14. 彼の正体
「ぼくのはなし、聞いてた?」
「ごめん、聞いてなかった。どうしたの?」
「あのおじちゃん、ツイヒジっていうんだよね?」
「そうだけど、なんで知ってるの?」
「花菜ちゃんが、そう呼んでたもん」
「ああ、そっか」
たしかに、あのとき、私は何回か名前を呼んでいた気がする。
「あのおじちゃん、ぼく、知ってたんだ」
「うん、家の鍵を見つけてくれたんでしょ?」
「ちがうよ」と言って、祐太くんは、テーブルで談笑している大人たちをチラッと見た。コソコソ話をするように、小さな唇を私の耳に近づけてくる。
「あのね。あのおじちゃん、杏里ちゃんのパパだったんだよ」
「アンリちゃん?」
「ぼくもね、さいしょ、わかんなかったんだけどね。でも、おうちにかえって、思い出したんだ。杏里ちゃんもね、六十里っていうの」
「え……?」
たしか、六十里さんには娘がいるとも言っていたけど。
「……祐太くん。ツイヒジの漢字は、わかる?」
「わかるよ! 数字の六十に里って書くんだ!」
元気いっぱいの声に、私はシーッと人さし指を立てた。指を当てた唇に、痛みが走る。昨日、唇から血が滲むまで噛んだのが、まだ癒えていないのだろう。
慌てて、ダイニングテーブルに目を遣る。が、両親たちが気にする様子はなかった。勝手に盛り上がっているようで、一安心する。なんとなく、大人たちには聞かれたくなかった。
「杏里ちゃん、パパに会えたかな?」
祐太くんが眉を下げて、首を傾げる。
「どういうこと?」
「杏里ちゃんのパパ、おうちにいないんだって」
家にいない。離婚の文字が頭にちらついて、納得した。
それで、あんなにちぐはぐな格好をしていたのか。肌荒れも。大人ニキビは、ストレスと食生活らしいから。
私が黙って考えていたせいで、祐太くんは暇になったらしい。ケージの隙間から、小さな指を入れようとしていたので、慌てて止めた。
「それって、いつのことかわかる?」
「うーん、冬休みかなぁ?」
「去年の?」
「うん」
「杏里ちゃんは、あんまりパパに会えないの?」
「うん。いなくなってから、一回も会ってないんだって」
「一回も?」
おかしい。
六十里さんは、娘のことを大事にしているように思えた。なのに、一回も会わないなんて、彼らしくない。
「杏里ちゃんがキライだから、会わないのかな?」
「まさか! ありえない。誰がそんな嘘をついたの?」
「杏里ちゃんのママだよ」
「え?」
「杏里ちゃん、ママに『パパは、杏里がキライだからいなくなった』って、言われたんだって」
カッと、頭に血がのぼった。
すべての親が子どもを正しく愛しているわけじゃないのは、昨日、知ってしまった。叶乃果のお母さんの言葉で気付いてしまった。子どもが求める愛と、親が求める愛が一致するとは限らない。
でも、だからといって、なんで、そんな嘘をつくんだ。言葉のナイフは、血が出ない分、記憶に残る。心に、留まり続ける。
小学校に上がった頃だったと思う。
お父さんは、「なおせないものは、壊してはいけないよ」と言った。お気に入りのキーホルダーのクゥちゃんの足が取れたときだ。犬のクゥちゃんは、足をもがれて、胴体を踏み潰されていた。
「クゥちゃん、なおる?」
「……うーん。どうして、クゥちゃんの足は取れちゃったのかな?」
「……モモちゃんとケンカしたから」
モモちゃんは、私に意地悪してくる子だった。あの日、彼女は私に言った。
「花菜ちゃんって、みんなに嫌われてるんだよ! なのに、ヘラヘラして、バカみたい!」と。
本当か嘘かは、わからない。ただ、そのとき、私は嫌われ者なんだと理解した。真っ白なハンカチに墨汁が一滴、ポトンと落ちた染みみたいに、私の心と同化してしまった。
だから、高校生になった今も、心のどこかで、私は嫌われて当然なんだと思っている。
モモちゃんは、黙っていた私が気に入らなかったのだろう。彼女は、私のキーホルダーを引きちぎって、思いっきり踏んだ。そして、満足そうにイヤらしい笑みを浮かべて、去って行った。
「モモちゃんと仲直りしたかい?」
「ううん」
「そっか……」
クゥちゃんは、歪んでいた。私の視界も、雨降りの水溜まりみたいに溜まった涙で歪みかけていた。
「パパは、クゥちゃんをなおせないけど、新しいクゥちゃんを買ってきてあげることはできる。花菜は、それでも良いかい?」
「……イヤ。だって、クゥちゃんは、クゥちゃんだけだもん」
「そっかぁ。そうだね。ねぇ、花菜」
お父さんは、私を抱っこして、頭を撫でた。
「花菜は、なおせないものは、壊してはいけないよ」
「テレビとか、ランドセルとか?」
「いいや。この世の大抵のものは、お金を出せば直せる。でもね、生き物の体や心、信頼は、一度壊したら、元通りになることはないんだ」
「もとどおり?」
「そうだよ。新しいクゥちゃんになっても、このクゥちゃんとは違うようにね。ちょっと難しかったかな」
「わかんなーい」
「そうだね。でも、いつか、わかるときが来るよ」
年を重ねるにつれて、私は、お父さんの言ったことが少しずつわかるようになっていった。
だからこそ、許せなかった。
父親が嫌っていると植え付けたことも、自分のせいで父親がいなくなったと嘯いたことも。




