#09
時刻は夜中の零時を回ってしばらくしたところだった。星哉はテントの中で、寝袋に入ることも無く、荷物を膝に抱えて、じっと耳をそばだてていた。同じテントには穂高がいたが寝ているというより気を失っているような状態で静かに横たわっている。風が吹いてテントの布地を揺らし、ばらばらという雨粒が弾かれる音が聞こえてくる他の、外の音は聞こえて来ない。いつもはまだ騒いでいる慶斗たち若い連中も、テントの中で大人しくしているらしい。若い男たちの一部は、狭いからとこれまではテントの外に寝袋を出して寝ていたが、流石に雨の中ではそうもいかないようだ。もっとも、静かなのは今に始まったことではなく、いつもと比べて先程零時の抗議活動自体が、全体的におざなりに済まされていた。
星哉は窃盗未遂をやらかしたわけが、そのことで別段、待遇が変わるようなことはなかった。ただ、あのあと午後中全てを、慶斗の説教だか説法だかを延々と聞かされることで過ごした。苦痛ではあったが、中身の無い内容をさも重要なことのように、矛盾もこちらの都合も無視して延々話されるなど、上司で慣れた星哉にとっては、大して堪えておらず、むしろ暴力的なことにならなくて胸をなで下ろしていた。慶斗は一通り自分の語りを終えると、門の前のワゴン車のところまで星哉を連れて行き、理沙に、綾乃の素晴らしさに付いて語らせた。というより、慶斗が綾乃についての賛辞を述べ、理沙はうなずいているだけだった。慶斗はもっと理沙に喋らせたかったのだろうが、理沙は綾乃の事を語っているようで、いつのまにか息子の事に話しが掏り替わっていることが続いたので、その形式に落ち着いた。老婆と、元気が無く半ば放心状態の穂高はとにかく、日比野は隣で繰り出される慶斗のお喋りに辟易したのか、刺々しい視線を向けて来ていた。
初老の男たち二人が、それに気付いたのは、そろそろ夕食の支度をしようかという時間帯で、時折雨が滴る中、相変わらずテントの前で一杯やっていたときだった。昏くなってはいたが、まだひとの顔の判別がかろうじて付くくらいの明るさはある中、日が翳り、ふと顔をあげるとそれ、星哉がいた。数時間前に車泥棒をやりかけた件もあったので、突然、目の前に立った星哉に二人はぎょっとし、酒の入った器を持つ手が止まった。星哉は、わざわざ二人の正面で立ち止まったにも関わらず、何も言わず、何の感情を見せることも無く、無表情に坂を下り始めた。
「おい、にいちゃん」
初老の男の一人が声をか掛けた。が、星哉は無視してどんどん歩いて行く。
「おい!止まりなよ!手越さん!あいつ、あいつ、また!」
もう一人が狼狽しつつ、大声を上げた。この場で声を上げても、ワゴン車の中にいる手越に聞こえる筈はなかったのだが、ワゴン車の手前にいた若い男たち二人には聞こえた。坂道を下って行く星哉の後ろ姿を見留め、慌ててワゴン車に走り寄り、窓を叩いて急を知らせる。間髪入れずに、手越が飛び出して来て、そのまま星哉の後ろ姿に向けて、坂を駆け下りた。
もっとも、それほど焦っているわけではなかった。坂道の下、道を塞いでいるワゴン車の助手席には、足達がいたのだ。足達は座席を倒して寝転んでいたが、目の前を通り過ぎていく星哉の姿は流石に目に入った。慌てて起き上がると共に車から出て、声を掛けたが、星哉は無視してずんずん下りて行った。
「おい!てめえっ!」
足達は声を荒げ、大股に星哉に近寄り、その肩を掴もうとした。だがその時、それまで歩く速度を変えなかった星哉が、全力で駆け下り始めた。足達の手は空を掴んだだけだった。
「てめえっ!」
足達も全速力で走り出した。少し後を若い男二人と手越が続いていった。
初老の男二人は、坂を駆け下りて行く手越たちを眺めていたが、その姿がワゴン車に隠れて見えなくなったほどでやめた。溜め息を吐きつつ、酒瓶を引き寄せて、飲み直そうとしたとき、門の前に停車している方のワゴン車の影から慶斗が覗いて、声を掛けて来た。
「何があったんスか?」
「また、あのにいちゃんだよ。車泥棒の」
「はあ?」
慶斗は眉をひそめると、腕を引いた。星哉は慶斗に腕を掴まれ、ワゴン車の影から引き出された。不審げな顔付きの星哉を見て、初老の男二人の酒を注ぐ手が止まった。ぽかんと口を開けて、星哉の顔を眺めた。
「あ、あんた、にいちゃん、あんた…え?」
「今、下に向かって…え?え?」
初老の男たちは、歩み寄って来た星哉の体を、実体があることを確かめるかのように、ぺたぺたと触って、顔を見合わせた。慶斗と若い男二人が交代で問いを重ねて、何があったのかを聞き出したが、顔を見合わせる人数が六人に増えただけだった。
「本当に、わたし、でした?」
若干声が震えていたことは否めなかった。星哉の問い掛けに初老の男たちは口をつぐんでしまった。埒が明かないと思ったのか、単なる好奇心か、慶斗が坂道を下り始め、星哉もなんとなく従った。若い男二人に加え、初老の男たちも気になるのか、一瞬戸惑ったものの、酒瓶を地面に置くとやや遅れて坂道を下った。一同は道を塞ぐワゴン車のところにまで来たが、星哉らしきものの姿どころか、その後を追って行った手越たちの姿も見えない。雨脚が強まって来たこともあって、結局そこで全員が踵を返した。振り返ると、道の上、飲料水用ポリタンクのところに、髪を振り乱し、金属製マグカップを手にした、スカート姿が見えた。騒ぎに気付いているのかいないのか、道の下、星哉たちの方に顔を向けたのは、髪の隙間から真っ赤な唇が覗いたので分かったが、皆が上って来るのを待つこと無く、ふらふらと門の方に戻って行った。
手越と足達、若い男二人が戻って来たのはしばらく経ってからだった。足達の顔色が酷く悪く、テントの前で慶斗たちといる星哉を見ると、微かに悲鳴を上げ、手越に睨まれた。
「あの…わたし、ずっとここにいたんですが…」
何があったのかはよく分からない上、言い訳じみていることも理解していたが、また逃げ出そうとしたと思われては堪らないので、星哉はそう口にした。手越は軽くうなずいただけだった。
「本当っスよ。俺ら、一緒にいて…」
「分かっている」
慶斗の請負の言葉に、手越が短く応えた。手越は不機嫌な表情そのまま、顔色の悪い足達を押し入れる様にワゴン車に乗せ、自身も乗り込んだ。
「何があったんだよ」
慶斗と共にいた若い男の一人が、星哉らしき人影を追って行った若い男たちに尋ねた。二人とも当惑げに星哉を見てから、小声で答えた。
「いや、それがさ、消えちゃったんだよ。このひと」
無論消えたのは星哉ではなく、追って行った対象である。若い男たち二人はそもそも後ろ姿しか見ていなかった上、角を曲がったらいなかった、というだけなので、不思議だとは思ってもそれ以上の感情はない。だが、横顔とはいえ顔を見ている上に、その姿がかき消えたところを見たらしい足達は、怯え切ってしまっていた。結局、足達はそれ以降ワゴン車から出て来ることは無く、夕食も譚が車内まで運んでいた。
朝、穂高の一件から少し緊張を孕み、星哉の盗難未遂で更に悪化していた空気は、その一件で完全に最悪なものになった。初老の男二人は、自分たちが幻覚を見たのではないかと恐れたのだろう、酒瓶を投げ出し、テントの中に引っ込んでしまった。若い男たちは、特に深刻に捕らえているわけでは無いのだろうが、それでも空気を読んでか、やたらに騒ぐことを止めた。全体的に活気がなくなった中、午後五時、十時、午前零時の抗議活動は行われたが、零時のときにはこれまで皆勤賞の理沙ですら、ほとんど声が出ていなかった。
星哉も、前日によく分からないものを見ていた上に、今度は自分のそっくりさんが現れたということが不安に拍車をかけ、食欲も湧かず、ほとんど飲まず食わずで今に至った。目が冴えてしまい、他の面々がこの状況で既に眠り込んでいるらしいことに、正直なところ呆れていた。穂高が日中していた体勢そのまま、荷物を抱えて座り込んでいたが、不意に、雨音と風音に、何か違う音が混じったのを耳が捕らえて、心臓が跳ね上がった。そろそろと、圏外であることが分かって以降、電源を落していたスマートフォンの電源を入れ、懐中電灯代わりに灯すと、音を立てない様にテントの出入り口を開けた。雨が吹き込んでくる。広い野外ではさほど強くない光源ではあったが、はっきりと、下から上ってくる複数の、灰色で二足歩行の人影を、照らし出した。