『犬』とはどういう事ですか?!
「私をっ!貴方様の『犬』にしてくださいっ!忠実なる『犬』にっ!」
私、レイシェル・パフグリーは急に目の前に現れて跪き唐突すぎる発言をした男を驚愕の目で見ていた。
学び舎である王立学園の廊下の真ん中で突然跪き『犬』になりたいと言い出した男はラベンダー色が溶けたようなシルバーの髪にアメジストのような瞳の、学園に通う者、いや、この国に住む者ならば誰もが知る人物である。
レジナルド・ラピラス王太子殿下。
この国ラピラス国の第一王子であり、先日大々的な立太子式を終えたばかりの王太子殿下が、何故か突然私の前で跪いたのだ。
しかも『犬』になりたいと。
犬とは何?どういう事?
私はパフグリー家の長女であり、一応は侯爵家の令嬢である。
兄が2人いるので家を継ぐ事はなく、何れ何処かの家に嫁ぐ事になるのだとは思っているのだが、我が家の家族は私の事を溺愛に近い位に愛してくれている為に我が家に届く釣書は私の目に入る前に燃やされており、17歳になった現在でも婚約者のいない状況である。
婚約者がいないからと遊び回る一部のご令嬢のような真似は一度たりともした事はなく、家族以外の男性との触れ合いは未だ且つて一度もした事がない私の前に突然現れた王太子殿下が意味の分からない『犬』発言。
これで混乱するなという方が無理な話である。
「で、殿下?!」
「私の事は好きに呼んでもらって構いません、我が主。可能であれば名を授けていただければ...」
いやいや、ちょっと待って!
私、いつ殿下の主になりました?
え?犬ってそういう事?本気の犬ですか?
いやいや、無理ですよ!どこの世界に王太子殿下を犬として飼う侯爵令嬢が存在しますか?
「おやめください!お願いしますから跪かないでください!」
「はいっ!」
私の言葉に勢いよく立ち上がった殿下...私の言う事をきちんと聞いてくださるのね...有難いけど恐れ多すぎる。
「あ、あの、ここでは人目がありますので、別の場所で...」
「はいっ!分かりましたっ!では、僭越ながら私が主様をエスコートさせていただきます」
...これはどうするのが正解なのでしょうか?
運良く人がほとんどいなかった為に殿下の突然の奇行は人目に触れていないと思うが(いや、思いたい、切実に)このままではいつ人が集まってくるかも分からない。
殿下のエスコートを受けて、殿下が持ち込みで執務を行っているという教師棟の一角にある第二資料室とプレートに書かれている部屋へと連れて行かれた。
スッキリと整理された室内は執務を行うのだろう黒檀の立派な机と椅子が窓際にあり、部屋の右側には資料室の名残なのか何かの資料らしき物が山積みになっている。
左側には休憩用に使うのかローテーブルとソファーセット。
そのソファーへと座らせられた私は、隣にピタリと寄り添うように殿下に座られて身を固くしている。
「どうぞ。主様のお口に合えばいいのですが...」
「...その、主様と呼ばれるのはちょっと...」
「そうですか...ではレイシェル様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「いえ、レイシェルと呼び捨てにしていただいて構いませんから」
「そ、そうですか!呼び捨て...」
頬を染めて喜びに目を輝かせているこの人は一体誰なのだろうか?
見た目は間違いなく王太子殿下であるけれど、私が知っている王太子殿下ととても同一人物とは思えない。
数度しかお会いした事はなかったが、殿下はとても有名人なので交流がない私でも殿下の為人はよく知っている。
真面目で努力家。人当たりが良く対応はスマート。人を見抜く目に長けており真に有能な者を取り立てる。
どれだけ由緒正しい家柄の者であろうと才のない者は切り捨てる潔さを持ち、決して流されない強さも持ち合わせている。
その上自身を守る為の鍛錬も怠らない為に『聖剣』と呼ばれるこの国で最高の騎士の称号であるそれを実力でもぎ取ったという。
容姿も他の王子達と並ぶと殿下だけが突出する程に美しく、この国に住まう者、いや、殿下を一度でも目にした事のあるご令嬢ならば一度は「殿下のお傍に...」と夢を見るのではないかという程の非の打ち所のない人、それが殿下である。
因みにこの国には王子が殿下の他に3人いらっしゃり、そのどのお方も大変美形でいらっしゃるのだが、殿下の美貌は「絶世の美男」と呼んでもいい程に整い過ぎている為霞んで見える。
そんな完璧なはずの殿下が何故私を「主様」と呼び、呼び捨てをこれ程までに喜んでいるのか...そもそも『犬』ってどういう事なのか...謎でしかない。
「殿下...」
「殿下等と呼ばないでください、レイシェル...私は貴方様の『犬』なのですから」
「いえ、あの、その『犬』とは、一体...」
「『犬』とは『犬』です。レイシェルは『犬』がお好きなのでしょう?」
「?????」
確かに私は犬が好きだ。犬に限らず猫も鳥も大好きだ。
だけど私はアレルギー体質の為に動物は飼えない。
その事を嘆いた事は数知れず...確か3日前にもその事を嘆いていた気がする、図書室の窓から見えた用務員さんが番犬として飼っているアロンを見ながら。
その時誰かに声を掛けられたような?
あの時何と言われて何と答えたのだろうか?
真っ黒くてモフモフのアロンを見る事に集中していたので誰に声を掛けられたのかすら覚えていない。
「...あの...つかぬ事をお尋ねしますが...3日前に図書室で私に声を掛けたのは...殿下、ですか?」
「そうです!私です!」
「...その時の事をお聞かせ願えますか?」
「勿論です!」
あの時の私は無自覚にも独り言を呟いていたそうだ。
「アロン可愛いなぁ...いいなぁ、犬...可愛いなぁ...私だけの犬、欲しいなぁ...」と。
そこに声を掛けたのが殿下だったそうだ。
「犬が欲しいのですか?」
「はい...欲しいです、私だけの犬...でもアレルギーがあるので無理なのです...はぁ、犬、いいなぁ...」
「...では、私を貴方だけの犬として、お傍に置いていただけませんか?」
「いいですね、私だけの犬...」
いやいや、私よ!人の話はきちんと聞きましょうと教わってきただろう!聞け!きちんと!聞いていればこんな事にはなっていないだろう!
私とのこの会話で殿下は何故か「レイシェル嬢の犬になる!」と決意され、城に戻ると側近のモトルーガ様(侯爵令息)に頼み犬の耳が付いたカチューシャや尻尾を用意してもらったそうだ。
何故...。
それを付けて犬の真似を極めようと鳴き真似の練習等をなさったそうだが上手く行かず、事情を聞いたモトルーガ様から「では実質的な犬ではなく、下僕的な犬となればよろしいのでは?」と言われてシフトチェンジ。
私を飼い主である主と認め、忠犬という名の下僕として傍に置いて欲しいと考えたそうだ。
だから何故...。
「犬も下僕も必要ありませんから...そんな恐れ多すぎる事...」
「そんな...では、どうすれば貴方の傍にいられますか?これまで何度も婚約の打診をしても全て断られ続けた私には、貴方の傍にいられる方法が分かりません」
「は?婚約?打診?え?はい?」
「...ご存知なかったのですか?」
「知りません!全く!」
殿下曰く、私と初めて挨拶を交わした7歳の時(その当時の私は6歳。殿下は1歳年上)に私に運命的な(ここを強調された、何故か)一目惚れを果たし、それ以降何度も何度も婚約の打診をしてきたそうだが、我が家からの返答は何時も『否』。
王家からの打診を断り続ける我が家って一体何なんだ?!
それでもどうしても諦めがつかず、でも流石に18歳になったので本格的に妃を据えなければならない事になり、最後のチャンスとして私に声を掛けようと決め、声を掛けたタイミングがあの図書室...。
何てタイミングで声を掛けるんだよ、この人は!
私はアロンに夢中すぎて適当に答えているし、その適当な答えに本気で挑もうとする殿下の真面目過ぎるのか、ちょっと残念な方向性と言えばいいのか、そんな何ともいえない状況が重なった結果の『犬』発言。
原因は全て私と我が家にあり!
そもそも殿下からの婚約の打診ならば喜んで受けましたよ、私!
例に漏れず私だって「殿下のお傍に置いていただけたら...」と思った事がある1人ですし、学園内でチラホラと遠くからお見掛けするだけだった殿下ですが、見掛ける度に「素敵...」と頬を染める位にはひっそりとお慕いしていた自覚がありますから!
勿論顔は文句なしに好みのど真ん中ですし、誰にも見られていないような場所でもきっちりとなさっていて「この方は何処で気を休めていらっしゃるのでしょう?」と心配になったり、教師陣すらも舌を巻く程の論文を発表された際にはその知識量の多さに驚いたと共に「これだけの知識を収める為にどれ程努力をなさっているのでしょう?きちんと休まれていらっしゃるのでしょうか?」と感心したり心配したり。
尊敬する面しか知らないので憧れに近い思慕の念は当然抱いておりましたから、婚約の打診なんてされたら二つ返事でお受けしますよ!
と、思わず立ち上がって言ってしまっていた。
「ほ、本当に?」
我に返ると頬を染めて目を潤ませた殿下が私をしっかりと見つめており、自分が言った言葉を取り消せるはずもなく、顔が燃えるのではないかという程に熱くなったのだが、コクンと頷くと殿下に真正面から抱き締められてしまい、顔を見られる心配はなくなった。
抱き締められた事で殿下の胸に耳を当てるような体勢になったのだが、殿下の鼓動が私のよりも早くて「あぁ、この方は本当に私の事を好いてくださっているのだな」と嬉しくなった。
その後の私はというと、家に帰って父と兄二人に猛抗議。
母は「だから言ったこっちゃない」と男3人を見ていた。
父と兄達は私を嫁に出すつもりはなく「一生うちにいればいいじゃないか!」と泣いていたが「そんな訳いくか!」と怒鳴った所シュンとしてしまった。
そんな私の姿を殿下が見ていた事は後で知ったのだが、何故か殿下に「やっぱり犬として...」と頬を染めて言われて丁重にお断りをした。
そして殿下と婚約をし、私が18歳になったら結婚式が行われる事が決まった。
婚約が決まったから初めてお会いしたモトルーガ様に「あのクソ真面目なやつをあんなに楽しく変化させてくれてありがとう」と楽しそうに言われたのは解せなかった。
モトルーガ様は悪ノリで殿下を煽ったようだ。
当然だよね、悪ノリじゃなきゃ何なんだって話だし、本気でアドバイスしていたのだとしたらこの国の今後が危ぶまれると思う。
*
「シェリー」
愛おしそうに私の愛称を呼ぶレジナルド様。
その美しすぎるご尊顔に慣れた...はずもなく、見つめられると何時だってドキドキと心臓がうるさく騒いでしまう。
「ここ、覚えてる?」
王城内の一角にある小さな噴水だけがある庭。
「...昔、ここに来た事が、ある、ような?」
「ここでシェリーと出会ったんだよ」
朧気な記憶を手繰り寄せるのだが、ここに来たであろう事は覚えていてもここでレジナルド様に会ったという記憶が思い出せない。
「ここでね、僕は君と出会って、世界が変わったんだ」
私と2人きりになるとレジナルド様は「私」ではなく「僕」という。
気を許していただけているのだと思うと心が温かくなる。
「あの頃の僕は傲慢で我儘な王子だったんだ。平気で人を見下して、僕の思い通りにならない事なんてないって思っていたんだ」
「まぁ...」
「そんな僕を変えてくれたのが、シェリー、君だ」
「私が?」
私とレジナルド様が出会ったあの日、私はまだ幼過ぎて怖いもの知らずだったようだ。
傲慢な態度のレジナルド様に「カッコ悪い!」と言ったらしい。
「どの家に生まれるかは運!幸運に恵まれてたまたま王家に生まれて王子になれただけなのに偉そうにしてるなんてカッコ悪い!威張れるだけの事もしてないのに威張るなんて本当にカッコ悪い!」
なんて事を言ったんだよ、当時の私...多分兄の受け売りだよね...うちの兄達、いつもそんな事言ってるから。
「運良く良い家に生まれただけで僕らはまだ威張れるだけの努力も結果も出てない。そんな僕らが威張って行動したらそれはただの弱い者いじめだ、カッコ悪い!」
小さい頃からそういう事を聞いていた私はまだ何の疑いもなくそれを受け止めていたし、今でも根本にそういう考えがある。
貴族だというだけで人を見下し、偉そうにしてるだけの無能なんて心底軽蔑している。
だから私も自分の出来る範囲で努力してきたし、平民だからって理由だけで見下す事もその努力を認めないなんて事もしなかった。
「シェリーに言われた言葉がね、ストンと落ちてきたんだよ、心に。そうか、僕は幸運にも王子として生まれただけなのかって。そしたらとても恥ずかしくなってね。王子として敬ってもらえる存在にならなければと思えたんだ」
「...何だか申し訳ありません」
「謝る事じゃないよ、あの言葉がなかったら今の僕はいない。全て君のおかげなんだ」
「そんな...」
「あの日から僕の心には君がいる。君が僕の中で輝き続けているんだよ、シェリー」
熱の篭った目で見つめられると顔が一気に熱くなる。
「私、そんな大層な者ではありません...あの頃の私は怖いもの知らずなだけの子供でしたし」
「純粋無垢なシェリーの言葉だったから、僕は自分自身を見つめられたんだと思う。あの運命的な一目惚れがなければ今の僕はいないんだ」
そっと壊れ物を扱うように引き寄せられふんわりと抱き締められた。
「愛してる、シェリー。僕を叱ってくれるのも、膝枕で甘やかしてくれるのも、僕が愛を捧げるのも君だけだ」
「私もお慕いしております、レジナルド様。疲れたら何時でも膝位何時間でもお貸ししますわ。何時でも寄りかかってください。私の愛もレジナルド様だけに...」
2人の影がそっと重なった。