9.与えられた猶予
「さっき、時計が好きか聞いたな?」
タイムの問いかけにソフィアは頷いた。
「そうだとしたら何だ? 何か文句でもあるのか?」
「文句とかじゃなくて」
そう文句などある訳ない。ただ。ソフィアの脳裏にあの時計が浮かぶ。あのお気に入りだった時計が。
「私も時計が好きだったからちょっと嬉しくて」
「……時計が?」
その言葉は予想外だったのだろう。タイムは驚いたような顔をし、手を止める。
「時計が好きなのか?」
よほど意外だったのだろう。タイムは確かめるようにそう尋ねる。それにソフィアは頷いた。ソフィアは時計が好きだった。タイムのように時計をいくつも持っていた訳ではない。彼女が持っていたのはたった一つだけ。しかしそれをソフィアは何よりも大事にしていた。
「音が好きだったの。時計はいつでも鳴っていてくれるから」
規則正しく、鳴り続ける音。その音を聞くと酷く安心できた。一人じゃないとそう言ってくれているようで。ソフィアはその時計さえあればそれだけで良かった。
「お前も時計を集めていたのか?」
「ううん。こんなにいっぱいの時計は持ってなかったよ。私が持っていたのは一個だけ」
たった一つ。ソフィアが持っていたのはそれだけだ。その時計の価値をソフィアは知らない。高価なものなのか珍しいものなのか、それともどこにでもありふれたものなのかソフィアにはわからない。しかし彼女にとってその時計は特別だった。
でも……
「私の時計はもうないんだけどね」
「なくしたのか?」
「ううん」
なくした訳ではない。もっとも今になってはなくしたと言っても過言ではないが。
「壊れたのか?」
タイムの問いかけにソフィアは頷く。
壊れた。そう壊れた。大事にしていた時計。しかし見るも無惨な姿になってしまった。あんなにも大事にしていたのに。
「壊れたのなら修理すればいいだろう」
「駄目なの。もうないから」
「もうない?」
そう、無くなってしまった。ソフィアの目の前で壊されたあの時計。そしてその時計がどうなったか。ソフィアにはもうわからない。
「探してもらったけどなかったって」
ソフィアは今でもよく覚えている。探したけど見つからなかった。そう言って頭を下げたその人の姿を。自分なんかの為にきっとあの人は一生懸命探してくれたのだろう。ソフィアはそれがわかっていたから責められなかった。
「なくしたのなら新しいのを買えばいいだろう」
タイムの言葉にソフィアは首を振る。そう、他のものでは意味がない。ソフィアにとってなくしてしまったあの時計こそが何よりも大事だったのだ。
「あの時計は……あの時計じゃなくちゃいけなかったの」
ソフィアはそう言うと首をかきむしるように触る。そこにあったはずの時計は既にない。ソフィアは僅かに唇を噛みしめる。その様子をタイムは黙って見ていた。
「おい」
「え?」
「終わったぞ」
いつの間にか足の治療は終わっていた。足に綺麗に巻かれた包帯を見て、ソフィアは思わず感嘆のため息をつく。
「タイムってお医者さんなの?」
「貴様は何を聞いていたんだ?」
タイムは呆れたような顔をする。ソフィアはそれに笑う。彼の人を馬鹿にするような話し方にももう慣れてしまった。
「私は時間の番人だ。医者な訳がないだろう」
「でも治療はできるんだ」
「知識はある。それだけだ」
そう言って、タイムは箱を出した引き出しに仕舞う。それと同時に部屋の扉がノックされた。
「ご主人様、失礼します」
そう言いながらツヴェルフが部屋の中に入ってくる。タイムは少しも気にも止めず、腰に下げられた時計の一つを手にとり、時間を見る。
「遅いぞ。時間どおりに来い。私に時間を無駄にさせるな」
「それは、その、申し訳ありません」
ツヴェルフは何か言いたげな顔をしたが、何も言わず、素直に謝る。タイムはそれに満足したのか、それ以上は言わず、さっさと歩き出す。
それを慌ててツヴェルフが止めた。
「ご主人様! それで、あの、この子はどうするんですか?」
ツヴェルフはそう言って、ソフィアを見る。当然この子とはソフィアの事だ。タイムはソフィアを一瞥するとすぐに背を向け、さっさと歩き出す。
「どうもしない」
「は?」
「どうもしない。罪人でない以上、その娘を裁く訳にはいかない。罪人でない者を裁けばルール違反になる」
「しかし。では、どうしますか? 記憶を消して元の世界に帰せばいいですか?」
記憶を消す。ツヴェルフのその言葉にソフィアはぎょっとする。
何か特別大事なことがあった訳ではないが、自分の記憶が消されるのはさすがに嫌だ。慌ててタイムを見るとタイムもまた黙ってソフィアを見ていた。
おそらくソフィアをどうするか考えているのだろう。もっとも答えは明白だが。
このままだと追い返されちゃうよね。
ソフィアは主の許しもなく、勝手にこの時計塔に入ってきたのだ。当然追い出されてしまうに違いない。それが普通なのだ。
それでも。
「あのね、タイム。私ね、あの、少しでいいから……」
そう、少しの間でも良かった。ほんの少し。しばらくの間だけ。ソフィアは、今はあそこには帰りたくない。そう思った。
しかしそれはソフィアの勝手な言い分で、タイムからすれば迷惑でしかない。結局、ソフィアは最後までそれをいうことができなかった。
そんなソフィアをタイムはただ静かに見ていた。
「あの、ご主人様?」
「私は仕事で忙しい。それにさく時間はない。好きにさせておけ」
タイムはそれだけ言うとさっさと背を向け、部屋から出て行こうとする。その背を呆然とソフィアは眺める。
好きにさせておけ。それはつまり。
「私ここにいていてもいいの?」
「怪我が治るまでだ。治ったら無理矢理にでも元の世界に送り返す」
タイムは有無を言わせぬ口調でそう言い。それにツヴェルフは当然ながらひどく慌てる。
「ご、ご主人様!?」
ツヴェルフは悲鳴に近い声を上げ、すぐさまタイムを追いかける。
「ご主人様! あの!」
「何だ?」
「いえ、その……」
「私の決めた事に文句でもあるのか?」
タイムはそう言うと鬱陶しげにツヴェルフを見る。それだけで全てを悟ったのだろう。ツヴェルフは諦めたようにため息をついた。
「どうなっても知りませんよ?」
ツヴェルフのその言葉にタイムは何も言わず、黙って部屋を出た。