プロローグ
白と黒があるかぎり、あらゆる世界から完全といった要素は排除される。相田 公孝と豊本 傑の開発した『マーキナー』は人間と社会の仲介者として世界中で活躍している。社会は今や、全てを統べる一つの生命体として存在しており、人間だけでは制御がつかなくなる所にまで達している。感情という不完全さが、人間と社会の間に経つ仲介者を必要としているのだ。
社会とは情報の集合体であったが、今では中核となっている。失えば社会もろとも崩れてしまう程、情報は必要な物となっている。証拠として、暗号というシステムが日常化されている。そしてその暗号を解こうとする悪が存在している。
この世界において、個人は等しく無力となる。情報に取り憑かれ、社会の病にかかってしまえばそう簡単に再生はできない。かつて偉人は人生と映画に違いはないと言った。誰もが人生の主人公だった時代は終わった。
時代は代わり、マーキナーが出てくる前の世界では社会に殺され、精神までもが侵される個人で溢れている。個人のもっている独創性を殺され、個性を失い、骨の髄まで自分という存在を確立できずに亡くなった者がどれだけ存在したことだろう。それらは皆、社会のために身を捧げていった者だ。一人一人が夢を持ち、人生という物を楽しみたかった。
死が迫り人生を問う時、自分は主人公だったか脇役だったかという問題に当たる。ほとんどの人間は今、脇役だったというだろう。
それでも、最初の頃は身を捧げる事を誰もが英雄的だと讃えた。英雄というのは、何かのために身を捧げ、成功していった者達の事を言う。社会は英雄を作るために簡易的なシステムだった。
しかし、簡易的になりすぎた。簡易的になりすぎたものはやがて常識と呼ばれるようになり、誰もが英雄となることが当たり前という世界に移り変わる。時代と共に英雄の価値はレベルが上がっていくもので、自然な事に変わりはない。問題なのは、レベルが上がるのが早すぎた事だ。
その裏には、技術の進歩がある。素晴らしい事だ。進歩という言葉が使われてる以上、良い事だ。
だが、時期がある。進歩のタイミングだ。それを誤ってしまえば、マーキナー登場前の世界のように、人の持つ個性を殺す。進歩するに越したことはないが、早ければいいものではない。
豊本は高級住宅で平日の昼間から映画を見ていた。サラウンドシステムを盛大に使ったホームシアターで、多少行儀が悪くても彼を咎める者がいない薄暗い空間で、ひっそりと目の前の画面に注目している。テレビも大画面で、迫力満点。そのモニターには生身のアンドロイドの主人公が映されている。主人公のアンドロイドは、映画を通じて成長していく。今や映画は、アンドロイドが成長するための媒体の一つとなっている。勿論、ちゃんとした人間が主人公の映画も存在し、同様に観客に感動を与えている。
映画に夢中になっていた彼の空間に、型破りなチャイムの音が鳴る。何度も反響した後、豊本は椅子の横にあるサイドテーブルの上のコップを持ち、中に入った水を一気に飲み干した。やや機械的な水で美味とはいい難いが、いずれかは必ず機械らしさを失っていくはずだ。
リモコンを押しシャッターの閉まった窓を全て開けて日差しを空間に招き入れた後、彼は客人の元へ向かった。
「前に会った時よりも老けたな。久しぶりだ」
豊本の家を訪れたのは、親友の相田だ。手土産らしき袋を持っている。少し豪華そうだ。
挨拶の前に余計な一言を入れる相田の癖は、全く変わってなかった。懐かしさに、一瞬感動し、言葉を失った。
「本当、久しぶりだよ。嬉しいなあ、また来てくれるなんて。それにしてもよく私が家にいるって分かったじゃないか。外からじゃ見えないはずなのに」
すると相田は、中に入ってきてこう言った。
「ハルフォード監督の作品は情緒に溢れてていい。彼は全てのアンドロイドの親と言われてるし、何より日本人受けがすこぶるいい」
「どうやら私のスピーカーはまだ熟していないみたいだね。後で教える必要があるな」
「君の家は防音設備がきちんとされているのに、不良なスピーカーだな」
「彼は悪くないさ。……まあそれと、アクション映画だから音量の調整が難しかったというのもありそうだな。原因探しは今はいいか」
豊本は相田の靴を脱ぐ動作が終わるのを見届けてから、廊下を進み突き当りにあるリビングへと招いた。
「奥さんは?」
相田が尋ねた。
「五年前だったかな。マーキナーを応援してくれてたが、完成してから亡くなったよ。まるでマーキナーを私に作らせることが家内の人生の役目だったかのように」
白血病だった。豊本は自分の作ったマーキナー搭載システムを使って妻の治療を試みたが、その頃のマーキナーは現代医学についていける程の知能を持ちあわせていなかった。豊本は少しの間自責の念によって自閉的な生活を続けていたが、遠山という助手の言葉によって復帰したのだ。
その頃、相田は海外にいっていて多忙の身だった。海外にマーキナーという存在の偉大さを伝えにいっていたからだ。
それは今までに及んだ。つまり、今日、彼はようやく海外から戻ってきたのだ。即ち、全世界にマーキナーの技術が行き届いたことになる。
「変な質問をしたな」
相田は詫びを述べた後、土産を豊本に渡した。
「これ、よかったら受け取ってくれ。フランスにいった時にもらったワインだ」
「飛行機に乗る時、審査大変だったろう。それに値段も高そうだ」
高級そうなワインで、豊本は受け取りながら落とさないか焦った。
「貰ったって言ったろう。向こうから送られてきたんだ。フランスはマーキナーをとても必要としていたらしい。――ああ、他の国からも土産をもらったんだがね、確か君はワインが好きだと聞いていたし、いつ帰れるか分からないしで、その場で食べてきてしまった。アクセサリーはきちんと持って帰ってきたがね」
「いい世界旅行になっただろうね、さぞかし」
テーブルの上に置かれたワインは、豊本の震える手に抱えられていた時よりも落ち着いていた。
「あまり世界の事は詳しくなかったんだが、ちょっと詳しくなった気分だな。なんたって俺は外国人は靴を脱ぐって習慣すら知らなかったんだ」
相田の世間知らずさを豊本は改めて思い出した。
「文化が違うと大変だったろう」
「何度も殺されそうになったりひったくられそうになったりして大変だったさ。君も一度日本から脱出してみればいい。スリルを味わえるぞ。映画なんかよりももっと大きな」
「ハワイとかどうかな。海が綺麗で、とても楽しめそうだし」
「おお、そりゃいい。君は都会に住みすぎた。大自然という物を味わってきなさい」
相田も豊本の事を親友と認識しているが、彼はどこか、豊本の事を平等と扱ってない部分があった。豊本の不完全な部分を指摘し、優位に立っているのだ。
豊本は相田の性格を理解している。そして許している。
「大自然ならアマゾンでもいいかな」
「おいおい。君はもう若くないんだ無理はしない方がいい。体も弱いだろう」
豊本はワインを開けるためにソムリエナイフを探そうと立ち上がった所、相田がそれを止めた。
「ちょっと待ってくれ。良い物がある」
彼は鞄の中から厚い包装を施されたナイフを取り出し、机の上に置いた。既に開封されているのか、包装を解いた跡が残っている。
「開けてもらっていい。フランスで買ってきたんだ。すごいぞ」
豊本は言われるままに包装を解き、中にあるナイフを取り出した。
取り出したが、彼は何とも普通のナイフにしか見えずに困惑した。相田のいった、すごいぞ、という言葉の意味が理解できなかった。強いていえば持ち手の所に繊細で綺麗で芸術的な模様があるが、コルクを抜いている時には手で隠れてしまう。
「へ、へえすごいな」
豊本はその台詞で精一杯だ。
「分かってないな。この模様あルネサンス期の構造をかなり曲解に解釈して――」
相田の熱演が始まる前に、豊本は手で止めてみせた。
「わかった、今度聞くよ。今はワインを開けて、二人で乾杯といこう」
「うん、そうだな。雰囲気を壊して悪かった」
豊本は机の上に置かれた、理解し難いナイフを使って瓶の首元に切り込みをいれ、コルクスクリューを回しながら最後は自分の手を使ってワインを開けた。だが、ここにきてようやくグラスが用意されていない事に気づく。
「うっかりしてた」
相田は笑いながら豊本の様子を見た。というのも、豊本は得意げにワインの蓋を開けていて、ミスの存在に気づいた時の顔が腑抜けていて滑稽だったからだ。
「すぐ用意するよ、待っててくれ」
「君はワインを少し見習うといい」
「どういう意味だい」
「ワインは味を忘れさせるどころか、月日が経てば経つ程味わい深くなる」
豊本は空返事で相手して、グラスを二個取り出して机の上に置いた。
「昼間から酒を飲むのはちょっといただけないかもしれないけど、記念日ということでいいか」
酒に強い豊本だが、昼間から酒を飲む事は世間一般ではあまり好まれない行為だと知っていて躊躇った。
「そんな決まり誰も作ってないだろう。さあ、飲もうじゃないか」
豊本は瓶を傾けて、赤ワインをグラスに注いでいった。二人分のグラスに八分目まで注ぐと、瓶を机の上に置きグラスを片手で持った。
「親しい友との再会に」
グラスとグラスが挨拶し合う時の、軽快な音が響いた。
豊本、相田の二人の手に灼熱の熱さが伝わる。
「熱い!」
二人とも、咄嗟にグラスを落としてワインを散乱させてしまった。二人は一瞬、何があったのか分からなかった。だが、熱さという感覚から何が起きたのか、たとえそれが受け入れがたい物だとしても理解した。
「グラスが、グラスが燃えた!」
相田は落ちたグラスを見てそういった。グラスは割れずに床に落ちていて、尚且つ科学に反して燃えていたのだ。炎が盛んに主張を続けている。
「な、なにがあったんだ」
二人は再び驚かされた。
「うわ?!」
次は部屋の天井、床に取り付けられたスピーカーが発火し始めたのだ。
「なにがどうなっているんだ、君の家は!」
「私にも分からない! とりあえず危険だ。家を出よう」
スピーカーが発火し、連続してテレビも発火を始めた。炎は徐々に他の家具へと燃え移って、またたく間に広がっていく。豊本と相田は自らも燃える前に外へと飛び出した。
外は、更なる驚愕を帯びて二人を出迎えた。
防音効果を失い、外の様子は二人に満面なく状況を伝えた。パトカーの音や、人々の悲鳴を。
たった今目の前で暴走車に人が轢かれた。
「なにが、何がどうなって」
相田はそういいかけて、閃いた。
「そうか! これは私達以外の解釈の世界が、俺たち、我々の世界へと侵食してきているんだ!」
豊本は理解に追いつかない。世界が歓迎する大発明をした豊本ですら、このリアルの処理に追いついていない。
「どういうことだ、どういうことだ」
パニックに駆られる。
「今にも、機械の反乱が始まるぞ!」
人間と同じ姿をした、アンドロイドが一人、目の前から歩いてきた。彼は人間と違って怯えていない。
「逃げるぞ、このままでは我々は殺されてしまう!」
豊本は直感的に死の危機を感じ取った。アンドロイドには感情はないが、豊本にはどうにも、そのアンドロイドの持つ殺意が見えてしまったからだ。
正面の道からはアンドロイドが歩いてきている。ならば、左右の道しか逃げ場はない。
「くそう」
二人は左右からもアンドロイドが来ている事を受け入れなければならなかった。家に戻る選択肢は失われている。屋根まで火があがっていて、とても戻れるような状況ではない。
「どうすればいい、相田! 私はどうすれば!」
人々の悲鳴は止まる事がない。次に悲鳴に混ざるのは二人の番だ。アンドロイドはそう告げていた。
「どうしてこうなったんだ!」
冷静になっている相田の傍らで、豊本は吠えた。
「世界は我々が思っているよりも多彩すぎたということだ。マーキナーは確かに、全世界を救う。だがそれを望まなかったり、無知な人間からしてみればこうなる。見ろ、我々の作った作品が、神を、人間を殺しているじゃないか!」
アンドロイドは、一斉に二人に跳びかかった。
「危ない!」
相田は、勢いよく豊本を、アンドロイドの体当たりから軌道をずらすように投げ飛ばした。相田は五体のアンドロイドに押さえられた。
「相田ぁ!」
「いいか、これを止めるには君と、もう一人――いや、二人、三人、いや、もっと多くの力が必要だ! 全てを託したぞ。君に!」
アンドロイドの一人が、相田の首を締め始めた。相手の体の成長が止まり、後は退化していくだけの人間だと知りつつも容赦はなかった。
二人の作った世界は、一瞬にして燃え上がり、灰となった。人間は誰一人として存在しない、荒廃した世界を作り上げた。それは誰も望まなかった世界。しかし、誰かが解釈した世界。
半分を砂の中に産められながら、風で飛んできた砂を瓶は受け止めていた。
その赤ワインのタイトルは、プレミアレクトという。