昔日
布団の上を両手で抱えられるほどの大きさのラッコが滑って行くのを少年はただ見つめていた。
「ほら、お薬」
女性の声が掛けられ、布団から身を起こして掛け布団に虚ろな目をやっている少年の前にスプーンが差し出された。小さなティースプーンの上には、粉薬を少量の水で練ったものがある。錠剤はもちろん、顆粒状でも、まだ就学前の幼稚園児に摂取させるのは至難の業だった。端から見ると、高熱に冒されて放心状態にあるようにしか見えない少年だが、口をきつく閉じると、弱々しく頭を振って、薬を拒絶した。
「駄目よ、飲まなきゃ、……くんの、体、良くならないよ」
女性の声は続けたが、少年は口を閉じたまま、体を折り曲げ、布団の上に縮込まった。
薬は甘ったるいような、それでいて苦いような変な味がしていた。だがそれは我慢出来る。我慢出来ないのは、薬を飲むと眠くなることだった。起きている間はせいぜい、ラッコが宙を泳いでいたり、周辺の箪笥や机や時計の色が突然変わって光り出したり、壁が喋り出したりするだけだが、眠ってしまうと、ラッコは太く鋭い牙を持った毛むくじゃらの恐ろしい怪物に変貌して少年を丸呑みしようと襲って来たり、色が変わった箪笥が溶け出して少年の口や耳に入り込もうとして来たり、壁がひっきりなしに怒鳴りつけてくるようになったりするのだ。少年はもう怖い思いをするのが嫌だった。
頑なに拒む少年を見て、声の主の女性は溜め息を吐くと、片手を俯いている少年の顎の下にねじ込み、無理矢理顔を上げさせると指先に力を込め、微かに出来た上唇と下唇の間の隙間に、スプーンをねじ入れようとした。少年は必死で顎を掴む女性の手を掴み返し、迫ってくるスプーンに向けて手を振り払った。少年の手が当たったスプーンは女性の手から飛んで、傍らの絨毯の上に落ちた。薬が布地を汚した。
「もう!なにやってるの!」
女性が叫んだ。少年は、スプーンを取り上げようとして拘束が緩んだ女性の手から逃れると、素早く布団の中に潜り込んだ。
「だめ!飲みなさい!」
布団一枚を通した分、くぐもって聞こえた声と共に布団がめくられる。少年はめくられかけた布団の端を掴んで抵抗したが、連夜続いている高熱で落ち切った体力は既に限界に達していた。手が離れて敷き布団に落ちる。少年は女性の膝に抱え上げられると、別のスプーンで一掬いした薬を、再び口の中に入れられようとした。朦朧とする意識の中、思う様に動かない体で、少年は必死に抵抗した。少年の振るった片腕はだらりと垂れ、ちょうどお盆の上に置いてあった、白湯の入った湯呑みに手が当った。湯呑みは倒れ、弾みでお盆の上のみならず、絨毯と布団の一部に染みを作った。
「あ、あ!」
女性は水分を拭き取るべきか、先に薬を飲ませるべきか、判断に迷った。片手が垂れた影響で、少年の体は体勢が崩れ、ずるずると膝の上から落ちた。少年は落ちた先でごろりとうつぶせになると頭部を両手で囲んで、抵抗を続ける気配を見せた。
「もう!」
女性は湯呑みを戻すと、汗拭きに使っていたタオルを布団に二三度押し当てると、再び少年に向き直った。
「飲みなさい!飲めっ!」
語気を荒くして、女性は片方の手で少年の脇腹をつねった。微かに痛みの入り混じったくすぐったい感触に、少年が身を捩った。口が少しだけ開いた。女性はその一瞬を逃さずに、粉薬をねじ込んだ。少年は反射的に吐き出そうとしたが、女性の手で口を抑えつけられたので、叶わなかった。身体全体を硬直させて、薬に口腔内のどこも触れない様に頑張ったが、薬は徐々に溶けて広がっていった。口の中を支配する甘ったるい味に少年はうめいた。だがそれも長くは続かず、体力も尽き、薬も効いた少年の顔の筋肉が弛緩し、瞼がとろんと閉じられた。女性は意図せず止めてしまっていた息を吐くと、スプーンを少年の口から抜いた。傍らに目をやると、お盆の上にはまだ半分以上残っている粉薬があった。もはや溜め息を吐く気にもならないまま、スプーンをお盆に置き、中途半端に水を吸い取らせただけのタオルを何度も布団に押し当て、絨毯に押し付けた。濡れた汗拭きだったタオルを見、布団の上、うつぶせで、静かな呼吸での体の上下以外、微動だにしなくなった少年を見ると、トレーナー型の寝間着の上下はすっかり汗の染みだらけになっていた。
「替えないと…」
女性は独り言をつぶやきつつ、タオルを床に起き、はたと気付いた。少年が数日間この状態のため、寝間着と下着の替えは底をついていた。洗濯はしているものの、まだ乾かない。今は大人しく眠っているが、少年を一人置いて買い出しに出るなど論外である。下着は仕方が無いが、寝間着の代わりに出来るシャツの類いはある。取り敢えずそれだけでも替えるべく、シャツを箪笥から出すために立ち上がりかけたところで、女性の視界が揺れ、直後、暗転した。
…聞こえる?
その声は、四方を怒鳴ったり詰ったり、悪態をついたりする壁に囲まれた少年が、耳を両手で押さえて目を瞑り、突っ伏している時に、聞こえた。四方が壁なので、聞こえてくるなら上か下かである。少年は薄目を僅かに上げて上を見、下を見たが、何も無い。左右を見回したが、壁ばかりである。
…聞こえる?
もう一度聞こえた。大人の声ではない。少年と同じくくらいの年齢の、恐らくは男の子の声だった。同時に壁が怒鳴りつけて来たので、少年は再び目をきつく閉じると、訳も分からないままうなずいた。少年は、自分ではうなずいたと思っていたが、現実では、畳の上に敷かれた布団の上、横たわって意識がない少年の、血の気のない顔の口元の皮膚が微かに震えただけだった。
…ケンタくん、大丈夫そうかい?
…うん。大丈夫だよ、これなら。
嗄れた、老婆とも老爺とも取れる声が聞こえ、続けて先程から聞こえている声、ケンタと呼ばれた少年の元気な声が応えた。
「なら、移す、よ。しっかり、ね。大丈夫。すぐに、我らの導き手が、落してくれるから」
「大丈夫だよ」
若干、心配そうな嗄れ声に対して、ケンタ少年の声は底抜けに明るかった。と、不意に、壁から投げかけられる声のせいで、ぼんやりしていた頭の中に、冷たい水を差されたような清涼さが走り、はっとして少年は顔を上げた。少年を取り囲んでいた壁は、透明度の高い硝子の様になっていて、もはや声を上げていはいなかった。その透明な壁も、少年の目の前でばらけて光の粒子になり、辺りに漂った。辺り一帯は暗く、良く見ると、壁が変化した以外にもきらきらと輝く粒が散らばっていた。その輝きを分けて、身を起こした少年の眼前に小さなラッコが中空を滑る様に移動して来た。可愛らしい顔のラッコは、不思議そうに少年を見、小首を傾げると、どこかに行ってしまった。去っていくラッコが、小さくなっていくにつれて、少年はゆっくりと眠気を覚えた。一度は起こした体をその場に横たえると、大きく息を吐いた。横になると地面があるのかどうかが分からなくなった。ふわふわと宙に浮いているような心地良さがあり、眠いのに、不思議と冴えた気分だった。瞳を閉じると、より一層気分が良くなった。
蒼白だった少年の顔にゆっくりと赤みが差して来るのを確認して、嗄れ声の持ち主が微笑んだ。
熱が下がって元気を取り戻して数日後、少年は、嗄れた声の持ち主とは再び会うことが出来た。だが外見を見ても、老婆なのか老爺なのか判断が付かなかった。ただ一言、お礼を言わされただけで、少年は祖母の家の奥深くの部屋に戻された。少年の祖母と、もう一人、祖母と同じくらいの年の中年女性、嗄れ声の持ち主の三人が玄関先で話しをしている。
…もう、大丈夫。
…うちの子は…あの、もうひとりの、あの子は大丈夫?
…あれは、そういう子だから、心配要らない。
数枚の扉と壁を隔て、途切れ途切れに交わされる会話が聞こえて来たが、少年には何のことかよく分からなかった。ただ、あの嗄れ声の持ち主にお礼を言わなければならないのであれば、もう一つの声の主にもお礼を言わなければいけないのではないかと、子供心に気に掛かった。もっともそれも、数日の間に忘れてしまった。それよりも、元気になったのに、家に帰れず、幼稚園にも行けず、何より母親と会えないことの方が重大事だった。祖母や父親に尋ねると、困った顔で母親は病気になって病院にお泊りしているのだと説明された。少年は、何度か母親の不在に泣いたが、ある日、母親は夢に出て来て少年をあの怒鳴りつける壁の中に閉じ込めようとした。壁の内側には、以前より沢山の怪物がいた。少年は泣き喚いて抵抗したところで目が覚めたが、それきり母親のことを考えるのを止めてしまった。また怖い思いをしたくはなかった。




