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バス停の記憶  作者: ユト
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1. 後悔を塗り替えたい

はじめまして。

どうそよろしくお願いします。

 一


 土曜日の東京、三鷹市。

 私の職場のいちかわ子どもクリニックは、バス停から徒歩五分にある。

 勤務医は、医院長の市川先生だけ。腕が良くて、優しい先生だとクチコミも良い。開業して十五年らしいが、童顔のせいか、「先生は、ずっと若い」と患者のお母さんたちからは、うらやましがられている。

 私はまだ勤めて三年の看護師だが、このクリニックは居心地が良いと思う。


 その理由の一つは、先生こだわりのこの診察室だろう。

 窓のない診察室が一般的ななかで、この部屋には丸い天窓がある。天窓には、ハンモックみたいなカーテンがつり下がっていて、差し込む太陽の光を和らげてくれる。おかげで、診察室なのに、この部屋はどこかを優しくてあたたかい。

 カーテンの隙間から空が見えるのも、すごく良い。今日は、鮮やかな青。晴れだ。


 私は診察台を拭いて、四角い枕に新しい不織布をかけた。白いバスタオルを持って、きれいに折りたたむ。

 そういえば、今年の関東の梅雨明けは例年よりも一週間ほど早いと、ニュースで見た。今はまだ、ニイニイゼミの鳴き声が聞こえるだけだが、そのうち騒がしくなるのだろう。

 真夏になると、すぐそばの神社の裏が雑木林のせいで、セミ爆弾に出くわすのだ。帰り際、透明な扉の向こうで、ひっくり返ったセミを見るたびに、私の寿命が三日ほど縮む気がする。あれは、とても嫌だ。


 しかしというか、やっぱりというか。今日はどうでも良いことを考えてしまう。

 手に持ったバスタオルを置いて、他にすることはないかと診察室を見回してみる。

 床にゴミはない。喉を診る舌圧子も、ルゴール液をつける咽頭捲綿子も十分。消毒用アルコールのストックもたっぷり。市川先生は、まだ前の患者のカルテを書いている。


 だめだ、もうすることがない。


 仕方ない。

 私はスタッフ扉の脇に控えて、カタカタと軽快にキーボードを叩く音を聞くことにした。

 先生は、患者のことを何でもカルテに書く。体調や最近の食事、今好きなものや家族関係まで。でも、診察中はあまりパソコンに触れない。だから、必然的に患者を待たせることにもなるのだが。

 私はちょっと首を伸ばして、先生の白髪の交じりの頭越しにパソコンを覗いてみた。モニターには、本日最後の患者の名前が映っていた。


六十里(ついひじ)杏里(あんり)


 ドクンと、私の心臓が勢いよく跳ねる。

 卓上時計のドラえもんと目が合った。

 十三時四十二分。

 文字盤のなかのドラえもんは、楽しそうにタケコプターで空を飛んでいた。


「山田くん? 山田()()くん?」

「あ、はい。すみません、先生。なにか、ご用でしょうか?」

「とくに用はないけど、大丈夫かい? えらく真剣な顔をしていたけど」


 市川先生は、上体だけ振り向いて、私を見ていた。眉間に浅いシワをつくり、下唇をツンと突き出している。キーボードの音は止んでいた。


「問題は、ありません」

「そう? なら、良いけど。無理はいけないからね」


 ふっと、先生が微笑んだ。それがまるで、あたたかな陽だまりのようで。私の唇から、言葉がするりとこぼれ出た。


「……緊張しているんだと思います」

「緊張?」

「今日は、彼女と約束した日なので」


 先生はパソコンに目をやると、「ああ」とうなずいた。


「私が口を、顔を突っ込んで良かったのか、わからないんです。そっとしておくのが良かったんじゃないかとも思ってしまうんです。でも、後悔は消えなくて……。怖いんです。真実を知るのが」


 ドロドロと湧き出る膿だった。傷口からジュワジュワと滲み続けて、止めるすべを知らない黄色の液体。もう、とっくに石灰化したと思っていたのに。


「山田くん」

 先生の声が優しくて、つらい。叱られ待ちの犬みたいに、視線を床に落としてしまう。

「すみません、先生。こんなこと、私が言う資格なんてないのに、情けないです。次の患者さんを呼んできますね」


 逃げるように、私はそそくさと引き戸に向かう。


「待ちなさい、山田くん」


 二度目の私を呼ぶ声は厳しくて、足がびくりと止まった。


「過去は、神でさえ変えることは出来ない。君は、もっと自分を(ゆる)して誇るべきだ」

「でも、」

「君は、幸せになるための条件を知っているかい?」

「……は? いいえ?」

「幸せになるためには、三つの条件がある。健康であること、利己的であること、そして愚かであることだ。君はもっと利己的で、愚かになったほうが良い」

「……先生」

「なんだい?」

「そのアドバイスは、どうかと思います」


 振り向くと、先生はキョトンとした顔をしていた。

 しん、と沈黙が降りる。丸メガネの向こうで先生の目がぱちぱちと瞬いたかと思えば、先生は目尻にシワが寄せて笑った。


「いつもの調子が戻ってきたみたいで、なによりだよ。言っておくけれど、今の言葉はフランスの小説家、ギュスターヴ・フローベールの言葉でね」

「先生、患者さんをお待たせしていますので」

「本当に、山田くんは切り替えが早くなったなぁ。良いことではあるけれども。まあ、いいや。次の診察を終えたら、君はすぐに休憩に入りなさい。そして、心残りの決着を付けてくるんだ。彼を解放してあげられるのは、きっと、君しかいない。がんばりなさい」


 力強い笑みだった。きっと大丈夫だと思わせてくれる、医師の顔。

 本当に、先生はずるい。ツンと鼻がしびれた気がして、慌てて天井を仰いだ。涙をこぼすには、まだ早い。

 涙声にならないように唾を飲んで、私はお辞儀をした。

 背筋を伸ばして、真っ白な引き戸開ける。

 待合室は、セーラー服の少女が一人、姿勢正しくソファに座っているだけで、ガラガラだった。真剣な表情で手元の紙を見つめる女子高生。ハリのある頬はほんのりと赤く、艶のある黒髪はポニーテールにまとめられていた。


「六十里さん、六十里杏里さん。診察室にお入りください」


 パッと、少女が顔を上げた。プリントをバッグに入れて、スマホを取り出す。診察室の前まで来た彼女は、メッセンジャーアプリの画面を私に見せた。


「ねぇ、花菜ちゃん。これで良いと思う?」

「うん、ばっちり」


 私は、親指と人差し指で丸をつくる。彼女は不安そうに眉を下げたまま、カスミソウが揺れるように小さく笑った。

 震える指でスマホをトンッとタップする。すぐに既読がついて、「了解」のスタンプが返ってきた。


「花菜ちゃん」


 私を見る彼女の瞳は、揺れていた。きっと、わたしの瞳も揺れていたと思う。

 三十分後には、会えてしまう。十年待ったのが嘘みたいだった。


「ありがとう、杏里ちゃん。大丈夫。だから、診察、してもらおう」

「……うん」


 少し頼りない足取りで、彼女はストンと丸椅子に座る。


「やあ、杏里ちゃん。最近は、どうかな?」


 見慣れた診察風景。いつもの、当たり前の日常。

 彼女の背中を見ながら、私はギュッと拳を固めた。

 進むために、私は結末を問いに行く。


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