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第16話

 自分がケイに恋していることに気が付いたのは中学の終わり頃だった。それはどんなに控えめに言ったとしてフェータルな恋だった。私はその時彼と一緒に登校していて、学校でも散々話して、帰りだって一緒にいた。私たちはそれでも友達だった。そして私はちょっとした瞬間にふと気付いてしまったのだ。ケイのことが好きなのだと。それは私の心を明るい夏の日差しの下からいきなりシベリアの永久凍土の上へと引きずり下ろした。先は真っ暗だった。


 ――だってどうすればいいというのだ。私たちはこれ以上ないほど親密だった。それなのにどうしてさらに友達から恋人になれるというんだ?



 だから私は一度彼から離れてみることにした。朝早くに一人で登校して、学校ではほんの時々だけ話し、一緒に下校したとしてもその後は会わないことにした。それは元々悪くなかった私の成績をさらに増した。一人で過ごす時間があまりに増えて、時間を持て余した結果だった。当たり前のことだけれど、ケイから離れたからといって、友達が魔法のように増えるわけではなかった。むしろ彼といた時よりも私の交友の輪は狭くなった。今考えればそれは当然のことだったと思う。ケイすらも避け始めた私は、外から見ればより内向的になったようにしか感じられなかっただろうからだ。


 そうやって私の中学時代は終わっていった。私の中学生活は1993年の混乱で幕開け、ケイへの恋と逃避で幕を閉じたのだ。そんな風に言ってしまえばすごく簡単で、まるでほとんど何事もなかったかのようにすら感じてしまうけれど、でも実際にはそれぞれのことにそれぞれの重さがあった。私たちの生きている現実には、現実的と言う他にないような種類の重さがあるのだ。それは私を時に怯ませ、震えさせ、気の向くままに散々怖がらせて、気まぐれに優しく包み込む。その優しさがあまりに慈悲深い種類のもので、私はそうやってこの現実に繋ぎ留められることになる。


 それは例えばケイと仲直りした直後に行った花火だったり、中学の卒業を控えた頃に何気なく交わした会話だったりした。私は1993年に見た花火をまだはっきりと覚えている。その時はあの期末試験からまだ二週間と経っていなくて、私たちは少しばかりぎくしゃくしていた。私はもうほとんど前と変わらずに話していたけれど、彼の方はきっとまだ罪悪感が深く息づいていたのだと思う。なにせ、彼からすれば私が再び口を開くようになってからまだ二週間だったのだ。それは当然のことだった。


 私はその日薄い青のワンピースを着ていて、彼は白いシャツを着ていた。京急の鶴見駅から降りて、二人並んで歩いた。夕暮れの中で鶴見川は墨のように黒く、薄ぼんやりとした光を放っていた。河川敷はすでに人で溢れかえっていた。


「立つしかなさそうだね」


 私がケイに向けてそう言うと、彼は時計を見たままただ黙って頷いた。最初の花火が上がるまでにはあと三十分もあった。私たちの間には気まずく容赦のない沈黙が流れていて、彼は面白くもなさそうな表情で私の横に突っ立っていた。


「ま、最初から敷くものも何も持ってきてないけど」


 私は言い訳のように言葉を重ねた。彼はそれでも無言を貫いていて、それはむしろ痛々しさすら感じさせた。彼は明らかに私との距離を測りかねていた。彼はまだ彼の地獄にいるのだ、と私は悟った。私が少し前にやっと抜け出した地獄に、彼は残っているのだ。


 ため息をついて、それから背筋を伸ばした。もしかしたら――と思う。もしかしたら、私はもう二度と彼と元通りには戻れないのかもしれない。だってもし彼が私の顔を見る度に自分を責めたとして、どうして私に笑いかけてくれるというんだろう。そんなことはほとんど不可能なことに違いなかった。そして私には、どうすれば彼を彼の地獄から解いてあげられるのかすら全く分からなかった。


 花火を待つ浮ついた空気の中で、私たちの沈黙は重く続いていた。空気は完全に膠着していて、それは肌から入り込んで私の心をゆっくりと絶望に凍り付かしつつあった。それでも私は彼の隣にいることを止めなかった。彼は私のことを見ようともせず、時々時計の針を見つめ、それ以外の時間は目の前を暗く流れる川をじっと見ていた。


 人波はどんどん溢れていた。私の隣も何度か割り込まれていた。その度に私はケイの方へ押しやられて、その度にケイは無関心を取り繕って時計を見ていた。それは最初私を混乱させ、深い悲しみの中に突き落とした。それは明らかに演技だった。――私に彼を嫌わせるための。彼はきっと、私とはもう二度と深く関わり合うべきではないのだと思い込んでいた。だから私の方から彼を嫌うように仕組もうとしていた。それが薄々わかってしまったからこそ、私は怒りよりよっぽど悲しさの方を強く抱いた。そんな風に演技をするほど彼は私に自分を嫌っていてほしいのだと思うと、私は混乱した。それは彼が裏返しに私を強く想っていることの証明だと思われたからだ。だって彼は、自分の方から私を拒絶することを拒んだのだ。それは私が彼の中の深くに入り込んでいることを何よりも明白に示しているように私には思われた。


 それでも彼は私に対して無関心を装い続けた。それは私をずっと混乱させ、終わりのない渦に私を誘い込んだ。あるいは、本当に彼は私のことなどどうも思っていないのかもしれない。彼が私を想っているなどというのは全部私の妄想でしかなくて、本当は私のことなどどうでもいいのかもしれない。私は彼に近付くたびにその二つの思考の間で揺れ続けた。ある一瞬では彼は私を求めている気がして、次の瞬間には私のことなど彼にとっては道端の小石くらいにどうでもいい存在に過ぎないのだというような気がした。それは次第に私を強く苛立たせることになった。その答えを知っているはずの彼が目の前で煮え切らない態度を取っていることが許せなくなったのだ。――たとえ彼のその態度が私への罪悪感の現れだったとしても。


 彼はそれでも無表情にただ前を見つめ続けたし、時々思い出したように時計を覗いた。それはまるで時に縋っているような態度だった。この世界には時間というものが流れていて、そしてそれが――それだけが――いつか近いうちに自分の全てを救ってくれるのだと、まるで彼はそう固く信じ込んでいるみたいに見えた。それは私の苛立ちをこれ以上ないほどに掻き立てた。私との時間はただ無に染めてしまえばいいというようなその発想が、その安直さが持つ残酷さに無関心な彼が、私は気に入らなくて仕方がなかったのだ。


 そして誰かが私の肩にぶつかった。それは容赦のないぶつかり方で、私の身体のバランスを致命的に崩した。私はあと少しで横に倒れそうになって、また別の誰かに肩を掴まれて踏みとどまった。少し痛みを感じるほどの強い力で引き戻されたのだ。


「大丈夫か?」


 それはケイの声だった。彼は私の肩を握り、崩れそうな私の身体を支えてくれていた。そして私を見ていた。それは今日の彼の気怠そうな目ではなかった。いつもの彼の真摯な瞳だった。私は久しぶりに彼に見つめられた気がした。そして確信したのだ。彼は私のことをどうでもいいなどとは絶対に思っていないと。


 私は暫くそのまま彼の目を見つめていた。彼の真剣な顔つきは次第に困惑の色を添え始めていた。それでも彼は私をじっと見つめていた。


ねえ、と私は口を動かす。


「言うでしょう? 幸せ者は時計を見ないって」


 彼はああと相槌を打った。


「だからさ、少しは私を見てよ。つまんなそうに時計なんて見ずにさ」


 それから彼は私の肩に置いた手をゆっくりと放して、隣に立つ私を見つめた。私の髪を、顔を、腕を。自分で着ていても惚れ惚れするような青色のワンピースを。


 彼は私の方が恥ずかしくなるくらい長い間私を見つめていた。彼はまるで私を値踏みするかのように真剣な目をしていて、でもその目にはただ私に見惚れているような純粋な輝きも含まれていた。彼はそれから照れたように小さく笑って言った。


「久しぶりに会った気がするよ」


 それは私たちの間にあった雪を完全に溶かした。今まで自分でも把握していなかった彼への好意すべてが心の中を埋めて、それ以外の全てを洗い流したのだ。それは雪国の雪解けによく似ていた。それは何よりも劇的で、暴力的で、清廉な変化だった。


「私も、そんな気分」


 それから上がった花火の色も形も、私はあまり覚えていない。思い出すのは隣にいたケイの気配ばかりだ。私はその日彼と何をしたのかも鮮明に思い出すことができる。彼の横顔を見つめたことも、時々目が合って笑い合ったことも、ただでさえ暑いのに手まで繋いだことも。それから、汗でぬるぬるになった手を見つめて、二人で照れ笑いしたことも。


 それでも私はその日の全てを思い出すことはもうできなくなってしまった。私はもう彼のその照れ笑いすら正確に思い出すことはできないのだ。眉の位置や、目の開きや、口元の角度や、私はもうその時の彼の顔を正確に再現することはできなくなってしまった。今の私が抱いているのは、その時の私の感情の残渣だけだ。私は彼が確かに照れていたと断言できる。それを見た私が可愛いと思ったことも。でも逆に言えば私が担保できるのはただそれだけの情報でしかないのだ。


 それは時に絶望的なことに感じられる。もしその時の記憶をいつでもなぞれるなら、きっとそれは私が生きるための強力な武器になることに間違いがないからだ。それでも、私はこの不完全な記憶のことを愛している。ケイが前を見つめたまま私に向けて手を伸ばしてきたことも、目があった瞬間にふと笑ってしまったことも、それだけでも思い出せることがどれだけ私にとって救いになってきたかわからないからだ。


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