12. 解けない呪い
叶乃果についていくように向かった大学は、思ったよりも人で賑わっていた。
よくあるビルなのに、あちらこちらに角度違いで密集しているせいか、スマートな巨人の国に迷い込んだ気分だった。
叶乃果の隣を、ただただ歩いた。「今日も暑いね」とか、「この大学、○○分野に強いんだって」とか話す叶乃果に、私は適当に相づちを打つ。コンクリートがジリジリと日射しを照らし返して、暑かった。
オープンキャンパスに来ているというのに、私は、なんの感情も湧かなかった。夢も希望も将来も、たくさんのビルからは、なにも見えなかった。それよりも、隣で平然と歩く彼女が気になってしかたなかった。愚痴一つ、泣き言一つ、こぼさない叶乃果。
ふと、彼女と視線が合った。
「花菜、どうしたの? 疲れちゃった~?」
「あ、うん。ごめん、そんなことはないんだけど」
「どっちだ~」
叶乃果はプッと笑う。
「ごめん」
「全然、気にしないで良いよ~。興味ないのに、付き合ってくれて、ありがとね」
「……ごめん」
どんな顔すれば良いのかわからなくて、どんどん、私は下を向く。
「花菜、大丈夫~? なにかあった? 近くにファミレスがあったから、そこ行く?」
「……叶乃果は、もう見なくても良いの?」
「わたしは大丈夫~。雰囲気とかは、大体わかったから、もう満足だよ~」
「そっか。なら、良かった」
私は立ち止まって、空を見た。かすれた青に、綿菓子みたいな雲がちぎれて泳いでいる。いつもと変わらない、東京の夏の空。なのに、どうしてか、ひどくせまいと思った。人工的に切り取られた、息苦しい空に見えてしかたなかった。
「花菜?」
「……私、東京を出たいかも」
わずかな沈黙が、流れた。
「……それも良いね~。東京を出るなんて、考えたこともなかったよ~。花菜とルームシェアするのも、面白そう~」
「たしかに。でも、私、トースト焼くくらいしか出来ないよ?」
「なら、わたしが目玉焼きをつくってさしあげよう~。花菜サンは、ソース派かな? 醤油派かな?」
「砂糖」
「ウソでしょ?」
顔を上げて、叶乃果を見る。彼女のぱっちりとした目が、さらにまん丸くなっていた。
「さて、どっちでしょう?」
「絶対、ウソでしょ~! え、まさか、本当?」
「一緒に、ルームシェアすることがあれば、教えてあげるよ」
「はぁ~?! じゃあ、花菜もわたしと同じ大学に決定だからね」
「それは、無理。だって、叶乃果の方が頭良いし。とりあえず、ファミレス行こうよ。喉乾いちゃった」
私は、ビルの群れから抜け出すべく、歩く。
いつの間にか、セミの鳴き声が聞こえるようになっていた。
ちょっとだけ前を進んでいた叶乃果を追い越したところで、彼女に声をかけられた。
「花菜サンや。ファミレスの場所は、ご存じなのかな~?」
「……案内、よろしくお願いします、叶乃果サマ」
「うむ。よろしい」
叶乃果は腕を組んで、大きくうなずく。
「……ちょっとイラッとしたから、頬、ムニムニしても良い?」
「なんで~?!」
「暑くて?」
「八つ当たり、やめてくださ~い」
口を尖らせた彼女と並んで、歩くこと十分。
地下鉄駅近くのファミレスに入った私たちは、チャラリラララ、チャラリラララと軽快な音に迎えられた。
「涼しい~。生き返る~」
「わかる~」
冷たい空気に乗って、甘辛いソースや揚げ物、お肉の香ばしい匂いが流れてくる。
店員さんに、「二名。禁煙席でお願いします」と伝えると、すぐに店の奥に案内してくれた。
まだ十二時になっていないせいか、店内はまばらに席が埋まっているだけだった。
ソファに座って、メニューを見る。
キュルルッと可愛い鳴き声がしたと思ったら、隣の叶乃果が恥ずかしそうにお腹を押さえていた。
「叶乃果さんは、小動物をお腹にお飼いで?」
「そうなんですの~。とっても可愛らしいんですのよ~」
オホホ、と叶乃果が手を口に当てて、笑う。
「あらあら~。じゃあ、今度、うちのナツと遊んでいただけますぅ?」
「まあ! 喜んで~。って、そういえば、ナツくん、元気~?」
「元気、元気。まだ、あんまりケージから出せないんだけどね。でも、体重は順調に増えてるよ。明日は、祐太くんが初めて遊びに来るんだ」
「そっか~。落ち着いたら、わたしもナツくんに会いに行っても良い?」
「もちろん。あ、ねぇねぇ、マンゴーのかき氷だって。期間限定。美味しそうじゃない?」
「美味しそうだけど、お昼ごはんを食べようよ~。花菜は何にするの?」
「う~ん。冷製パスタかな? 安いし。叶乃果は?」
「わたしはね~、がっつりスタミナ丼か、お肉増量サーロインステーキかで悩んでる~」
「めっちゃ食べるね。お腹減ってたの?」
「うん。朝ご飯、食べられなかったからね~。あ、スタミナ丼、にんにくだ。サーロインにしよ~。ピンポン、押して良い?」
「うん」
私たちと同じ年くらいの店員さんに注文を告げ、メニューを一つだけ残してもらった。
「……ねぇ、叶乃果」
「ん~?」
「叶乃果は、いつ、進路決めたの?」
「ん~、いつだろう? 手に職をつけたいと思ったのは、中学生くらいだったけど~」
「早くない?」
中学の頃なんて、部活と塾で精一杯で、手に職をつけたいなんて、私は考えたこともなかった。
「そうかな~? 医者の息子とかは、医学部を目指すとか言ってなかった?」
「ごめん。そういうのは、あんまり知らないかも。私の中学の同級生たちは、サラリーマン家庭ばっかりだったし。うちもそうだけど。叶乃果のお父さんって、お医者さんだっけ?」
「ううん。うちは、自営業」
「なんで、そう思ったの? ……って、これ、聞いても大丈夫そう?」
「花菜って、優しいよね~。そんで、隠し事が下手で不器用」
「え、そうかな?」
「顔に出てるよ~。朝のことが気になるって」
また、言われた。
「私って、やっぱり顔に出やすいのかな……」
「もしかして、気にしてた?」
「うーん。気にしてたっていうか、六十里さんにも言われたから」
「あ~、ツイヒジさん。結局、あれから一度も会ってないんでしょ?」
「うん……」
叶乃果は心配するだろうけど、私はやっぱり、もう一度、話したかった。
「あ、サーロイン来た~!」
振り向くと、パスタとステーキを運ぶ店員さんが見えた。
ゴロッとアボカドが転がり、ツナがピョコピョコと生える冷製パスタが私。
ジュウジュウと、迫力のあるお肉がいい音を響かせるのが、叶乃果。大盛りのライスも、彼女のだ。
テーブルに置かれて、すぐ、叶乃果がナイフとフォークを取った。
「うちの母親って、専業主婦なんだよね~」
「う、うん?」
戸惑いで、パスタを絡めていた手が止まる。私は、彼女の言葉を待った。
「だから、逃げられないの」
「逃げられない?」
「自由になれない」
細長く切り分けられたステーキが、叶乃果の小さな口に放り込まれた。
「なにから?」
「わたしたち家族から、かな~?」
家族から、自由になるって、どういうことなんだろう。あんまり、ピンと来なかった。
私は、パスタを食べる。思ったよりも、脂っこくて、食欲が失せた。
「一昨年、父親のおばあちゃんが亡くなったんだけど」
「それは、えっと、ご冥福を」
「祈らなくて良いよ~。わたし、あの人キライだったもん。会う度に、飽きもせずに説教と愚痴と自慢話を垂れ流すんだよ~。すっごい、イヤだった~」
「それは、ちょっと嫌だね……」
「でしょ~? わたしが小学校三年生の頃に、おばあちゃんは足を骨折してね、一緒に暮らすことになったんだけど。父親は、おばあちゃんの世話をぜ~んぶ、母親と私に任せたんだよね~」
「なんで?」
「専業主婦だから。女だから。おばあちゃんの世話は、女の役目なんだって。バカみたいな話だよね~? 誰の親だよって。でも、それを見て、わたしは食いっぱぐれない国家資格を目指そうって思ったんだ。それなら、いつでも離婚できるし、女でも一人で生きてけるでしょ~?」
「でも、だからって」
あんな言葉を投げつけて良い訳がない。
「良いんだよ~。あの人は一生逃げられないけど、わたしはまだ逃げられないだけだもん。だから、今は、平和に穏便に生きるんだ~」
「あれが、平和で穏便なの? 叩かれたのに?」
「いつものことだもん」
叶乃果は、平然とお肉を平らげていく。それを見て、わかってしまった。叶乃果にとっては、本当に、あれが『普通』で『当たり前』なんだと。
六十里さんは、人々の努力と歴史で『普通』は成り立っていると言っていた。けど、我慢や理不尽の上に立つものもあるんだ。誰かが、変えないといけないことも、きっとある。
でも、今の私には、なにもできない。どうすれば良いのかも、わからない。かける言葉ひとつ、思い当たらない自分が情けない。
「花菜がつらそうな顔をしなくても、良いんだよ~。花菜は優しすぎるからなぁ。だから、話しにくかったんだよね~」
叶乃果が、くしゃっと笑った。ああ、そうか。ようやく気が付いた。
これは、つらいのを押し殺して、笑っている顔だ。
私は、自分の両頬を叩く。パンッと良い音が鳴った。
「ごめん、叶乃果。もう大丈夫。話してくれて、ありがとう」
「花菜? え、どうした~?」
「不甲斐ない自分に、活を入れたの。叶乃果が、私が危ないことに巻き込まれるのは嫌って言ってくれたみたいに、私は、叶乃果がつらそうな顔をしてるのは嫌だよ。だから、頼りないかも知れないけど、これからは色々話してくれると嬉しい。言いたくないことだったら、言わなくてもいいけど」
言葉を一個ずつ考えながら話していたら、ちょっとグタグタになってしまった。せめて、嫌な思いをさせてなければ、良いんだけど……。沈黙が怖い。
私は、そそくさとパスタを食べるのを再開した。ちらっと叶乃果を見ると、彼女は、感情をそぎ落としたビスクドールみたいになっていた。ステーキを二切れ分残して、フォークとナイフを持つ手も止まっている。
「……叶乃果?」
「……ごめん、花菜。わたし、つらそうだった?」
「うん。顔は笑ってたけど」
「わたし、可哀想だと思う? ひどいと思う?」
「……すごいと思う。かっこいい」
叶乃果の目が、ゆっくりと大きくなっていく。
「かっこいい?」
「かっこいい。百合みたいに、まっすぐに咲いてるみたいで、かっこいいよ」
ポロッと雫が一滴、叶乃果の頬をつたった。
「わたし、おばあちゃんが死んだとき、ホッとしたの。これで、ママは落ち着いてくれるかも知れないって。最低だって、わかってる。でも、ダメだった。他人がいるときだけは、昔のママに戻るけど、それだけだった。わたしが一番、家族を捨てたがってる。捨てる理由があるんだって思って」
「叶乃果……」
「ごめん、花菜……」
叶乃果の目から溢れる涙は、こぼれ落ち続けた。私はなにも言えなかった。唇を噛みしめる。ただただ、彼女が落ち着くのを見守ることしか、できなかった。




