#08の裏側
学院では、土日祝日は基本、生徒の校舎内への立ち入りが禁止されている。例外は図書室だが、それも事前に使用に許可が必要だった。だが、その日曜の朝、校舎の正面玄関の事務室の更に隣にある応接室の前の廊下を行ったり来たりしている生徒がいた。代田である。数歩進んで立ち止まり、百八十度回転して来た道を戻り、また数歩先で踵を返す。その行動を何回も繰り返した後、不意に立ち止まると、意を決した顔で応接室の重厚な造りの扉に片方の耳を押し当て、瞳を閉じ、室内に耳を澄ませた。代田がその体勢をとったのとほぼ同時に、隣の事務室の戸を軽く引き開けた里崎は、珍妙な格好の代田の後ろ姿を見つけ、目を丸くした。里崎が音を立てない様に戸を閉めた後もしばし、その体勢をとっていた代田だが、やおら扉から体を放すと、また廊下を歩き出した。そうして数歩、事務室と反対側に歩き、そこでくるりと向きを変え、呆れた顔で自分を見守っている里崎と目があって、跳び上がった。
「何してるの」
「え…いや…」
「ひょっとして、ずっとうろうろしていた?動物園のマレー熊みたい」
どうしてマレー熊に限定されたのか分からなかったが、己の奇行の一部始終を見られていたことで、代田の顔が赤くなった。
数十分前、事務長から一年生寮の寮監を通して里崎に、親から電話が入っているという連絡があった。本来生徒宛の電話は寮に回されるのだが、今回は事務長が特別に応接室のものを使う様に言って、部屋を開錠してくれた。その特別扱いに、事務長が、電話の内容が他の生徒を憚るものだという可能性を考えたのだと分かった。畑が荒らされ秋の味覚大祭が規模縮小、食材の搬入が妨害されカレーが延期、と続いて、昨日辺りから生徒たちの間に不穏な空気が漂い始めていた。自然、その原因と目されている連中の一人が名指ししている『光の園』の関係者である二人への風当たりは強くなって来ていたので、事務長の配慮は理解出来た。どさくさに紛れて里崎と共に校舎内に入り込んだ代田だが、応接室にまで踏み込む勇気はなく、それでも電話の内容が気になって、あのような行動を取るに至っていた。
里崎は赤面した代田を、しばらく黙ったまま眺めていたが、苦笑しつつ、口を開いた。
「意外と覚えているものだと思った」
「は?」
「声」
代田は意味が分からず、里崎の顔を眺めた。
「声聞いたら、ああ、この声だったって思い出した」
「…」
「十年振りくらいなのに」
「つまり…」
代田の顔に先程とは別種の赤みが差した。
「電話、母からだった」里崎の顔付きはここしばらく見たことが無いほどに晴れやかだった。「門の外にいるヤマモトという女は俺の母親じゃない」
代田は安堵の余り、膝から崩れ落ちるような感覚を味わった。里崎が笑いつつ、正面玄関に向かって歩き出したので、代田も隣に並んだ。
「じゃあ、じゃあ、あの女が叫んでいるアマネ、ってのは別人で、名前が同じなのは偶然か?女はリサだって言うし、ずいぶん、一致しているけど…」
里崎は真顔にこそなったが、足取りは軽く、顔の色つやも良いまま、説明を始めた。
「そのことだけど、母に心当たりを聞いた。前に入っていた育児サークルでおかしな女がいたらしい。ああ、母ね、七年くらい前に再婚してて、そちらに子供が二人いるんだって。小学校に通うようになれば少しは手が離れるけど、でも今、住んでいるのは寒い地方だから、もう冬支度に入っていてそれがすごく大変だそうで、学校に通うとなると通学が問題というか心配だって、寒いから…いや、ええと何だっけ」
「育児サークルに変な女がいたって」
代田が話しの方向を修正すると、里崎はうなずいて、また話し出した。心なしか、普段より早口だった。
「そうだった。育児サークルね。俺の時に上手くいかなかったから…母のせいじゃないよな。憑かれ易いというか、おかしなものを引き寄せては、引きずられて熱出して、その上自分の混乱に周囲を巻き込むとか…いや、当時はそこまで行っていないか。でも思考能力というか判断能力を低下させてはいた…だよな?そんな子供、一般人というか普通だとちょっと扱えないよ。真面目で真剣に親をやろうとするタイプほど、訳が分からなくなって泥沼に嵌り込むしさ。母みたいな性格とは、相性が最悪で…あれごめん、何の話しをしていたんだっけ」
「育児サークルに変な女がいたって」
代田の言葉に、里崎は今度は何度もうなずいてから、続けた。
「そうそう。それで再婚して子供が生まれた後、今度は煮詰まらないよう、他の母親と交流した方が良いと思って…真面目だよな、その時点で。うちの祖母とは正反対だよ。うちの祖母、知っていると思うけど…」
「育児サークルに…」
代田は、今回は話が逸脱しかけた時点で口を挟んだ。
「ああ、ごめんごめん。育児サークル。育児サークルに参加していたら、そこにいつの間にか関係ない女が紛れ込んでいたんだって。関係ない、というのは素性をサークルのメンバーの誰も知らなかった、子持ちなのかも分からない、ってことなんだけど、当たり前に混ざっていたから誰も疑問に思わなかったと。それでその女、初めは親切というか親身になって話しを聞いてくれていたから、母も気を許して、つい少しプライベートなことも話してしまったそうだ。ところが、他のメンバーに、母の過去話を、自分自身の過去として吹聴し出して、おかしい、となった、と。同時期に、同じ具合に話したエピソードを誇張したものを、その女の経験みたいに話されて広められたメンバーが被害を訴え出て、色々あって、結果、サークルが解散になったそう」
「なるほど」
代田はようやく全貌を聞けて、納得出来た。
「あくまで、その女じゃないか、って程度だけどね。証拠がある訳でもないし。でも母が、一回目の結婚のときの子供の名前まで喋ってしまった相手は、家族を抜かせばその女だけだって。その女で懲りたから、以降は慎重になったって言うし」
代田も決め付けは危険だと思ったので、そこは意見した。ただ実際のところ、里崎と無関係であると分かれば、門の外で喚いている女の正体など、代田にはどうでも良かった。数十分前、寮から校舎に赴いた時が嘘だった様に、清々しい気分で、代田は里崎に問い掛けた。
「あの、食物のありがたさを学ぶ会、だっけ?」
「食物のありがたさを外部の方々にも教えてあげましょう計画、な」
里崎が訂正した。計画については両者の耳にも入って来ていたが、ヤマモトと名乗る女が里崎の母親の可能性がある以上、聞こえないふりをしていた。だが、もう遠慮する必要は無い。
「そう、それ。どうする?参加者が結構多い、って聞いたけど」
「参加したいな、俺は。カレーが中止になったのは、あいつらのせいだろう」
「だよな。うん。誰に言えばいいんだ?」
「調理部だろ。うちのクラスだと…」
その後、揉めることも無く、三組の調理部の生徒を経由して二人は計画に迎え入れられた。ただ、里崎と代田が、学院の生徒たちで最後の参加表明者だと聞かされて、少し驚いたのは間違いない。娯楽の少ない学院で、生徒たちから買ったカレーとサツマイモの恨みは、深く、甚大だった。




