#06
星哉はしばらくの間、ワゴン車に背中を押し付けたまま、微動だにしなかったが、そのうちに頭の中で反響する慶斗たちの馬鹿笑いに耐えられなくなり、ふらふらとその場から離れ、テントの一つの横にある、蛇口の付いた飲料水用のポリタンクの傍まで来た。タンクの上には、合成樹脂製の使い捨てのコップが無造作に置かれている。その一つを取り、蛇口を捻り、化学物質的な味の着いた、まずい常温の水を一気に飲んだ。微かに手が震えていたので、何滴かが口から外れ、顎をつたって首まで垂れた。
少し前までは確かにあった慶斗たちに対する怒りは消え失せ、今はただもう無邪気に笑い続ける姿を不気味に感じていた。一旦、気味の悪さが勝ってしまうとどうしようもないものらしい。コップの水を飲み干した星哉が顔を上げると、スピーカー付きのワゴン車の周りで踊り始めた慶斗たちが目に入ったが、行う場所によっては格好良いものなのだろうその動きまでも異様に見え、ゆっくりとポリタンクにまで近づいて来て、片手に持った水色の調剤薬局名が書かれた紙袋をかさかさ言わせて、取り出した何錠かの薬を飲料水で流し込む理沙の一挙手一投足までが、何か不吉に感じた。
少しの間だと、星哉は思ったが、実際には結構な時間、そうやってポリンタンクの傍で星哉はぼんやりしていた。もっとも空いた時間に何をしていようとも自由なので、星哉のその挙動も誰も気に留めなかった。星哉の放心状態が解けたのは、足達がやって来て、自分たちの食料や水、日用品を運び込む車両が来るから手伝えと命令されたときだった。星哉は、自分たちが昨日やったように、今度は宗教団体の方が、搬入を阻止しに来るのではないかと内心怯えたが、そのようなことはなかった。他二台と同じ型の白いワゴン車が、昨日食料品店のトラックを追い返した際のまま、道を塞いで停車しているワゴン車の手前までやって来て、二十リットルの水が入ったポリタンク数台と、数種類の酒と、カップ麺やレトルト食品が運び入れられ、逆に空のポリタンクが持ち去られた。いつの間にか、星哉のこの場所での立場は最下級になっていたらしく、酒や日用品はとにかく、水が満タンに入ったポリタンクの運搬は一人でやらされた。普段、体を動かす生活をしていない星哉にとっては重労働この上なく、完了したときには疲れ切って、地面に座り込んでしまった。両手を後ろについて体を支え、脚は投げ出し、汗は流れるままに荒い息をしていると、ふと、目が合った気がした。星哉の顔は斜め上を向いているので、視線は周囲に迫る樹々の上の方にある。木の上から何か小動物か鳥でも見ているのかと目を凝らしたが、何もいない。それでいて、見られている、という感覚を全身に感じ、星哉は頭を巡らし、忙しなく辺りを、特に周囲の樹々の上を見回したが、風に揺られる枝葉以外のものは目に入らなかった。星哉の全身に鳥肌が立ったのは、汗のせいだけではなかった。
睡眠不足に加え午前中の肉体労働のせいで、星哉はその後、テントに潜り込み昼食を摂ることなく眠り続けてしまい、気が付いたのは午後五時、夕方の抗議活動の時間だった。その前の、十二時のときには見逃されていたらしい。慶斗にテントから引きずり出された星哉は、眠っていた時間こそ長かったが、睡眠の質は良いものではなかったため、全身がだるかったが、門の前に立ち、今回はタンバリンを振った。運動場には昨日の同じ時間にはあった人影が一切なく、建物内部を行き交う人影も、これまでに比べて少ない様に感じた。星哉たちの方はというと、理沙に老婆、髪の長い女、穂高や初老の男たちは変化はなく、工場のラインの仕事をこなすかのように、抗議文を復唱していたが、慶斗たちは朝より更に興奮していて、時折関係ない、というより意味不明の叫び声を上げていた。慶斗は顔が赤く飲酒しているようだった。星哉の目には、慶斗はまだ飲酒が違法の年齢に見えいていたが、何か言うつもりも無かった。
抗議が終わると、星哉はいの一番に門の前から離れた。そして、横になるべくテントに戻りかけ、硬直した。飲料水の入ったポリタンクの上に、一見すると猿のようだが、目の部分がぎらぎらと輝いている以外は真っ黒の生き物がちょこんと座っていたのだ。一瞬、声が詰まった星哉だが、次の瞬間、悲鳴を上げた。
「な、なにっ!?」
星哉に続いてワゴン車から離れ、こちらに歩いて来ていた若い男の一人が跳び上がって星哉から距離を取りつつ、尋ねた。
「あれ!あれ!」
「は?なに?」
星哉は片手で指差しつつ、振り返ってもう片方の手で若い男の腕を掴んだ。若い男はポリタンクの方に視線を向けたまま、訳が分からない、という様相の声を上げた。星哉の上げた悲鳴に、わらわらと他の面々が集まって来た。
「どうしたんだ」
「あれ!」
手越に声を掛けられた星哉は再度指差しつつ叫び、ポリタンクを見た。が、何もいなかった。
「…あれ?」
星哉に腕を掴まれていた若い男が、不機嫌そうに手を振り払った。訝しげな、咎めるような視線が方々から星哉に突き刺さる。居たたまれなくなった星哉は、赤面しつつ下を向いてつぶやいた。
「いえ、あれ、その、何か、いたんです。猿みたいのが」
「猿だろ」
手越が詰まらなそうに言い放った。そのまま踵を返すと、ワゴン車に戻って行ってしまった。それを合図に、他の面々も持ち場に戻って行った。
「ったく、くっだらねえ」
足達が星哉の脚を蹴った。
「猿、いるんスか、この山」
「いるから、ネット張ってあったんじゃね?」
別の若い男が足達に尋ねたが、足達より先に慶斗が反応した。確かに畑を荒らすような禽獣がいたからこそ、対策として網が畑に張られていたのだ、と星哉は思い至り、自分が怯えて大声を上げてしまったことが心底恥ずかしくなった。
「ねえ」
そんなことがあったため、他の連中と顔を合わせにくくなった星哉は、その後は基本的に山道の下側に停めてあるワゴン車の影で、一人過ごしていた。夕食も、今日差し入れられたフィルム包装のお握りをそこまで持ってきて齧っていた。突然声を掛けられたのはまさにその時で、星哉は跳び上がらんばかりに驚き、その拍子に米粒が気管に入った。何度かむせた後に顔を上げると、ワゴン車の影から髪の長い女が覗いていた。
「鍵」
鼻にかかったような声で、ぶっきらぼうに言われた言葉の意味を、驚きから回復していなかった星哉はすぐに理解出来ず瞬きを繰り返した。
「か、ぎ!」
髪の長い女は語気を強めると、ワゴン車の正面をばんばんと叩いた。星哉はようやく理解した。
「あ、鍵、ですか、この車の」
「他に何の鍵があンのよ」
鍵を取ってこいと言われていることに気付いて、星哉は立ち上がり、ふと、命令されることを理不尽に感じた。しかしそれを口に出すより早く、髪の長い女は、よろよろと星哉がいるのとは反対側、テント側のワゴン車の側面に戻り、タイヤを背に座り込んでしまった。星哉が何となくその様子を見ていると、更に金切り声が上げられた。
「早く取って来なさいよ!」
「は、はい」
基本的に、他者に強く言われることも、女性の金切り声も苦手だった星哉は、それ以上何も考えることなく、テントの間をすり抜けて、スピーカーのあるワゴン車に向かった。窓を叩くと足達が窓を開けた。
「なんだ」
「あの、鍵、車の鍵を。もう一台の方の車のです。あ!違います。あの髪の長い女の人が取ってこい、って」
「日比野が?」
言葉途中で睨まれて、星哉は慌てて状況を説明した。足達は眉をひそめて窓を閉めた。車内から会話が交わされる声がして、譚が出て来た。譚は星哉をちらりと見ただけで何も言わず、どんどん道を下って、もう一台のワゴン車の方に近づいて行った。テントが張られているところまで来ると、薄暗いながら、膝を抱えて座り込んでいる髪の長い女の姿が見えた。譚は微かに鼻を鳴らすと、ポケットから鍵を出して星哉に押し付けて戻って行った。どうも、星哉がワゴン車を乗り逃げしようとしているのではないかと疑われていたらしい。星哉は一人で更に道を下り、日比野と言うらしい髪の長い女に鍵を渡した。日比野はずるずると立ち上がり、ワゴン車の後部座席の引き戸を開けると、用無しとばかりに鍵を押し返し、中に入って行った。日比野が扉を開けたときに車内灯が点いたので、星哉は車内の様子が見えた。花柄の毛布と枕で寝床が設えてあった。女性陣はテントではなくこのワゴン車で寝ていたらしい。星哉は溜め息を吐きつつ、鍵を返しに来た道を戻った。