17. 開いたパンドラの箱
六
翌月の体育祭に向けて、汗をかく九月中旬。
進路調査希望票を出してから三週間近くたったというのに、私はまだ、なにかモヤモヤとした気持ちを抱えたまま過ごしていた。やりたいことも、なりたいものも見えないのに、このままじゃいけないという曖昧な焦燥感だけが募っていく。ジリジリ、ズルズル、グルグル。毎日が、出口の見えないダンジョンで、ぞろぞろとついてくるゾンビから逃げてまわっているみたいだった。
とくに最近は眠りが浅くて、よく夢を見る。今朝なんて、ナツのごはんを食べて喜ぶ夢で、びっくりした。どれだけお腹が減っているのだか。その割に、朝食はあんまり食べられなかった。謎だ。
登校早々、あいさつもそこそこに、叶乃果が走りよってくる。
「花菜、読んだ?!」
「叶乃果、おはよー。読んだって、なにを?」
「ツイヒジさん!」
「六十里さん?」
ポカンとする私の手首を、叶乃果がつかんだ。
「え、なに?」
「行くよ~!」
「え? は?」
バッグを置く余裕もなく、グイグイと教室の出入り口へと引っ張られる。
「ちょっと、叶乃果! どこに行くの?!」
「パソコン室~!」
「パソコン室?!」
廊下は、登校する生徒たちでガヤガヤとしていた。彼らの間を縫うように、叶乃果は早足で歩いていく。わけがわからなかった。今更、六十里さんがなんだというのか。少しずつ、あの人のことも事件も忘れかけていたのに。なんで、叶乃果は蒸し返すようなことを言うのだろう。
頭のなかは、「?」で埋め尽くされていた。でも、つかまれた手首を振り払う気は起きなかった。
ガラッと引き戸を開けた叶乃果は、パソコンの電源を入れる。
カタカタ、カチカチと忙しなく音が鳴る。
「これ読んで」と、見せられたのは、ネットニュースの記事だった。
もとは、週刊誌らしい。被害者家族の知人からのタレコミだという前書きからはじまったそれには、誘拐された女子児童は実母に虐待されていた、ということが書かれていた。同時に、誘拐犯が女児の実父であることも、記事は伝えていた。
「これって……」
「花菜は、知ってた~? ツイヒジさんの娘さんが虐待されてたって」
あざやかに、一ヶ月前の記憶がよみがえってくる。
「……祐太くんから、ネグレクトを受けているんじゃないかみたいな話を聞いたことはあった。そのとき、私、一瞬だけど思ったんだ。六十里さんがバス停にいたのは、もしかしたら、娘を助けようとしていたのかもって。なんで、忘れてたんだろう……」
「その話をしたのって、いつか覚えてる?」
「えっと……、たしか、六十里さんが逮捕されたって知った日?」
「それじゃあ、仕方ないでしょ~」
「でも……」
「それに誘拐は、誘拐だもん。でも、この場合、どうなるんだろうね~?」
「どうって?」
「だって、犯人が実父なんでしょ~? 罪になるのかな~?」
「どうなんだろう……」
「う~ん」
私たちは、そろって首をかしげる。
「でも、やっぱり、パンドラの箱だったね~。底には、ちゃ~んと希望が残ってた」
叶乃果は歯を見せて、ニッと笑った。まるで、わかっていたとばかりの笑み。私はびっくりした。同時に、信じ切れなかった自分が、恥ずかしかった。
「……叶乃果は、六十里さんのこと、信じてたんだね」
叶乃果のぱっちりとした目が、瞬く。
「信じてたのは、花菜のことだよ~?」
「私?」
「そうだよ~。花菜が楽しそうに話してくれたツイヒジさん、それを、わたしは信じたかったんだよね~。なんか、娘想いの、優しくて、ダサかっこいいパパって感じでしょ~?」
「ダサかっこいいって」
「じゃあ、ちょっとかっこ悪いジェントルマン?」
「ほぼ同じじゃん」
ふふっと私たちは笑い合う。
「たぶん、羨ましかったんだよね~」
「羨ましい?」
ちょっとだけ、叶乃果は上を向いた。彼女は、いつか見た、夜の海のような真っ黒な瞳をして遠くを見る。ここじゃない、どこかを見るように。
「わたしのお父さんとは、全然違うから」
「そっか……」
だから、彼女は引かなかったのか。私が話した人物像と一致しないことに、彼女は疑問を持ち続けていたのだ。ようやく私は、彼女が不満そうな顔をした理由がわかった。
「でも、単純に存在して欲しかったのかも。ツイヒジさんって、信じてもいい大人みたいでしょ~? なんか、麒麟みたいだよね~」
「そうかなー? ハリネズミっぽいとは思ったけど」
「ハリネズミって、可愛すぎるでしょ~。って、次の授業、なんだっけ?」
「あれ、なんだっけ?」
「珍しいね~、花菜が時間割を忘れるなんて」
「最近、寝不足だからかな? とりあえず、教室に戻ろう」
今度はタイミング良く、予鈴が鳴る。
私たちは、急いでパソコンの電源を落として、部屋を駆け足で立ち去った。
週刊誌の記事が出てから、『三鷹市女児誘拐事件』は、ふたたび、世間の注目を浴びるようになった。事件の報道は増え、潮目が変わったように話の焦点も変化していった。
でも、叶乃果の言った通りだった。誘拐は、誘拐。だけど、誰もが、この事件をどう裁くのが正しいのか、わからないでいるようにみえた。
私と叶乃果は、注視し続けた。
ワイドショーはこぞって特集を組み、センセーショナルに、またはエモーショナルに報道は展開されていった。SNSやネットニュースもテレビに負けず劣らず盛り上がっていく。そうして、プライバシーなんて言葉は皆無に等しくなり、芋づる式に『真実』の明かし合いが始まった。




