16. 突きつけられる現実
ポンコツ誤字脱字マンです|ω・`)
誤字脱字報告、ありがとうございます( ´人`)
五
新学期は、憂鬱ではじまった。
バス停に向かう道の途中、おばさんたちの井戸端会議の声が聞こえてきたせいだ。
誘拐された子の話から、犯人の勝手な憶測、警察への不満まで。それも、怖い怖いと言いながら、どこか楽しそうに話すのだ。それが、まるでセミの死骸に群がる蟻みたいで、気持ち悪かった。これからも、こんな話が耳に入り続けるのかと思うと、心の底からうんざりした。
学校の授業は、よりにもよって赤点をギリギリ免れた世界史のテストの解説からはじまるし、お弁当の箸は忘れるわで、心がささくれそうだった。
ようやくやってきたお昼休みも、今は、早く帰って寝たいとしか思わない。
私はひとり、さっさとお弁当を食べて、机に突っ伏していた。
「花菜、大丈夫~?」
「……本日の山田花菜は閉店しました」
「閉店中か~」
ごめん、と心のなかで謝る。でも、今は誰とも話す気が起きない。あと、電話もメールも返してなくて、単純に叶乃果と顔を合わせにくい。
「じゃあ、強制入店しま~す」と、声がした。「は?」と思っているうちに、叶乃果が背後に回る。肩をつかまれたと思ったら、グググッと引き起こされた。
「は? え?」
私の体が浮いていく。怪力か。
戸惑っている間に、叶乃果の腕が私の胸元でクロスした。これで前に倒れたら、たぶん、首が絞まる。
「おはよ~、花菜」
叶乃果は、私の頭に顎を乗せているらしい。絶妙に、重い。叶乃果じゃなかったら、ちょっとしたホラーだ。
「……おはよ、叶乃果。って、今、昼だけどね?」
「あ、そっか~。でも、今日、花菜に『おはよう』って言ってなかったから、ありでしょ~」
「謎理論すぎる。で、どうしたの?」
「『どうしたの?』は、わたしのセリフだよ~。メールも無視するから、心配したんだよ~?」
「それは、本当に、ごめん」
下を向いたら、首がちょっとだけ絞まった。ウッとなっていると、叶乃果の腕が離れて、解放される。
「見たよ」
「……うん」
私は身構えた。叶乃果からの口も、六十里さんを批難する言葉が出てくるのだろうか。聞きたくないな。そう思うと、夏の終わりのひまわりみたいに、私の体はゆっくりと前に倒れていった。
そっと、叶乃果の両手が私の頬を挟んだ。そのまま、クイッと上を向かされる。
「花菜から聞いた人物像と、一致しなかった」
ぼやけた視界が、輪郭を表わしていく。
はっきりと見えた叶乃果の顔は、真剣そのものだった。
くすんだ世界に、わずかな光が差し込んでくる。
「花菜は、どう思う?」
「私は、」
タイミング悪く、予鈴が鳴った。もう、昼休みが終わってしまう。
「次って、なんだっけ~?」
「オーラル。私は、隣のクラスに移動しないと」
「移動か~」
頬に感じる体温が消えた。
「じゃあ、続きは放課後だね~。逃げちゃダメだよ~?」
「逃げないよ。でも、部活は良いの?」
「夏休み中、真面目に参加してたんだもん。今日一日くらいは、休ませてもらうよ~」
「……わかった。ありがとう、叶乃果」
両手を後ろにした叶乃果は、ホッとしたように微笑んでいた。
「じゃあ、また後でね」
「……うん」
まだ、言いようのない恐怖はあった。パンドラの箱を目の前にしているような、不安とでもいうのだろうか。
(でも、パンドラを開けるなら、叶乃果と一緒が良い)
叶乃果の後ろ姿を見送りながら、私は、そう思った。
*
放課後。
私たちは、学校のパソコン室に来ていた。
「誰もいなくて、良かったよね~」と、叶乃果がパソコンをつける。ブンと小さな音を立てて、モニターが光った。回る椅子に座った彼女は、学籍番号とパスワードを入力して、ログインを押した。
「叶乃果。なんで、ここにしたの?」
「もちろん、調べながら話すためだよ~?」
「調べるって、事件を?」
「そうそう」
彼女は、マウスをデスクトップのeマークに合わせて、カチカチとクリックする。コンマ数秒で、検索サイトが立ち上がった。
叶乃果がクルッと椅子ごと回って、体を私の方を向ける。
「花菜は、ツイヒジさんの顔を見たんだよね~?」
「うん」
「じゃあ、ツイヒジ容疑者の顔は見た?」
「どういうこと?」
「映像や、写真で確認したかな~って」
「……してない」
「だよね~。だから、まずはそこから調べようと思うんだけど~」
言い終わるまえに、彼女が立ち上がって横に退いた。パソコンのまえが、ぽっかりと開く。
「え、なに? どうしたの?」
「花菜に、ツイヒジさんの名前を検索してもらおうと思って」
「私が?」
「こういうのは自分の目で、見た方が良いでしょ~? それに、わたしは、ツイヒジさんの顔を知らないもん」
「……でも、人の名前を検索するのって、ちょっと嫌じゃない?」
「え~? そうかな~? わたしは好きな作家の名前とか、芸能人とか普通に調べるよ~? 花菜はやったことないの~?」
「偉人の名前とかなら……」
「それと一緒だよ~」
「全然違うでしょ。知り合いの名前だし、なんか、申し訳ないっていうか……」
「花菜の気遣いポイントって、割と謎だよね~。じゃあ、打ち込んでくれたら、わたしが検索するよ~」
叶乃果があっけらかんと言う。彼女は、本当に気にしないらしい。でも、それはそれで、汚れ仕事を押しつけるみたいで、ちょっと嫌だ。
「……今の私、ちょっと面倒な人間になってる気がする」
「今更でしょ~」
「え?!」
そんな気はしていたけど、肯定されるとちょっとショックだ。六十里さんも言いかけてたけど、やっぱり、私って面倒なタイプなのかも。
「え、すごいショック受けてる~!」
「それは、そうでしょ……。私、割と合理的な人間だと思ってたし」
「花菜は、割と感情的な人間だと思うけどな~?」
「嘘……」
「本当、本当。でも、わたしはそんな花菜が好きなんだけどね~。それに、人間ってそんなものじゃない? わたしもそうだもん」
「……え、あ……う……」
「花菜~?」
まともに「好き」なんて言われたことがなくて、おかしな返事になってしまった。
叶乃果は、キョトンとしている。なんか悔しい。
彼女の目と唇が、にんまりと三日月を描いた。叶乃果が口元を手で隠す。
「あらあら~? もしかして、花菜サンは、照れていらっしゃるのかしら~?」
「て、照れてないし。ただ、叶乃果は、変わってるなって思っただけで」
「やだ~! 花菜チャンがツンデレだわ~! かわいい~!」
「違うって! か、かわいくないし! ってか、なんでオネエ言葉が混ざるのよ!」
「わたしの内なるオネエが共感しただけで~す」
「内なるオネエってなによ……」
叶乃果は、アネモネが風にそよぐように、体を震わせて笑っている。
私は呆れ半分、照れくささ半分で、キーボードに指を置いた。六十里さんの名前を打って、エンターを叩く。
「ほら、叶乃果。検索したよ」
「あ、自分でできたんだ~。どれどれ~?」
叶乃果が、私の肩から覗き込む。
検索結果のページには、『三鷹市女児誘拐事件』がズラッと表示されていた。
私は思わず、目をギュッと閉じた。私の椅子が動くのを感じた。叶乃果が動かしたのだ。
「容疑者の写真は~、と。あったよ、花菜」
カチカチと鳴っていたマウスのクリック音が止む。
「花菜~」
「……わかってる」
深く息を吸って、吐く。どうか、私の知る六十里さんじゃ、ありませんように。そう願いながら、ゆっくりと薄目を開けた。
モニターに表示されていたのは、一枚の写真だった。誰かと一緒に撮ったのだろう。写真の半分は、モザイクがかけられていた。
写真のなかの男の人は、楽しそうに笑っていた。二十代から三十代前半くらいだろうか。健康そうでクマもなく、黒髪でメガネもしてない。でも――。
「六十里さんだと思う。この左目にある双子の泣きボクロ、覚えてる」
「……そっか~」
「うん……」
もう逃げ切れなかった。彼は、六十里渉は犯罪者になったのだ。
ガックリと肩の力が抜ける。トプンと、深い沼に沈んでいく気がする。粘土が固まるまえにえぐられたような、心から、なにか持って行かれたような気持ちだ。私が誘拐されなかったのは、ただラッキーなだけだったのかも知れない。
「ん~……」
「叶乃果?」
彼女は、隣の席から椅子を引っ張ってきて、パソコンの前に座っていた。
カタカタとカチカチを繰り返す。
「なにしてるの?」
「被害者の女の子の情報がないかな~って。でも、なさそう~。女の子、未成年だもんね~」
「……なんで?」
「なんとなく~?」
叶乃果の手が、諦めたようにキーボードから離れる。
「花菜は、まだツイヒジさんを信じてる~?」
私は答えられなかった。信じたい気持ちはあった。でも、被害者の女の子や家族のことを考えると、信じちゃいけない気もしていた。
「『誘拐なんてするわけない』って、『親の気持ちが痛いほどわかる』って、言ってたのに……」
「なんか、『ジキルとハイド』みたいだよね~。花菜から聞いたツイジヒさんと、誘拐犯の六十里さんって」
「……わかる。でもさ、犯人が逮捕されると、『そんなことをするような人に見えなかったのに』っていう人と、『素行の悪い人だった』っていう人がいるじゃない? そういうものだったのかも。裏の顔、じゃないけど」
口にして、ストン、と腑に落ちた。仲良しだと思っていた子が、陰で悪口を言っていた、なんてよくある話だ。私は、六十里さんの良いところしか知らないから、彼を信じたかっただけなのかも知れない。
「わたしたちが見てるのなんて、その人の表面の一部でしかないって聞くもんね~」
「うん。ナツを助けてもらったことは感謝してるけど、それと事件を起こしたことは別だから。私も分けて考える」
「ん~……。でも、やっぱり一致しないんだよね~」
叶乃果は不満そうに、口をへの字に尖らせていた。なんで、彼女がそんな顔をするのか。このときは、わからなかった。
「もう良いよ、叶乃果。私は、すっきりした。事件のことは、パンドラの箱みたいに思ってたから」
「パンドラの箱ね~。あ、そうだ。花菜サン、わたくし、大事なことを伝え忘れておりましたわ~」
叶乃果は椅子をクルッと回して、私を見る。足を閉じて、手を膝の上で重ねているあたり、芸が細かい。
「あら、なんですの、叶乃果さん?」
「森のクマさんが探しておりましたわよ~? なにか、お忘れではなくて?」
「あ!」
そうだった。後ろからプリントが送られてきたとき、自分の進路調査希望票は乗せずに、そのまま前に渡したのだった。
「あー。どうしよー」
「もしかして、まだ白紙~?」
「ハイ……」
「ん~。とりあえず、獣医学部とか書いておいたら~?」
「なんで、獣医学部? しかも、とりあえずっていう難易度じゃないし……」
「でも、獣医師なら、ナツくんを治療できるよ~?」
「そうだけど、難易度が高すぎるし」
「興味がない?」
「……ピンと来ない」
「そっか~」
途端に、部屋が静かになった。叶乃果は、手を組んで上に伸びをする。
「なんか、適当に書いて出すよ」
「テキトー?」
「普通に、理工学部とか」
「地方の?」
「地方のも入れる」
「あれ? 都内もいれるんだ~?」
「うん。東京は出たいんだけど、ナツとも一緒に居たいから」
「あ~、たしかに~。そうだ。せっかくだから、調べてく~?」
「そうしようかな。叶乃果は、先に帰ってて大丈夫だよ。付き合ってくれて、ありがとね」
「そう? じゃあ、部活に顔を出すよ~。また明日ね、花菜」
「ん、また明日」
引き戸が閉まり、足音が遠ざかっていく。
しばらくの間、私は、ぼんやりとモニターの画面を眺めていた。
人の噂も七十五日。
晩秋のひんやりとした風が吹くころには、誘拐事件の話は人々から忘れ去られ、私も六十里さんを思い出さなくなるのだろう。そうして、記憶から消えていくのだと思っていた。




