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バス停の記憶  作者: ユト
11/27

11. 叶乃果

 三


 八月も下旬の土曜日、朝八時過ぎ。

 なんとか補習をまぬがれた夏休みも、もう残り片手で数えるほどしかない。

 消防隊による子ネコ救出劇から、もう一ヶ月半近く経っていた。

 我が家の新しい家族は、今日もケージの中でくつろいでいる。

 あの日よりもちょっとだけ大きくてきれいになったふわふわの毛玉を、ケージの隙間からちょいちょいと撫でる。


「今日も可愛いね、ナツ」


 あたたかくて、柔らかい。早鐘のように脈打つ小さな体は、今日も懸命に生きている。

 子ネコを飼うことに反対した両親も、今ではナツにデレデレだ。

 ナツは、生後三~四週くらいのネコだったらしい。

 里親を探すまででも良いからと、なんとか両親を説得した私は、獣医さんに言われたとおり、毎日、四~五時間おきにミルクをあげて、体重を計り、ウンチの介助をした。

 次の日が土日で、本当に良かった。

 あと二日で夏休みという月曜日の朝、お母さんがケージの前に立っていた。


「今日と明日は、お母さんが子ネコを見るわ」

「良いの? 会社は?」

「お休みにしてもらったわよ」

「私、学校を休むつもりだったのに」

「バカいわないの。花菜ちゃんが一生懸命なのは、見ていてわかったわ。なら、親として助けるのは当たり前でしょ?」

「ありがとう、お母さん」


 そうして、夏休みまでの二日間、笑顔で送り出された。

 でも、それで終わりじゃなかった。

 お母さんは、「花菜ちゃんを育てていた頃を思い出すわ」と言いながら、ずーっと手伝ってくれるようになった。そこからは、さみしがりのお父さんも会話に入りたかったのか、育ネコに参戦。つい先日なんて、ナツのよちよち歩きをビデオで撮影して、腰を痛めていた。


「花菜ちゃん、おはよう」

「あ、お母さん。おはよー」


 お母さんが、休日のお母さんの朝は、いつもより遅い。お父さんにいたっては、お昼まで起きてこない。


「まだパジャマで、大丈夫なの? 今日は、叶乃果ちゃんと一緒に出掛けるんでしょう?」

「んー。ナツが可愛くて、ずっと見てた。今、何時?」

「八時半よ」

「え、やばい!」


 三十分もダラダラしていたなんて、思いもしなかった。私はガバッと起き上がって、急いで自分の部屋に戻る。背後から、「トースト、一枚で良い?」と聞こえたので、「うん! バターとハチミツもお願い!」と答えた。

 パジャマを手早く脱いで、デニムの膝上スカートを履く。半袖シャツをちょっとだけインして、バランスを整えれば完成だ。


 昨晩の内に、服を決めておいて良かった。

 行き先は、都内の大学。だから、制服でもいいんだと思う。でも、帰りに洋服を見て、カフェにも行こうって話になったから、私服だ。休日まで、制服を着たくないのもあったし。


 叶乃果から、「オープンキャンパスに行かない?」と誘われたのは、昨日の夜。突然のメールだった。正直、あんまり乗り気じゃなかった。まだ進路も決まっていないのに、オープンキャンパスに行く意味があるのか、わからなかった。でも、夏休み前のクマ先生の言葉を思い出して、なにより、久しぶりに叶乃果と遊べると思うと嬉しくて、お誘いにのることにした。

 部活の違う叶乃果とは、夏休みに入ってから一度も会っていない。そもそも、今年の夏は、ナツのことがあって、書道部に一度も顔を出せなかったのだ。本当に、うちの部が大会とは無縁のゆるい部で良かった。


 会っていないといえば、六十里さんともあれから一度も会っていない。

 子ネコを救出した翌日、彼はもう、バス停にはいなかった。

 次の日も、その次の日も、またその次の日も。


 夏休みになる前日、ハウルの動く城みたいになっている祐太くんを見つけた。彼は、膨れ上がったランドセルに、ナップサックを両方にぶら下げて、手には植木鉢を抱えていた。思わず、家まで手伝ってしまったけれど、あの子も六十里さんには会っていないと言っていた。


 あの人は、元気にしているのだろうか。


「花菜ちゃん、トースト焼けたわよ」


 お母さんの声で、現実に戻ってくる。

 ガラケーと小さなリュックを持って、ドアを開けた。

 廊下に出ると、バターとハチミツの美味しい匂いがした。


「今日は、何時に帰るの?」

「うーん、わかんない。でも、夕方には帰るよ」

「そう。遅くなるときは、連絡しなさいね」

「うん」


 トーストを食べながら、ナツを見る。ナツは気持ちよさそうに、前足で顔を舐めていた。

 カーテンのレース越しに差し込む光が、燦々とケージの銀を弾いている。

 今日も暑くなりそうだった。


 *


 叶乃果の家は、そんなに遠くはない。バスと電車を乗り継いで、一時間くらいだ。

 今日行く大学が、彼女の家から近いこともあって、叶乃果の家で合流する約束をしていた。が、私は玄関の前に立ったまま、インターフォンを押せずにいた。

 きっかけは、女の人のヒステリックな怒鳴り声だった。


「だから、なんで、私の言うことがきけないのよ! 誰のために、パパと離婚もせずに我慢してると思ってるの!」


 荒れ狂う台風みたいだと思った。心臓がバクバクと鳴り、体はメデューサに睨まれたみたいに固まって、動けなくなってしまった。

 バシンッ、と何かを叩く、鋭い音がした。


「うるさい! あんたなんか、一人じゃ生きていけないくせに! 一人で生まれて、一人で生きてきたみたいな顔して! 誰のおかげで、学校や塾に行けて、きれいな家に住めてると思ってるのよ! 全部全部、私のおかげなのに。あんたたちは、感謝一つしないじゃない!」


 声は、段々と近づいてきていた。

 叶乃果が反論する声も、遅れて聞こえてくる。


「感謝してるよ。いつも、ありがとう。でも、それと、わたしの進路とは関係ないよね? ママは、わたしが理系に進んだときも、反対してたけど」

「なにが感謝してる、よ! 女の子は、家にいて、家のことができるのが一番なの! 苦労して欲しくない親心が、どうしてわかんないの?!」

「だから、その考えが時代錯誤なんだって! あ、花菜がもう着くって」


 それは叶乃果の嘘だった。同時に、到着の連絡をしていなかったことに気付いた私は、急いでガラケーを出した。

 ドタバタと玄関近くに、音が集まりはじめる。


「待ちなさい、叶乃果!」

「夜には、帰る。いってきます」


 私は、慌てて玄関から離れた。けど、間に合わなかった。

 玄関から飛び出てきた叶乃果と、目が合う。彼女の左頬は赤く、滲んだ瞳は井戸の底を覗きこんだように真っ暗だった。

 痛々しさと後ろめたさで、私は、つい下を向いてしまう。


「花菜……来てたんだ……」

「ごめん。聞くつもりは、なかったんだけど……」


 申し訳なさで、声が小さくなる。


「大丈夫だよ~。気にしないで。むしろ、変なのを聞かせちゃって、ごめんね~」


 叶乃果の声は、いつもどおりだった。やわらかくて甘い、スミレの香りみたいな声で、私のよく知る喋り方。なのに、どうしてか心がざわついた。


「叶乃果、大丈夫……?」

「なにが~?」


 叶乃果は、つらくないのだろうか。いや、そんなはずはない。実際、目が潤んでいたし。

 でも、私は言えなかった。


「……えっと、ほっぺとか」


 恐る恐る、叶乃果を見る。

 彼女は、笑っていた。


「ああ、これ? 全然、大丈夫~。あんなの、いつものことだし。それよりも、早く行こう~」

「う、うん」


 どうして、彼女は笑っているのか、わからなかった。

 彼女の母親の言葉は、石なんて生易しいものじゃない。悪臭がこびりつく腐った卵や牛乳を、彼女の全身に浴びさせているような、そんな言葉(呪詛)だった。


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