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バス停の記憶  作者: ユト
15/27

15. 嘘はどれ?

「……卑怯だ」

「ひきょう?」

「汚いってこと」

「ああ! 杏里ちゃん、きたないから、おじちゃんに会わなかったのかも」

「杏里ちゃんが、汚いの?」


 どう考えても、汚いのは母親だと思うのだが。


「杏里ちゃん、きたないよ。なんかね、ちょっとくさいの。夏休みのまえから、学校にきてないけど。プールもラジオ体そうもこないから、みんな、『かわいそうだけど、良かったね』っていってる。でも、ぼくは、ちょっとさびしいんだ」

「……みんなって、誰?」

「みんなは、みんなだよ。クラスの子も、先生も、ママも、みんないってる」


 ゾッとした。

 無邪気な顔で、当たり前のように、これが普通だと突きつけけてくる。

 ナツを助けた今ならわかる。『可哀想』は、傍観者の言葉だ。行動のない憐れみは、一種の自己満足でエンタメだ。

 同時に、これか、と思った。叶乃果が「わたし、可哀想だと思う?」と言ったのは。彼女も、クラスメイトに『可哀想』と言われていたのだ。


「杏里ちゃんがきれいになったら、おじちゃん、会ってくれるかな? 杏里ちゃん、また、学校にくるよね?」

「……六十里さんは、どんなアンリちゃんでも、会いたいと思うよ」


 私の、精一杯のこたえだった。

 家がアンリちゃんの安息の地とは思えない。けど、学校が避難場所になっているとも思えなかった。唯一の救いは、アンリちゃんが六十里さんの娘だと、決まっているわけじゃないことだ。

 あの人は変な人だったけど、ハリネズミみたいな人だったけど、優しい人だった。大事な娘がそんなことになっていると知ったら、あの人は、きっと苦しむ。


「祐太ー、そろそろ帰るぞ」

「えー! ヤダー! まだ、ナツにさわってないもん!」


 小さな体をイヤイヤと振る祐太くんに、お母さんがしゃがんで言った。


「ごめんね、祐太くん。まだ、ナツには触れないの。あと何回か来てくれたら、触れるようになると思うから、もう少しだけ待ってくれる?」


 祐太くんは、キョトンとした顔でお母さんを見上げていた。


「また、来ても良いの?」

「もちろん」

「……じゃあ、いいよ!」

「こら、祐太! ありがとうございます、だろう」

「ありがと、ございます! またね、ナツ」


 バイバイと小さな手を振る。ナツは、ちらっと祐太くんを見て、また丸まった。

 祐太くんを見送ると、もうお昼だった。そうめんをみんなで食べたあと、母は買い出しに行き、父は寝室に消えた。私はリビングで、流れるテレビをぼんやりと見ながら、考えていた。

 数学の問題を解いているときよりも、深く、意識が潜っていく。それでいて、感情は嵐の前の海のように凪いで静かだった。


 六十里さんの娘が、六十里アンリだとしたら、あまりに偶然がすぎていた。

 どうして、六十里さんはあの場所でバスを見ていたのだろう。娘が通う小学校の近くで、一週間も。しかも、娘はネグレクトされていると思われる状況で。

 もしかして、六十里アンリを見守っていた? いや、彼なら、娘が虐待されていることを知ったら、救出に向かう気がする。


「救出って、塔のお姫さまじゃあるまいし。大体、相手、親だし。それに、監禁されてたわけじゃないんだよね」


 頭の後ろで手を組んで、天井を仰ぐ。

 なんで、六十里さんは離婚してから、一度も娘に会わなかったのだろう。娘が自分の全部だと言い切った彼が、嘘をついているようには見えなかったのに。


「……嘘?」


 そういえば、彼は「嘘をついた」と言っていた。六十里さんがついた嘘は、なんだ?

 祐太くんと知り合いだったこと? いや、それは、そもそも言っていなかっただけだ。

 実は、暗号を解き終わっていたとか? いや、彼は解けずに焦っていた。

 喉に魚の小骨がつっかえたみたいで、もやもやする。


「……違う」


 背もたれに寄りかかって、肘を両目の上に置く。ひんやりとした腕が、頭を冷静にしてくれる気がした。

 本当は、最初から疑っていて、でも、目を背け続けていたのは私だった。


「彼が見ていたのは、バスじゃなかった」


 口に出せば、言いようのない虚しさがドッと押し寄せた。つくりかけの砂の城が、打ち寄せる波でサラサラと崩れていくような、かなしさ。

 どうして、本当のことを言ってくれなかったのだろう。

 冗談でも、「一一〇番する」なんてことを匂わせたから、信用されなかったのだろうか。

 それとも、たった一回しか会わない高校生だから、嘘をついたのだろうか。

 彼の言葉の、どこまでが本当で嘘なのか、わからなくなってくる。


 なんで今、気付いちゃったんだろう。嫌だ。

 ナツを助けてくれた良い思い出で、終わりたいのに。


 お腹の奥から、不信感と身勝手な憤りがせり上がってくる。

 裏切られた気分だった。

 もう一度、会って、ちゃんと話せば納得できるだろうか。

 ぐるぐると洗濯機のなかで振り回される洋服みたいに、私は思考と感情の渦に溺れていった。

 でも、ある瞬間を境に、その渦はピタッと止まる。強制的なフリーズと言ってもいいかも知れない。


 パリンッと、グラスが割れる。

 麦茶が、お腹から膝にかけて、ぐっしょりと冷やしていく。

 そこからの記憶はひどく曖昧で、今でも、断片的にしか辿ることが出来ない。

 黄色からオレンジへと変わっていく、部屋のなか。

 だれか知らない、テレビの笑い声。

 ウェットフードをいれた、ナツのごはん皿。

 目玉焼きののった、夕飯のカレーライス。

 フラッシュ画像のように、記憶のなかの映像は忙しなく切り替わる。


 このときの私の頭は、一つの映像に支配されていた。

 今でも忘れない。テレビの液晶に映し出された文字を。

 彼は、六十里渉容疑者になっていた。

 同時に、「女子児童誘拐事件の犯人逮捕」と、正確無比に発音するアナウンサーの声とテロップも、無感情に流れてくる。


 もう、なにを信じていいのか、わからなかった。

 真っ暗な感情の濁流に飲み込まれて、目の前は暗転。

 真空の世界へと(いざな)われて、私の記録は終わる。


 *


 目が覚めて、時計を見る。時刻は、昼の十一時をとっくに過ぎていた。

 いつお風呂に入って、どうやって寝たのか、全く覚えてない。


 枕元のガラケーがチカチカと光っていた。

 パカッと開けると、叶乃果からメールと電話が来ていた。

 なんとなくかけ直す気になれなくて、私はガラケーを閉じた。

 ベッドに腰をかけて、薄暗い部屋でぼんやりとする。なんの気力も起きなかった。

 もう一回、寝ようかな。と、ベッドに転がったところで、お腹が鳴った。


「あ。ナツにごはん、あげないと」


 よいしょっ、と立ち上がる。やけに体が重たい。まるでゴーレムにでもなった気分だった。

 のそのそとパジャマのまま、リビングに向うと、テーブルの上にメモ書きがあった。お母さんだ。


「『花菜ちゃんへ。冷蔵庫に、目玉焼きウィンナーとサラダがあります。ナツには、朝ごはんをあげておきました。具合が悪いなら、ゆっくり寝てなさいね。今日は早く帰ります』か。あ、ネコ、可愛い」


 メモの端っこには、耳をピンと立たせたネコの顔が書いてあった。

 両親の気配のない静かなリビングで、ケージを見る。ナツはハンモックの上で丸まっていた。


「ナツ」


 近くで声をかけても、動かない。彼は、背中を小さく上下させて、気持ちよさそうに眠っていた。

 メモの近くにあった食パンをトースターに入れて、テレビをつける。賑やかな色のテロップに、寝起きの目がチカチカした。


 長かった夏休みも、明後日には終わってしまう。

 私の進路調査希望票は、まだ真っ白のままだった。

 冬には、塾に通うことになるだろう。部活も、来年の今頃には引退だ。ゆっくりと寝て、テレビをぼんやりと見ている場合じゃないのは、わかっている。すでに、私は出遅れているのだから。


 チンッ、と軽快にトースターが鳴る。

 テレビはいつの間にか、昼のニュースに変わっていた。


 ――昨日午後、東京都杉並区に住む自称無職、六十里渉容疑者の自宅で女子児童を保護し、六十里容疑者を逮捕しました。女児の母親は、今月下旬から警察に行方不明届を出しており、昨日になって女児が容疑者の住所付近にいるという情報が寄せられたため、警察が保護したということです。取り調べに対し六十里容疑者は、『間違いありません』と容疑を認めており、警察は男の動機や詳しい経緯などを調べています。続いて、――


 私を置き去りに、よどみなく、テンポ良く、画面は切り替わる。

 無意識のうちに、私の手はトースターに伸びていた。


 突然の熱さで、私は思わず食パンから手を放した。きつね色よりも濃い、たぬき色のパンは、ポトンとテーブルの上に落ちる。ジンジンと指先が痺れたように、熱くて痛かった。

(白昼夢じゃなかった……)


 親指と人さし指で、耳たぶをつまむ。

 昨日見たのも今見たのも、現実だった。六十里さんは、女児誘拐犯になったのだと、私は思い知らされてしまった。


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