#07
座り込みに参加して以降、外していない腕時計が微かに音を立てた。午前六時十分前。昨日は午後のほとんどを眠って過ごしたせいか夜中まで目が冴えていて、零時の抗議活動までの記憶はあったが、四時のときの記憶はなかった。寝ていたのか、起きて参加したが忘れてしまったのか、自分でもよく分からないまま、星哉は安物の寝袋から体を引きずり出し、テントの外に出た。少し前に小雨が降っていたらしい。吹く風と、濡れたアスファルトから染み込んでくる冷気に、星哉は身を震わせて上着を羽織った。
ポリタンクから汲んだ水を一杯飲んでから、門の前、ワゴン車の傍らにまで移動すると、既に準備万端の体で待ち構えていた穂高が、会釈しつつ太鼓を差し出してきて、眉をひそめた。
「昨日、随分飲んだんですねえ。お酒の匂い、酷いですよ」
「…飲んでいませんが」
そう応えたものの、穂高は眉をひそめたままで、嘘を言っている様には見えなかった。星哉も少し眉をひそめ、何となく上着の襟元を嗅ごうとして、上着の袖口の方から漂う強い酒精の匂いに気が付いた。星哉は、この場に到着して以降、一切酒には近寄っていなかったのだが、夕べ、日比野とは接触したことを思い出した。鍵の受け渡しの際に、日比野の袖が星哉の上着の袖をかすめ、染み付いていた酒が移ってしまったのだろう。ついでに改めて確かめると、上着全体がまだ金木犀の花の強い香りがしていた。星哉は無言で上着を脱ぐと逆さにし、無造作に二三度払って、匂いを飛ばそうとした。
「…本当に、飲んでいませんか?」
星哉の仕草を見ていた穂高が、おずおずと尋ねて来た。
「飲んでいませんよ。日比野さんの酒が掛かったんでしょう。何なんですか?」
やけに顔を凝視してくる穂高に、星哉はしかめっ面で尋ね返した。
「…昨日、猿、みたいのもの、見たって言いましたよね」
星哉は上着を振る腕を止め、穂高の顔を凝視し返した。酒の飲み過ぎで幻覚を見たと思われているのだと気付き、若干頬が引きつった。
「あの、本当に猿でした?大きさはどれくらい?」
星哉が気分を害したことは分かるだろうに、穂高は遠慮なく、尋ね続けて来た。星哉は苛々しながらも、正直に自分が見たものの外見、飲料用のポリタンクの上に乗るくらいの、大きな雄猫くらいで黒かったことを説明した。
「本当に、それくらいの大きさでした?もっと大きくありませんでした?」
穂高はなおも、身を乗り出す様にして尋ねて来た。その余りの熱心さに星哉は不審を感じ、はたと気付いた。
「ひょっとして、あなたも何か見たのですか?」
穂高の目が見開かれた。小太りの体が微かに震え出していた。星哉から視線を逸らし、殊更周囲に聞こえないような小さな声でつぶやいた。
「犬、だと思います。見掛けは犬でした」
「…野犬では?」
見掛けが犬なのなら、犬以外に有り得ないと思うのだが、星哉の言葉に穂高は強く首を振って否定した。
「見たのは、それが木の傍にいたときです。顔の位置にちょうど目立つ枝があって、後で確かめたら、その枝は、私の腹の上、胸の当たりにあったんですよ。犬としては大き過ぎるでしょう」
穂高の身長は百七十センチ弱と言ったところである。その胸の辺りに顔が来るとなると、その獣の体高は一メートルを超えていたことになる。確かに犬としては大き過ぎる。
「鹿か、最悪、熊、という可能性は?」
鹿はとにかく、熊であれば危険である。もっとも熊が出没するのであれば、宗教団体側も警戒してる筈で、畑の周りに脆い網を張っておくだけというのは考えられなかったが。穂高は自信なさげにつぶやいた。
「かもしれません。でも、何頭…何匹?も、いて、こちらをうかがっているみたいだったんです。熊って集団行動をするものですか?」
星哉も野生動物に詳しい方ではないので、分からなかった。
「…本当は、あと一週間は参加するつもりだったのです。でも、何だかあの若い人たちは、怖いです。慣れません。それに、野犬か熊か分かりませんが、獣が徘徊しているとなると、正直、もう離れたいんですよ」
ぼそぼそと、穂高は喋り続けていた。離脱したいという気分なのは星哉も同じだったが、問題は手越がそれを許してくれるかということだった。
ワゴン車のスピーカーの音量が上げられ、抗議文の復唱が始まった。穂高も星哉も黙って、手の中の打楽器を鳴らすことに集中した。門の向うでは、昨日の午後より更に増して、施設全体が静まり返っていた。
星哉が本格的に逃げ出すことを考えたのは、その後、手越や足達のいるスピーカー付きのワゴン車の中に入っていた穂高が、完全に足元が覚束ない状態で出て来た時である。星哉が声を掛けても反応がなく、ただ、ワゴン車のタイヤにもたれ掛かる定位置に座り、荷物を抱え込み、石化したかの様に反応がなくなった。唯一、贅肉の厚く付いた背中が呼吸に合わせて上下に動いている。星哉は余程声を掛けようかと思ったが、やたらワゴン車やテントの間を歩き回るようになった足達の、憎々しげな視線が気になって、果たせなかった。やはり手越は途中で投げ出すことを許してくれはしない、体の芯が冷たくなる感覚と共に星哉は心の底から理解した。そうなれば残るのは、手越に無断で離れる、逃走という手段だけだった。