1話 たすけてください
「ドう、しまシたカ」
夜の雑踏を照らす不思議な灯りは遠く、外套を頭まで被った相手の顔は見えない。ここは身を隠すには恰好の路地裏だと思ったのだけど、その片言の日本語を放つ大男には、私が丸見えのようだった。
怯えはした、警戒も緊張もした。それなのに、今まで私の身体を揺らしていた震えだけが一瞬止まる。
ほんの、ほんのすこしだけ、安堵してしまったのだ。
見たことのないお城に、見たことのない街に、聴き慣れぬ言葉を喋る人たちのいる此処に迷い込んでから、初めて聞けた日本語だったから。
「スミ、ませン。ニホん語、久しぶりだったものですから」
言葉を紡ぐうちに、大男の日本語はどんどん流暢になっていった。
止まっていた震えが、再び私を襲い出した。自分でも気付かぬうちに冷え切った顔に、熱い涙が伝う。
「あ、ぅ、た、たす.......」
今度は彼の片言が移ったように、私の方が喋れなくなった。喉が震え、歯がカチカチと音を鳴らして噛み合わない。それでも私は必死で、
「たす、けて、くださぃ」
その一言を紡ぎだす。
男が、スっと頭に被った外套のフードを取った。黒く長い髪、黒い瞳。薄らと生えた無精髭と共に、男の口が優しげに笑う。
「はい、助けましょう。でもその前に、きみの名前を聞いても?」
「わた、しの、なまえ、は.......」
名乗ろうとした瞬間、私の視界は真っ暗闇に閉ざされた―――。
やけに冷える夜だった。吐く息は白く、偽物の左腕の付け根が痛む。
日雇い低賃金の糞みたいな仕事を済ませ、あとは帰って朝食の残りを貪り酒を飲んで眠る。十代の頃には思いもしていなかった寂しい日々。それを彼は日々繰り返す。
かつての目眩く冒険の日々は今では遠い夢物語のようで、陰鬱な気分をさらに加速させた。寒さと人目から一層自分を隔絶させようと、古ぼけた薄茶色い外套のフードを目深に被り直す。
魔導石の街灯で照らされる街の通りは、黄昏時を過ぎてなお人通りが多かった。一稼ぎした冒険者たちは酒場で安酒を煽り、娼婦たちはそれらを獲物として狩人のような眼で見据えている。
飲み宿と娼館の客引きの声が混ざって響き、酷く耳障りだった。それだけならいつも通りなのだが、今日は何故だか、帝国の兵士たちの少なくない往来の足音も混じっている。
早く帰ろうと黙々と歩き、家へと続く裏路地へ曲がったところにソレは居た。
膝を抱え、大して暗くもない闇夜へ必死に自分を同化させようとしていた。物乞いの類いであれば前を通り過ぎる、が。
そこに蹲っていたのは、セーラー服を着た女の子だった。
幻だと、はじめは思った。最近は溜まっていたし、昔を思い出して「向こう側」の懐かしい記憶で欲求を満たせと性欲が誘起しているのだと。
しかし眼下のソレは現実だと物語るように小刻みに震え、怯えきっている様子だ。
紛うことなき、セーラー服の女子学生。何故そんなものが眼前に蹲っているのか彼は混乱したが、離れた雑踏の中から聴こえてくる兵士たちのやり取りで、何となく想像がついてしまった。
(おい、見つかったか?)
(いや、こっちにはいない。もっと裏の方を探せ。女の脚だ、そう遠くには行っていないはず)
(早く見つけないと、衛士長に首を跳ばされるぞ.......)
無意識に肺と心の奥から、大きな溜め息が漏れた。
つまりはアレだ。この子は帝国で久々の「お客様」なわけだ、と彼は察する。
厄介、実に厄介。ここで一枚噛んでしまえば、ようやく苦労して手に入れた安息と倦怠の日々が吹き飛んでしまうかもしれない。
だから見なかったことにして、そっと通り過ぎよう。そうしようと、足を動かした、つもりだった。
確かに踏み出した。確かに通りすぎようとした。なのに、彼は一歩も進んでいない。
もう一度、蹲るセーラー服の少女を見下ろす。
ふと、昔の知り合いに吐き捨てるように言われた言葉を思い出す。
(救わぬは悪、救うは偽善。貴様は偽善者だろう? ならば、気の済むまで救え。そして死ね)
倦怠という沼に沈んだ心が、僅かに浮き始める。放っておけばいいと、頭の中で何度も響く。けれど結局、彼はまた偽善者になった。
「あの」
声を掛ければビクリと、少女が驚きと怯えの混じった顔でこちらを見上げて、尻もちをつきながら後ずさっていく。
はたと気づく。この子はきっとこちらの言葉が分からないのでは?
使わなくなって久しい錆びきった脳をフル回転させ、かつての母国語を記憶の引き出しから引っ張り出す。
『ドう、しまシたカ』
日本語を喋ったつもりだったが、少し発音がおかしい。何年も使っていないとこんなにも訛ってしまうものなのかと内心焦ってしまう。
当の少女は、キョトンとしながらこちらを伺う。恐怖より驚きが勝ったのだろうか。
『スミ、ませン。ニホん語、久しぶりだったものですから』
舌が発音に慣れてくる。フリーズ状態だった彼女は少しずつ現実に戻り、ともすれば、溢れんばかりの涙で頬を濡らしていった。
ショートボブの茶色がかった髪は酷くクシャクシャになり、彼女の悲壮さを際立たせている。
何か言いたげに必死に口を動かすが、様々な感情と興奮に苛まれているのだろう、うまく言葉に出来ないでいる。
『大丈夫です、落ち着いて。ゆっくり、ゆっくりと喋ってください』
手を差し伸べて立ち上がらせると、少女の膝はガクガクと震えていた。
旅先で何度も、こんな光景を見た。老若男女問わず、あの「魔人王」でさえも。
だからみんな救った。だからみんな助けた。そして左腕を失い、権威を失い、立場を失い、今では帝国の隅の掃き溜めに落ちのびた。
今度は何を失くすんだろうと考えながら少女を落ち着かせると、彼はいつものあの言葉を待つ。約束事のような呪禁のような、あの言葉。
『たす、けて、くださぃ』
ようやっと、吐き出すように口にしたソレを聞いて、決意もやる気も大して湧かないまま、頷く。フードを取り、ここのとこ全く動かしていなかった表情筋を必死に引き攣らせて笑顔のようなものを作る。
『はい、助けましょう』
フッと。彼女の顔に安堵の雰囲気が見えた。すこしは余裕が持てただろうか。次は彼女のことをもっと聞き出そうと、まずは名前を訊ねた。
『 その前に、きみの名前は.......』
瞬間、背後に気配がした。
咄嗟に自分の着ていた外套をむしり取って、少々乱暴に彼女へ被せる。急に視界が暗転して驚いているようだったが、今は少し黙っていてもらおう。
「おい、そこの」
後ろから野太い声が響く。振り向けば、薄汚れた鉄の胸当てに帝国の紋章を付けた男が二人、こちらを伺っていた。
「兵隊さん、なにか?」
外套を被せた彼女を庇うようにして、ゆっくりと振り向く。
「この辺で見慣れぬ異国の服を着た女を見たか?」
「さぁ.......ここらは娼街も近いですし、異国の女と聞かれたらいくらでも」
「怪しいやつを見なかったかと聞いているんだ!」
もう一人の兵士が、甲高い声音で叫ぶ。どうして兵士という者は、怒鳴れば融通が利くと思ってしまうのか。
それは腰の剣の、手に持つ槍の、胸に掲げる国の王紋のせいだ。
彼らに大した力はなくとも、それが彼らを強くあらしめてくれる。
「いえ私にはちっとも心当たりが」
「なら、後ろのそれはなんだ?」
「これは私が今買った娼婦ですよ。久々なもんで.......でもあまり金がなくてね。顔は瘡病でグチャグチャですが。なに、穴があれば関係ないでしょう?」
「.......念の為、顔を改めさせて貰おうか」
「いえ、ですから、見れたもんじゃありませんよ?」
外套を握る彼女の手に、ギュッと力が入る。言葉がわからなくとも自分が問い質されているのを感じているのだろう。
「善し悪しなど関係ない、はやく顔を見せろ!」
「.......わかりましたよ、どーぞどーぞお好きなように?」
ゆっくりと、兵士の前から身を引く。その一瞬に、そっと彼女へ耳打ちした。
(大丈夫だから、でも絶対フードは取らないでね?)
「ほら女!顔を見せ、うっ!?」
フードを被ったままの彼女の顔を見て、片方の兵士が嫌悪の声を上げた。
「こりゃあ、たしかに凄いな.......」
「でしょ?それとも、コレがあなた方のお探しもので?」
挑発するように鼻を鳴らす。一人が口を押さえて引き下がり、もう一人の兵士は怖いもの見たさに彼女の顔を何度も覗き込んだ。
「お前、いくら穴がありゃあって言っても.......これは酷くねぇか。なんか伝染るぞコレ」
顔を顰めながら、何度も覗き込む。少女は何がなにやらと困惑していて、完全に固まって微動だにせず必死に兵士から目だけを背けていた。
「そう言ってもね、金がないものは無い。でも女は抱きたい。まぁ博打ですよ、博打」
「ま、まぁお前が買ったんだから好きにすりゃいいが.......って、ん?」
兵士が彼の左腕を見て、訝しむ。そこに肉の腕はなく、鈍く光る白い魔導石が付いた鈍色の義手が生えているのだから、無理もない。
そして彼の顔を舐めるように見回し、ハッとする。
「その腕、その顔.......貴様、この街にいたのか」
吐き捨てるように、野太い声の兵士が言った。
「この『王殺し』が」
「いちゃあ悪いかな?俺はあんたらの敵国の王を殺った英雄さまですよ」
「忠義も果たさん反英雄が.......貴様を見つけたことは衛士長様に報告するぞ」
「好きにしてくれ。だが今夜はお楽しみだから、訪問は明日以降にしてくれると助かるなぁ。もし邪魔したなら」
腰に提げた雑嚢から、赤い液体の入った小瓶を取り出す。
「この街だって、吹き飛ぶかも、な?」
それをコロコロと手の中で転がすと、兵士たちは途端に怯え、踵を返して逃げていった。
兵士の姿も見えなくなると、裏路地を少しだけ進み、彼女のフードを取った。
『さて、もう安心だ』
『え、あ、さっきの、顔を見られたのに大丈夫だったんですか?』
『ああ。君が今着ているのは幻写の外套といって、まぁ簡単に言えば幻を見せる魔法の架かったアイテム。彼らには君が君には見えていなかったということ』
『幻.......魔法.......え?』
『ひとまず外での立ち話は危ない。俺の家に行こう』
混乱と疲労で今にも倒れそうな彼女を支え、裏路地を深くまで進む。そうして見えてきた荒屋が、彼の今の家だった。
『酷くボロな家だけど外よりはマシだ。さぁ入って』
『あの.......お邪魔、します』
遠慮がちに入ると、彼女はくるりと部屋を見回す。あるのは、椅子とテーブル、ベッド、ちょっとしたチェストや戸棚だけ。一応炊事場はあるが、火釜の横に些細な調理スペースがある程度だ。
『なんせ貧乏なんで、こんな家にしか住めなくてね。これでもようやく借りられたんだ』
テーブルの上のランプに火を灯して、狭い部屋を淡く照らす。
椅子を引いて、座るように施す。ストンと腰を落とすや、彼女は気が抜けたようにテーブルへ突っ伏してしまった。
『.......まずは食事にでもしようか。と言っても大したものは出せないが』
戸棚から、昨日買って今はカチカチになったパンと彼にとっては秘蔵のジャムを取り出す。
そっと卓へ置いて差し出すと、よほど空腹だったんだろう、無心でパンに齧り付いていく。
一口はとても少なく、けれど小刻みに食べ進む姿が、彼が昔飼っていたハムスターのことを連想させた。
『んっ!』
急に食べる手が止まる。パンを喉に詰まらせたのだろう。瓶から水を汲んで差し出すと、慌てたようにガブガブと飲み干した。
『あ、ありがとうございます。.......あの、あなたの分は?』
ひと心地ついて、正面の椅子に座る彼が何も口にしていないことが気になったのだろう。残念ながら俺の分は君の胃の中だと、内心ごちる。
『俺は外で済ませたあとだから、気にしなくていいよ。それより、すこしは気持ちも落ち着いた?』
『はい、まずは助けて頂いて本当にありがとうございます。本当に、本当に何がなんだか訳が分からなくて.......怖くて.......』
『そうだろうね。ところで聞きそびれてしまったままだけど、改めて君の名前は?』
思い返してまた泣きそうになっていたところを、ハッとなり彼女は居住まいを正した。
『わたしは日向憩と言います、15歳です.......あの、あなたは日本人、なんですよね?』
『うん、そうだよ。俺の名前は遠坂鳴海、ナルミって呼んでくれ。歳は.......三十代前半ということで。君と同じ日本人で、君と同じように此処へ飛ばされてきた。十四年くらい前にね』
『飛ばされて、きた.......』
『そう。此処は日本じゃない。外国でも地球でもない。君の知らない、別の世界さ』
『.......異世界転移』
『は?』
思わぬワードに、ナルミのほうが面食らってしまった。
『何やら飲み込みが早いようだけど、既に誰かから説明を受けたのかな?』
『あっ、いいえ違います!ただ小説やアニメなんかのフィクションでそういうのが流行ってて、それで』
『なるほど.......?それで日向さん。君はこちらに来てどこで目を覚ましたのかな?』
『おっきな、石造りの部屋の中です。なんか光る床の真ん中に立っていました.......。自分の部屋でゲームしてたはずなのに、いきなり知らない場所にいて.......とにかくそこから出ようって、大きい扉を開けたら』
『鎧を着た兵士が立っていて、お互いビックリした?』
『はい、その通りです。なんでわかったんですか』
『俺もそんな感じだったからね。で、そのあとは?』
『全然知らない言葉で怒鳴り散らされて、わたしは怖くて逃げ出して.......途中で捕まりそうになったんですけど、なんか急に、大きな地震が起こったんです』
地震?今日は特に揺れを感じなかったがと思案するが、ひとまずは彼女との会話に集中することにした。
『それで兵士たちが慌て出して、なんか周りも大騒ぎで。その隙にとにかく逃げ回っていたら外に出られたんですけど.......その時わたしがいた場所が、お城だって気付いたんです。とにかく走って走って、気が付いたら街の中でした。でもどこを向いても外人さんばかりで、言葉も通じなくて.......そしたらまた兵士たちが追いかけてきて』
『路地裏に隠れて、見つけたのが俺だったってことだね』
せっかく久しぶりの「お客様」が来訪したのにその接待に失敗して、挙句逃げられたというわけだ。これは本当に兵士のうち誰かの首が跳ぶかもなと、彼は他人事ながらすこし心配してしまった。
『なるほど、よく分かったよ。話してくれてありがとう、では今度は俺が君に説明をする番かな。大丈夫?疲れてないかい?』
『はい、大丈夫です。色々と教えてください』
日向は食い気味に言葉を被せ、身を乗り出した。
『わかった。じゃ、掻い摘んでだけどこの世界について説明しようか』