10. 解決方法はひとつじゃない
「でも、悪いな。俺には、できない」
私は耳を疑い、男の子は小さく息を呑んだ。
「なんで? ぼくがおじちゃんをあやしい人って言ったから? だから、いじわるするの?」
男の子の目に、薄い水の膜がかかる。
「そうじゃない」
六十里さんは、ゆっくりと首を振る。彼の声は、じんわりと温もりをもっていた。
「俺みたいな素人が手を出すと、子ネコの命が危ないんだよ。だから、消防庁、一一九番に通報するのが一番良い」
「じゃあ!」
「さて、ボウズ。おまえ、子ネコをここから出したあと、どうするんだ?」
「え? どうもしないよ?」
クリッとした目をぱちぱちとさせて、男の子は首を傾げた。
「それじゃあ、子ネコを助けたことにはならねぇぞ?」
「なんで?」
私も、男の子の気持ちと同じだった。
今、この可哀想な子ネコを助けることが以外に、なにをすることがあるんだろう?
「ボウズ、さっき、この子ネコをつかんだって言ったな?」
「うん」
「こいつは、たぶん、ノラネコだ。まだ、子ネコのこいつは、一匹じゃ生きていけねぇ。それは、わかるか?」
「うん、わかるよ。おかあさんネコがいるんだよね?」
「そうだな。でも、おかあさんネコはな、人間が触った子ネコ、人間の臭いのついた子ネコを育てねぇんだよ」
「そうなの? じゃあ、この子は、どうなるの?」
「どうなるだろうな。ただでさえ弱ってるんだ。もしかしたら、すぐに死んじまうかもな。それか、カラスに狙われて、エサになるかも知れねぇ」
「そんな……」
私の口からは、自然と絶望が漏れていた。
生態系から見れば、六十里さんの言っていることが至極当然なのはわかる。でも、感情が追いつかない。
「だから、言っただろう? ここから出しただけじゃ、助けたことにはならねぇって。で、ボウズ。おまえは、どうしたい?」
「おじちゃんは、かってくれないの?」
「俺は、飼えない」
「じゃあ、おねえちゃんが」
男の子の顔が私に向く。
「おい、ボウズ。頼ることは悪いことじゃねぇ。が、自分はなんもせずに、誰かにやってもらおうっていうのはいただけねぇ」
「じゃあ、どうすれば良いの?! ぼく、かえないもん!」
「なら、このまま帰れ」
「え……?」
「助けることができねぇなら、帰れ」
なんて残酷な提案をするんだと思った。同時に、六十里さんらしくないとも思った。
言葉に詰まる男の子の代わりに、私は訊く。
「それって、この子ネコを見捨てるってことですか?」
「見捨てるとは、ずいぶんな言いようだな、女子高生。俺は、自然の摂理に任せると言ってるだけだ」
「目の前に、命があるのに?」
「そうだな。でも、その命に責任が持てないんだろ? なら、関わるべきじゃねぇ。一度飼ったら、責任持って最後まで面倒を見ましょうっていうだろ? 一時しのぎの助けなんてもんは、ただの自己満足で、無責任だ」
六十里さんの顔は、苦しそうに歪んでいた。
きっと、彼はまた、自傷したのだ。
いらだつ彼の息遣いも、トゲのような言葉の余韻も、濁った夏の空気と混ざって溶けていく。男の子の泣き声と、か細い子ネコの鳴き声と、うるさいセミが不協和音を奏でていた。
誰も救えない。誰も救われない。
こんな解決方法を、六十里さんの答えを認めちゃいけない気がした。
ハリネズミが傷つくのを見るのは、もう嫌だ。
考えろ、私。
おでこを拳でグリグリしていると、フッと叶乃果の言葉が流れ込んできた。
『花菜って、好奇心と行動力の塊みたいなところがあるんだもん』
そうだ。ここで立っているだけの傍観者なんて、私らしくない。
「……帰るぞ、ボウズ。おまえの親が心配してる」
大きな手が差し出される。男の子は、まだ迷っているようだった。
六十里さんは、小さな手を強引に、でも優しくつかむ。
「山田も、帰るぞ。ここまで付き合ってくれて、ありがとな」
「嫌です」
「……は?」
「嫌」
「おまえ、俺の話を聞いてたよな?」
「聞いたけど、納得してません」
「屁理屈がすぎるだろ、女子高生」
「六十里さんは、この子ネコの運命を言っていたけど、それは確率の問題、ですよね?」
彼は呆気に取られたような顔をしていた。
ちょっと胸がすく。
「放置すれば、死ぬ確率が増す。救出しても、死ぬ確率は高い」
「……そうだ」
「なら、私が飼う。飼えないって言われたら、里親を探す」
「おいおい。親に相談せずに勝手に決めて、やっぱり無理でしたってなったら」
「ならない。私は、子ネコじゃないし、子どもじゃないから」
「でも、未成年だ。保護者が必要な存在だ」
「うん。でも、親は足かせじゃない」
六十里さんの顔が強張り、体がビクッと動く。
男の子は、六十里さんの手を握ったまま、心配そうに私たちを見ていた。
「両親を信じてるんだな」
彼が何を言ってるのか、と私は理解できなかった。
そんな私を見て、六十里さんは笑った。くしゃっ、と折り紙をシワシワにしたみたいな顔で。寂しそうな、傷ついたような目で、彼は笑っていた。
私はわかってなかった。
もしもこのとき、私が彼の心が読めたなら、私は彼の力になれていただろうか。それとも、「帰れ、女子高生」とあしらわれていただろうか。どうすれば、彼らに手を差し伸べることができたのだろう。どうすれば、手を取ってもらえたのだろうか。後悔は、消えない。
彼は、ポケットに手をつっこんで訊く。
「……わかった。本当に、良いんだな?」
「うん」
彼の視線をまっすぐに返したまま、うなずいた。
六十里さんは深くため息を吐いて、スマートフォンを取り出す。
「おねぇちゃん、ありがとう!」
男の子は、太陽のような笑みを満面に浮かべていた。つられて、私も微笑む。
どういたしまして、というのは、なんか違う気がして、ちょっと考える。
「きみ、名前は?」
「小畑祐太!」
「ゆうたくん、うちで飼うことになったら、遊びにおいで」
「良いの?!」
「良いよ」
私は笑う。六十里さんの表情も穏やかで、嬉しかった。
喜びと不安が、責任と希望が、私を見ている気がしたけど、別によかった。肩に乗っかった重責は、自分で選んだからなのか、不思議と嫌じゃなかった。
(まずは家に帰って、それから動物病院に行って。お金は、これまでのお年玉で足りるかな?)
「十分くらいで、消防士たちが来てくれるってよ」
電話を終えた六十里さんが言う。
「もう、だいじょうぶなんだよね!」
「たぶんな。ちゃんと救出してくれると思うぞ」
私と男の子は、子ネコの前にしゃがみこんだ。
さっきまでか細く聞こえていた鳴き声が、今は、この子ネコが生きている証だと思えるほど、力強く感じる。
六十里さんは雑草地に立ったまま、鳥居の向こうを見ていた。
(明日もバス停に行こう。それで、子ネコのことを報告しよう。六十里さんも喜んでくれるそうだし)
雑草が不快なことも忘れて、私はちょっとだけ先の未来に浮かれていた。
明日も明後日も、当たり前のように六十里さんに会える未来を信じていた。
そんな日が来ないことも知らずに。




