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第5話



 市内の方向とは逆に歩き、ホテルの値段を一通り確かめた後、やはり帰ることにした。

 日ノ出町から京急に乗り、新橋を経由して銀座線に乗り継ぐ。

 覚えているのは徒労感だけで、だからやっぱり泊っていけばよかったんだと思う気持ちと、帰れないほど遠くもない街で、一人で高い金を払ってホテルに泊まることのバカバカしさを説く理性とのせめぎ合いが、さらにその虚しさを増していた。


 辿り着いた家で、私はケイに会っていたなんていう迂闊な嘘を使った。

 私を解ったつもりになっている両親は、それにかなり納得げに頷いていて、当面のことしか考えきれなかった自分に、自縄自縛を悟った。


 きっと今日は悪い夢を見る、と私は直感した。

 そういう直感というものは、当たるか当たらないかなどというのは本質ではなく、それは実のところ防御本能のようなもので、結局その日は私は何の夢も見ることはなかった。



 伊勢崎線から見える風景は、本当に変わりがない。


 それは時間的にも、空間的にもそうだ。

 記憶のある最初から、私はずっと同じ景色を見ている。

 越谷から荒川まで、たとえば目を暫く閉じていれば、電車はまるで足踏みをしているみたいに思える。

 北東京の街は、みんなそんな風だけれど、でも決して面白みがない街並みというわけではない。

 綺麗に区画整理され、計画に沿って造られた都市は、確かに少し抑圧的ではあるけれど、それを差し引いても、確かに誇りの持てる故郷だ。

 少なくとも、雑然とした西東京よりは、私は東の街の方がずっと好きだった。


 私は日に日に混んでいく銀座線から降りて、道玄坂の会社に向かった。

『雑踏』という言葉は、まるで渋谷のためにあるようなもので、この街の舗装は、きっと一瞬のうちに、見えている範囲のぜんぶが踏みつくされてしまう。


 街路樹のイチョウは、徐々に黄色く染まり始めていた。


 新しく整備されたこの街では、落葉樹はただ染まるのみで、実を付けることはない。

 新しく張られた、香りのいいアスファルトの上で、清潔で力強い打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた木々たちは、もはや作り物にすら見える。

 山が一斉に色を変える自然界の奇跡は、都市に場所を変えると、当たり前のことのようにしか思えなくなる。


 フロアに着くと、エスはもう来ていた。


 私はエスに挨拶して、パソコンを付け、給湯室に向かった。

 それが起動するまで、私は彼女と世間話をして、それから席についた。

 ちゃんと掃除されているのか疑いたくなるエアコンから出る温風に、けれど冷え切った身体を暖めてくれていることに感謝する。

 少し荒く、ザラザラした舌触りのコーヒーを飲みながら、そういえばエムはインスタントのものだけは受け付けない身体だったことを思い出した。


 エムは今どうしているのだろう。


 私はそんなことを考えて、答えの決まりきった質問に苦笑した。

 彼女も千住で同じようなことをしているに違いないのだ。

 満員の伊勢崎線から、途中でそれまた満員の地下鉄に乗り換えて、オフィスに着いて始業を待つ。

 繰り返される日常は、個人のものでありながら、大量生産品にしかきっと過ぎない。


 私はコンビニで昼食を買って、定時プラス三十分で退出した。

 晩秋の街は日の光こそ失えど、活気と明るさはむしろ増しているように見える。

 東急百貨店の奥に、緑のネットに覆われた建設中のビルが見える。

 有機的な窓枠は、鉄骨造りの強みだ。

 技術を魅せるような造形に、百年前のアール・ヌーヴォーを追いかけているみたいだと、思った。



 それは純度百パーセントの気まぐれだった。

 駅前の交差点を通りすぎて、宮益坂を上る。

 音のない人混みはまるで葬列のようで、私は自分自身を幽霊だとすら思う。

 水の流れも、だから澱みもない景色は、全ての負の要素を排除しようとする決然とした意志の表れのようだった。

 等間隔の木々と、両岸に立つ新品のビルたちは、まるでプレハブの作り物のようで、段差のないその風景はだからこそ私に凄みと圧力を感じさせる。


 ふと目に留まったのは、路地の上に架かる一本の電線だった。

 不格好に空中を分けるその黒い線に、私は言いようもない安心感を抱く。

 そして不意にここを歩く自分の姿を想像して、もし今タイツを脱いで、靴を手で持ち、素足で歩いたとすれば、きっととても楽しいだろうと思った。

 私は芝居がかった手足で、気が向けばその場で一回りでもして街を踊り歩くのだ。

 そうすればきっと何人かは無関心の呪いを解いて私を見て、きっとその内の大半は悪いものを見たかのように目を逸らすだろうけれど、一人くらいは好意的に思ってくれるかもしれない。

 タイルの敷かれた道は私の足の皮膚を破り、血を流させるだろうけれど、それくらいの犠牲はそれに対して十分だ。

 そして私はその痛みに耐えて微笑む自信があった。

 強い自信が。


 私はスーツのスカートの中に手を入れ、タイツを掴みかけて、さっきまで頭の中で燦然と輝いていたその妄想のくだらなさに顔を歪めた。

 自嘲と微笑のちょうど真ん中になってしまった顔を無表情に再び取り繕いながら、そのまま足を動かす。


 私は決して歩くのが遅いタイプの人間ではない。

 あまり取り柄のないと自負している自分自身だけれど、それは少なくともほとんどの人間よりスコアの高い事項だ。

 街を歩いていて、私よりペースの速い人は見かけることですら極めて稀だ。

 革靴を履いている今ですら、前を黙々と歩く男性を抜かすことだってできる。


 ケイと歩いている時も、ペースを合わせるのはいつも私の仕事だった。

 小学校の頃はさほど意識することもなかったその差は、高校時代にはずっと大きくなっていた。

 決して恋仲でも、けれど腐れ縁でもなかった私たちは、ときどき隣を歩いていたし、そしてその時には私は必ず歩調を合わせていたのだ――今思えば、本当にかいがいしくも。


 大学になっても、それは変わらなかった。

 私はケイに歩幅を合わせ、新しくエムにも速度を合わせていた。

 エムも私より歩くのはずっと遅かったけれど、彼女は歩くというそれ自体が洗練されていて、まるでモデルを演じているような恰好があったから、そんな気持ちすら沸くことがなかった。

 私は彼女の隣で歩いていると、自分の歩き方の不格好さと豪気さに、嫌悪感すら覚えるほどだったのだ。

 ――だからケイとエムが二人で並んで歩くことを想像するのは、良くも悪くもとても容易なことだったし、そしてその絵には幸福さというものが黒い影のように致命的に付きまとっていた。


 白いコートから黒いストッキングを引き延ばしたようなあの女性と彼との間に、一体どんな関係があったのか、私はその時、考えざるを得なくなっていた。

 ケイは、私ほどではないけれど、世間の標準から言えば、歩くのは十分に速い方だった。

 だからその人と隣を保って歩こうとすれば、彼はきっとその人の歩調に合わせる必要があるのだ。

 それは私にとって本当に愕然とさせられることだった。


 彼が他人と歩調を合わせる!

 自分が今までずっと彼に合わせて歩いてきたような錯覚を覚えながら、私は鮮烈な感情に身を灼いていた。

 だって彼が人と歩調を合わせるというのだ。

 エムではない誰かに。


 私は叫びそうになる身体を抑えていた。

 エムじゃないんだぞ! 私は彼の耳元で鼓膜を破ってやりたかった。

 エムじゃないんだぞ。分かっているのか!

 その瞬間に、エムとケイと私で一緒に歩いた絵面が脳裏に浮かんだ。

 ケイはエムに合わせ、私はケイに合わせるのだ。

 彼がエムの隣にいなければ、それも叶わない。

 私はそれに対して言いようのないもどかしさを覚えた。

 私の根底に、彼という第三者が介入していたことを深く知った。


 私は携帯を取り出し、ケイに掛けた。

 電子音が遠くの交換機をガチャリと回し、彼の携帯の呼び出し音が聞こえる。

 もしもし、と暢気にいう彼に、私は脳の血管が全てダメになるのかと思った。


「見たわ」と私は声を抑えながら言う。


「私、見たのよ」


「何を?」


 彼は聖書に定められているかのように暢気で、だから素直だ。


「昨日の、東横線の駅」


「どうしてそんな場所に?」


 墓穴気味のそのセリフは、きっと無意識の反射だった。


「一体何を見たっていうんだ?」


「あなたを」


 私の責めるような口調に、漸く思考の追いついたらしい彼は深い息を吐いた。


「こっちだって都合がある。どうして君がそんなところにいたのかは知らないが――、彼女とは何の、何の深い関係もない」


 私の想像を否定しようとする彼の言葉に、けれどその婉曲な表現と、『彼女』という言葉のイントネーションに、私は疑念を確信に変えた。


「そう、悲しいことって起きるものなのね」


「何が悲しいっていうんだ」


「私と、あなた自身」


 遠くでため息をつく彼を、しかし私は冷静に思うことができない。

 ――電話を切れば、この忌まわしさの全てが解消されるということを知りながら、通話を切断するという権利を行使できずにいた。

『そもそも今の君に僕を批判する権利があるとは思えない』と、ある意味では当然の言葉を発せずにいる彼にしても、この沈黙は互いの本心を推察できる、だからこそ重いものにならざるを得なかった。


「明日、渋谷で待ち合わせましょう」


 私は凍り付く喉からそれだけを絞り出し、逃げるように携帯を閉じた。

 終わった沈黙は荒い息として私に未だ粘りついている。

 固執する自分自身がたまらなく悲しかった。


 香りのない銀杏並木は、私の目前に何よりも鮮烈な黄を落とす。


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