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Page.4

 なお中央では、多少の変化が起こっている。

 塩氏の内紛はなおも続いていたが、長引く戦乱で、味噌氏に疲れが見え始めていた。

 1480(文明12)年6月。その機を逃さず、醤油氏が一気に打って出た。

 勢いを失った上に、内陸の風土に慣れていない味噌氏は潰走かいそう。関東は白河の辺りまで、北陸は越後北部辺りにまで撤退した。

 これ以降、北陸は醤油氏と味噌氏との間で度々奪いあいとなる。

 一方角定は、大坂に渡って、塩氏岩塩派の重臣と密かに会っていた。

 岩塩派は、酢氏に散々痛い目に遭わされている。恨みもひとしおだった。

 折りしも岩塩派と酢氏の国境付近である播磨はりまでは、たびたび酢氏の意を汲む山賊が現れ、岩塩派の益を侵していた。

 岩塩派としては、このまま捨て置く訳にはいかなかった。

 角定は、中央の権威に従わない酢氏の横暴ぶりを岩塩派に説いて回った。そしてようやく、岩塩派の重い腰を上げさせた。

 なお山賊が角定の意を受けた者らの仕業であることは、言うまでもない。

 1481(文明13)年1月。角定は蜂蜜水軍と共謀して、5000の兵で味醂氏を急襲した。

 だが後ろ盾であるはずの酢氏は岩塩派の動きに兵力を裂かれ、味醂氏を見殺しにせざるを得なかった。

 砂糖・黒糖軍さらには蜂蜜水軍の兵に囲まれた味醂氏は、最期を悟り自ら城に火を放った。かつて角定と恋仲であった義晴の妹いなも、炎のなかに消えた。

 讃岐平定後、角定は味醂氏の生き残りをことごとく捕らえ斬首した。

「一切の甘さなし」

 と『砂糖訓書』にある。

 女子供だろうが容赦ようしゃなかった。

 角定にとっては義晴の妹いな、柚子氏の姫ゆみと二人の女を味醂氏のために犠牲にせざるを得なかったのだから、その遺恨があったのかもしれない。

 しかしそんな角定も、いなが味醂氏に嫁いでから産んだ娘と幼い息子だけは許し、土佐に送った。

 ここに砂糖氏は、念願の四国統一を成し遂げた。

 その後、岩塩派からの再三の援軍要請には理由をつけて応じなかった。

 同年10月。角定の画策で、砂糖氏と酢氏は改めて和睦。岩塩派はさぞかし、しょっぱい顔をしたことだろう。

 しかし蜂蜜水軍や黒糖国を味方につけた砂糖氏は、もはや酢氏や塩氏といえども迂闊うかつに手を出せる相手ではなくなっていた。


 “四国の梟雄きょうゆう”砂糖氏

 “盟主”塩氏

 “北方の夷”味噌氏

 “東の弓取り”醤油氏

 “西方の雄”酢氏


 ここにようやく、『料理のさしすせそ』が整った。

 そして現在もまだ、この拮抗きっこう状態が続いているのである。

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