがあるんだもん」

「それは、長所でしょ」

「長所と短所は表裏一体なんです~」


 彼女が腕を組んで、ふんぞり返る。否定できなかった。

 好奇心と行動力を取ったら、私に何が残るのだろう。

 反論を考えているところで、ガラガラとドアの開く音がした。担任の熊原先生だ。白衣の裾をひらひらさせて、のそのそと教卓につく。油粘土がべしゃっと張り付いたような声が、クラスに通った。


「ホームルームをはじめるぞぉ。席に着けぇ」


 名前負けしない巨体に、つぶらな瞳。もふもふの髪は、五十代と思えないほどふさふさで、太い指にはシルバーの結婚指輪が鈍く光っている。

 私たちは親しみを込めて、熊原先生のことを『森のクマさん』と呼んでいた。


「よぉし、プリントを配るぞぉ。後ろに回せぇ」


 手元に来たのは、進路希望調査票だった。ご丁寧に、三つまで枠がある。


「え、もう、進路決めるの? 早くない?」という、誰かの声が聞こえた。

「クマー、これ、いつまでー?」

「ねー、クマー」


 クラスメイトの声が、セミと混ざってうるさい。


「クマクマ言うなぁ。先生をつけろぉ、先生を。提出は、夏休み明けだぞぉ。各自一回は、オープンキャンパスに行っておけよぉ。来年は、それどころじゃないからなぁ」


 一瞬にして、クラスの雰囲気が、どんよりとした曇り空みたいになった。みんなどこかで、わかっているんだ。逃れられない現実を。選択すべき将来が、すぐそこまで迫っていることを。


「クマセンセー、空白で出したらダメなのー?」

「ダメだなぁ。せっかくの夏休みなんだぁ、自分の将来と向き合えぇ」

「今年の夏休みくらい、遊びたいよー」

「そうだ、そうだー」


 熊原は、ボリボリと頭をかいて、教卓に手をついた。


「いいかぁ? 理系組。理系のほとんどは、男子だ。とくに医学部を目指すやつ。医学部は、男子と枠を競い合うぞぉ。今は上位を取れてもなぁ、部活引退後のやつらは強いぞぉ。ギリギリまで部活していた男子は、体力も根性もあるからなぁ。女子は、今から覚悟しておけよぉ」


 しん、と部屋が静まり返る。

 良い大学に行くことは、良い就職には必須だ。『良い大学+良い会社=良い将来』の法則が絶対じゃないのは、みんな、なんとなくわかっている。高校生活が、思ったよりも短いことも。


「あー、まぁ、なんだぁ。今日のホームルームは終わりだ。日直ぅ、号令をかけろぉ」

「……起立、礼」


 ガタガタと椅子が鳴る。熊原先生は、のしのしと教室を出て行った。

 私は、進路希望調査票を見て、ため息をつく。前で、パチンと手を叩く音がした。


「叶乃果? 蚊でもいた?」

「花菜の幸せを捕まえてあげたんだよ~。おっきいため息をついてたから」

「私の幸せは、トトロのまっくろくろすけか。てか、潰れたよね、私の幸せ」


 体をひねった叶乃果が、もったいぶりながら、閉じた両手を開いて見せる。


「なんもない」

「幸せは目に見えないものだからね~」


 私は、ドヤ顔をする叶乃果の頬を両手で挟んで、もむ。


「にゃいをする~」

「いや、ちょっとイラッときて」


 パッと手を放すと、ふるるっと叶乃果の頬が揺れた。


「叶乃果って、進路希望、決まってるんだっけ?」

「ん~? わたしは、歯学部か薬学部かな~」

「すごいね、そんなところを狙ってたんだ」

「目指すだけは、タダだからね~」

「医学部は違うの?」

「医学部は、う~ん、コスパ悪そう」


 ふっくらした唇に人さし指を当てた叶乃果が、天井を向く。


「コスパ?」

「そうそう。研修医の二年間は無給でしょ~? 生涯収入は良いかもだけど、拘束時間も多いし、人間関係も複雑そうだし、訴訟も多いって聞くんだもん。わたしは、一生独身でも、安定して生きてける仕事が良いんだよね~」

「……なんか、すごいね」

「全然すごくないよ~。ただ、自己中なだけ」


 くしゃ、と叶乃果が薄く笑う。唇は三日月をしているのに、目は仄暗くて。なんか、らしくないと思った。


「そういえば、花菜の進路希望は~?」

「私は……、まだ、決まってない」


 私は机の上のプリントを見た。恥ずかしかった。叶乃果には、しっかりとしたビジョンがあるのに、私はまだ『子ども』にしがみついている。本当、ダサい。トランプカードみたいに、子どもと大人がくるくる回る。そんなのは、嫌だったのに。

 間違っちゃいけない。みんなと同じように、足並みを揃えて生きなくちゃ。やりたいことが見付からない。なりたいものもわからない。頑張らなくちゃ、置いていかれる。

 そんな小さなプレッシャーと不安が、テトリスのように私の意識の奥底に積み上がっていた。


「私、数学が楽しいってだけで、理系に来ちゃったんだよね。将来とか、考えてなかった」

「え、別に良くない? 国語苦手だから理系とか、数学ができるから理系とか。みんな、そんなもんでしょ~? わたしだって、理系科目が苦手だったら、別の選択をしたと思うよ~?」

「そうなの?」

「うん。それに、まだ将来を決めてないのも、普通でしょ~。ていうか、『理系の学部選び=将来の職業』が、ほとんどじゃない?」

「それは、そう思う」

「十八歳で、定年の六十歳までの職業を決めるのって、普通にしんどいよ~」

「……そう、だよね。そうなんだよね」

「そうそう~。だからさ、悩めるなら、いっぱい悩めば良いと思うんだ~。ほら、悩むのも楽しいじゃない~? デザートバイキングみたいで」


 ピンと叶乃果の人差し指が上を向く。

 楽しそうな顔する叶乃果は、いつもの彼女だった。


「進路をデザートバイキングにたとえるとか、初めて聞いたよ」

「デザートバイキング、行きたいな~」

「叶乃果って細いのに、甘いのが好きだよね」

「甘いものは、幸せだからね~」


 頬を持ち上げて笑う彼女を見ていたら、なんだか肩の力が抜けてきた。


「あ、叶乃果いたー! 部活、コーチが呼んでるよー!」


 剣道着姿の女子が、教室の入り口に立っていた。


「ごめ~ん。今、行く~」

「ごめん、叶乃果」

「大丈夫、大丈夫~。って、花菜は、部活行かなくて良いの?」

「やめておく。このテンションだと、文字が歪みそうだし」

「あ~、書道部だもんね~」

「そうそう」


 スクールバッグを肩にかけた叶乃果が、「またね、花菜」と教室を出て行く。

 私も、帰ろう。そう思って、席を立ったところで、「花菜~!」と叶乃果の声がした。見れば、開けっ放しの扉から、叶乃果がちょこんと顔だけだしていた。


「危ないことをしたら、ダメだからね~!」

「わかってるって。部活、頑張って」


 叶乃果はひらひらと手を振ると、タタタッと駆け足で走り去っていった。


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