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第15話



 私がケイと会ったのは、まだ八歳の頃だった。私が越谷へと引っ越してきたその日に、彼はその隣の彼の庭にじっと座って蟻を見ていたのだ。彼は本当に真剣に蟻を見つめていた。蟻は巣から出て、辺りを歩き回って餌を探し、また巣に帰っていった。八歳の私は彼に話しかけて問うた。何をしているのかと。


「蟻をね、見てるの」


 それが私の聞いた彼の最初の声だった。


 私はそれを思い出すといつも涙が出そうになる。特別悲しいとか辛いとかそういうわけではない。それはやはり少しばかり滑稽で、それでいて限りなく懐かしい思い出として胸の中に記憶されている。


 それは私の原風景のようなものだった。私はそれを思い出すといつも目じりを押さえてしまう。どうして八歳の子供が、蟻をいじめもせず、触れることすらせずにただ見つめているのだろうかと。彼は隣に引っ越してきた初めて見る同級生の少女に話しかけられても、まだ蟻を見つめながら、怖じることも特に関心を持つこともなく、ただ素っ気なく言葉を返すのだ。彼は蟻の営みに集中していた。


 だから私はただ何となく彼の隣に座って彼と同じように蟻を見つめた。蟻は巣から出て、辺りを歩き回って餌を探し、また巣に帰っていった。私は俯いて真剣にそれを見つめる彼の姿を覚えている。蟻はやがて黒い蛾の死骸を見つけて巣へ運んでいった。彼らは器用にそれを分解し、手分けをして彼らの小さな巣穴へと収めていた。隣に座る小さなケイはそれをじっと眺めていた。全てが終わり、地上に餌を探す蟻の群れが再び戻ってくると、彼はふり向いて私を見た。――それからずっと変わらない彼の綺麗な目で。


「よろしく」


 彼は顔を僅かに傾げながら私にそう言った。それが忘れもしない彼との出会いだった。



 私の今までの人生で一番大きな出会いは、やはりケイとのものと、エムとのものに間違いはないだろう。彼らは私をある時には導き、ある時には振り回して、結局のところ大人にした。ケイと出会っていない私を考えることはできないし、エムと出会っていない私も考えることができない。


 それでも、どちらの方がより重要だったかと問われれば、ケイとの出会いの方が重要だったと答えざるを得ないだろう。彼との出会いは私の記憶の一番底の方にじっと鎮座している。彼を忘れれば私はきっと今よりもずっと深く混乱し、漂流することになるだろう。それは私を現実に係留する錨のようなものだった。私が現実から離れようとするたびに、その記憶は私を繋ぎとめてきた。現実には彼が生きているのだと。私にとって、現実の価値はケイが生きている世界だという事実によって担保されていた。


 私にとって彼はいつも一番に頼れる人であり続けた。常に一番の友達だったわけでも、あるいは恋人だったわけでもない。高校の時に私と一番仲が良かったのはずっと同じクラスだった同性の友達だったし、大学でも私はエムという親友を得ることになった。それでも彼はいつだって私の心の中で大きなウェイトを占め続けてきた。ケイは私を助けられる稀有な人間であり続けた。そしてこれが一番大切なことだけれど、彼は実際に私を助けてくれた。最初は中学の時で、最後はほんの少し前のことだ。だから私は彼を篤く信頼してきた。それは友情や恋慕やそんな形を取っていつも私の前に顔を出した。



 それでも私は彼と疎遠になったことがある。1993年のことだ。その年の五月から春学期の期末試験が始まるまでの間、私はケイにほとんど何の口もきかなかった。単なる悪戯でも、嫌がらせでもなかった。それにははっきりとした理由があった。誰にも理解でき、同意されるような。でもだからこそそれは私たちの関係に暗い影を落とし続けた。彼は私を見るときっと罪悪感を抱いていたと思う。どんな時にも。私が顔を紅潮させて彼を見つめていた時ですら。あるいは、そういう時の方がよほど強く。


 私はそれを理解できていて、それでも敢えて何も言うことはなかった。


「気に病まなくてもいい、あなたが悪いわけではないのだから」


 きっと私はそう言うべきだったのだと思う。だって彼は――少なくとも彼自身は――本当に何も悪くなかったのだから。そして私には十七年間という歳月があったのだから。私は告げるべきだったのだ。私は何も恨んでいないのだということを。それは彼の背負うべき罪ではないのだということを。


 それでも私は機会を逸し続けた。好機などいくらでもあった。また彼と話し始めたその日でも、二人で手を繋いで花火を見た夏休みでも、彼に告白された後の高校の日々でも、大学時代でも、エムから彼を奪ったその時でも、いつだってよかった。何度でもチャンスはあった。ただ彼の頬に触れて、誠実に伝えるだけで事は足りたのだ。「ただ純粋に私を見て。罪を感じないで」と。


 今思えば、きっとそれは私たちが幸せになるための唯一の条件だった。片方が罪悪感を抱え込む恋人関係など、上手くいくはずがないのだから。私はそんな当たり前のことにも気付くことができずに、彼の罪悪感を利用しようとしていた。罪の意識がある間は彼は私を見捨てないはずだとどこかで考えていたのだ。それは今思うと本当に浅ましい発想に他ならなかった。きっと私には彼との関係を後悔する資格すらない。


 でもそんな風に理性的に大人ぶってみたところで、後悔がどこかに飛んでいって心の中から消えていくようなことは決してなかった。私は確かに後悔しているのだ。私たちはたぶんずっと昔からお互いのことを考えていたけれど、私たちの間柄はその精神的な単純さには不釣り合いなほどに複雑であり続けてきた。私たちの関係は、私たちの感情だけで決まる問題ではないのだ。しかしそれでも私は最大の努力をすべきだったのだと今になって思う。二人の関係が二人だけのものでなかったとしても、それをできるだけ単純な形状へと落とし込むことは不可能ではなかったはずだからだ。


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