4.黒づくめの男
登り始めてどれぐらいたっただろうか。最初の数段目でソフィアはもう息がきれた。足は鉛のように重く、額から汗が流れ落ちた。それでもソフィアは登った。
上へ上へ。ひたすら上へ。階段の途中で何カ所か奥に続く通路を見つけたが、ソフィアはそちらには行かず、上へと登り続けた。
ぼんやりと光るところを目指して。ソフィアはひたすら登り続けた。
「まだかな?」
足が痛い。
彼女の細い足は、既に限界で、節々が痛んだ。更に足の裏にできているであろう傷が、歩く度にズキズキと痛んだ。
途中で何度か座り込み、休みながら、ソフィアは上へと登り続けた。
「あっ!」
階段の先から光が見えた。その先がどうやら最上階らしい。足の痛みを我慢しつつ、ソフィアは階段を登る。一段、一段。そして……
階段の先についた時、ソフィアは息をのんだ。
「凄い」
ソフィアは目の前に広がるそれを、ただだ呆然と見た。
無機質の床と壁は変わらない。下の階と同じだ。しかし下の階とは比べものにならない程、多くの歯車が壁を覆っていた。歯車は音を立てて動く。何重にも重なるその音はまるで音楽でも奏でているように楽しげだった。下の階のあの寂しげな音とは違う。更にさっき見かけた光と同じ色の、淡い緑色の閃光が、床や壁を駆け抜けていく。
一つではない。次々と、閃光は走り、部屋中を走り回る。閃光が走る度に部屋中がキラキラと光り輝き、眩しかった。そして、その光り輝く部屋の奥に、一際キラキラと輝いているものが見えた。
時計だ。外から見えた時計はこれだろう。文字盤の裏側は淡い緑色の光を放ち、ぼんやりと光っている。だから遠くからでも時計の文字盤がよく見えたのだろう。更に文字盤の裏を度々閃光が走り、時計の文字盤をまるでイルミネーションのようにキラキラと光らせていた。
「綺麗……」
息をのむ程、美しい光景に、ソフィアはどうしても近くでそれが見たくなり、続く道はないかと探す。時計の文字盤の下には鉄骨でつくられた足場が見えた。
あそこからなら時計の文字盤がよく見えるだろう。しかしそこへ続く道はひとつしかない。
階段から上がったところにある鉄橋。それが時計の文字盤のもとへと繋がっていた。ただでさえその鉄橋は高い位置にあるのに、そのうえ古かった。両サイドには簡単な柵がついていたが、何本かなくなっていて、どうにも安全とは言えなさそうだった。
ソフィアは下を見る。下は闇が広がっていた。恐らくこの闇の下には入口のあの部屋があるのだろう。
「渡るの、ちょっと恐いな」
しかし渡らないと時計のもとにはいけない。ソフィアは前を向き、震える足を無理やり動かした。
下を見ちゃ駄目。見たら足が止まってしまうから。前だけを見て。
ソフィアは光り輝く文字盤だけを見て、足を進める。途中で何度かひやりとした場面もあったが、どうにか鉄橋を渡りきった。
ソフィアは渡りきったと同時に床に座り込んだ。足はもう限界だった。ズキズキと突き刺すような痛みにソフィアは顔をしかめる。
でも……
「やっと着いた」
キラキラと光り輝く時計の文字盤を見つめる。間近で見るとそれはとても美しかった。
「綺麗……」
その光景を見ているだけで痛みが少し和らぐ気がした。しばらくソフィアはそれをただ静かに見ていた。どれぐらいそうしていただろうか。ふと見慣れたものが見えた。
「あ、あれ……」
塔の中で見かけた光だ。淡い緑色の光。それがいくつも。気づくと時計の周りに集まっていた。
「えっと、1、2、3……」
11?
11個の光。どれも同じ淡い緑色。それが時計の周りをくるくると舞う。ますます時計の文字盤が輝いた。
「あの光って、いっぱいいたんだ……」
でも、最初のあの光はいない。あの桃色の淡い光。最初にソフィアを導いた光。その光の姿はどこにもない。
そう思ったその時だった。
「そこで何をしている?」
低い、よく通る声が響いた。自分のものではない男性の声。この瞬間まで、ソフィアはこの塔に自分以外の誰かがいる事を失念していた。
「そこで何をしていると聞いているんだ?」
耳に届くその声は怒りに滲み、その声の持ち主が怒っている事が容易に想像できた。ソフィアはゆっくりと声の方を振り返る。
目が合う。翡翠色の瞳がソフィアを静かに睨みつけた。
黒い人がいる。
それがソフィアが男に抱いた最初の感想だった。
黒い髪に黒い格好。その男は全身黒づくめだった。
まず、目につくのは立派な黒い毛皮のマント。いかにも豪華そうで触り心地の良さそうなマントが、男の肩からその足下まで垂れていた。その立派なマントの下には、これまた凝った作りの長めの黒のチョッキが見える。チョッキの隙間から見える黒いベルトには何故かわからないが、たくさんの時計がついている。手には複雑な刺繍の入った黒い手袋をつけていて、光りが当たる度に銀色に刺繍が輝いた。下もまた黒いズボンと黒いブーツをはいていて、全てが黒で統一されていた。
唯一黒くないのは瞳の色だ。翡翠色の瞳は周りが黒い為、より鮮やかに見える。よくよく見れば顔も良い。整った目鼻立ちをし、口髭をはやしていた。
恰好は特徴的だが、可笑しいところはない。ただ1つ問題点があるとすれば、その男があからさまに怒っている事だろう。
どうしよう。
男はその場で仁王立ちし、ソフィアをこれでもかというほど睨む。ソフィアは呆然とそれを見返す事しかできない。
怒られるよね。
ソフィアは怒られるのが好きじゃなかった。何か怒られないですむ方法はないかと考えていると、男はなかなか喋らないソフィアに痺れを切らしたのか小さく舌打ちする。
「どうして、こう次から次へと余計な仕事が増えるんだ。どいつもこいつも暇人め」
男は誰に言うでもなくそう呟くと、鉄橋を乱暴に渡り、ソフィアの元へとやってくる。
チクタクチクタクと男が近づく度に腰につけた時計の音も近づく。それに合わせてソフィアの鼓動の音も早くなった。
「さっさと答えろ! ここで何している!?」
男は翡翠色の瞳を怒りに滲ませながら、ソフィアに詰め寄る。あまりの剣幕にソフィアは慌てて考える。
何をしていたか? 何をしていたんだっけ?
えっと……
「時計を見ていたの。綺麗だったから……」
ソフィアの答えに男の動きが止まる。それまで怒りしか見えなかった表情が僅かに変わる。
「時計? この時計の事か?」
「そう、綺麗だったから……」
「綺麗だったから見ていた? この時計を?」
男の問いかけにソフィアは頷く。本当にソフィアはそう思っていた。光り輝く時計はとても美しかった。今まで見たどの時計よりも。
そのソフィアの答えをどう受け止めたのか、男はしばらく何かを考えるように黙り込む。しばらくして、男はほんの少しだけ、険しかった瞳を緩ます。
「そうか。綺麗か。お前にもそう見えるのか」
「え?」
お前にも? どういう意味だろうか?
男の言葉にソフィアは首を傾げる。ソフィアのその様子に気付いたのか、男は咳払いを1つするとソフィアから視線を外すし、時計を見る。その目は先ほどよりもずっと優しげなものだった。