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祝祭  作者: のっぺらぼう
10/22

#10

人影らしきものを認識すると同時、テントを倒す勢いで、星哉(せいや)は出入り口を引き開け外に飛び出した。途端、雨粒が顔を打ち、寒風が全身に吹きつけた。普段であれば不快に感じるだろうが、今の星哉には些事だった。スマートフォンの懐中電灯アプリから発せられる明かりに気が付いた人影が少なくとも二つ、坂道の下から、テントに向かって駆け出して来るのが分かった。反射的に、人影が迫り来るのとは逆方向、坂道を上る方に、足を向けたが、すぐに斜めに方向転換し、宗教施設の門扉と逆側の、道から外れた樹々の生い茂る山の中に飛び込んだ。とにかく何も考えず、ただ下に下にと下るべく、濡れた下草と木の葉を踏みつけ、樹々の合間を縫って足を動かす。跳ねた雫や揺れる枝葉が首筋に触れる度、誰か、もしくは何かが追いついて、触れたのではないかとの想像が駆け巡り、心臓が跳ね上がった。普段、電車に乗り遅れそうなとき喰らいにしか走ることの無い星哉の耳は、あっという間に脈打つ己の心音に支配され、それに四方八方から響いてくる風雨の音が重ねられていた。

どれくらい走ったのか、完全に距離も時間の感覚も失われていた。ただ心臓はもう口から飛び出して来そうなほど大きく速く打っていて、脚は感覚が失われるほどに疲労していた。立ち止まり、休息をとるべきか、星哉の頭を(めぐ)らせ、同時にその考えに気を取られた分、注意力が目減りした。それまで鋭敏に周囲を(うかが)っていた全ての感覚が(わず)かに鈍り、足元への注意が(おろそ)かになった。星哉の足が、ずるりと濡れた木の根に滑った。

「…っは!」

荒い息は悲鳴にもならなかった。足に力が入らず、体勢を立て直すことが出来なかった。盛大に転んだ星哉は、それまでしっかと抱えていた荷物と、片手に持っていたままだったスマートフォンを投げ出した。星哉の体は二三度土の上を転がり、地面に埋もれていた大きな石で背中を打ち、立ち木に脇腹をぶつけて止まった。揺れた木の上から大粒の水滴が落ちて来て全身に降り掛かった。星哉は背中を打ったのと、これまでの過激な運動の反動ですぐには動けず、荒い、大きな呼吸をただ繰り返した。背中に、泥と化した地面の水分が触れ、全身が汗だくにも関わらず、凍えるような寒気を覚えた。たとえ休息するにしても、この体勢が不適切であることははっきりしている。痛む背を(かばい)いつつ、必死で寝返りをうち、両手をついて座り直しかけたところで、風に揺らされるのとは明らかに違う、何かが背の低い灌木(かんぼく)を押し分けるような、力強い、枝葉の()れる音が星哉の耳に飛び込んで来た。星哉は不自然な体勢のまま硬直した。数拍遅れてもう一つ、小さめな、ぐしゃりという木の葉と下草、土を踏みしめる音に気が付いた。星哉の全身が総毛立った。雨水と泥と汗の混じったものが顔を伝って地面に落ちた。また、ぐしゃりという音がした。明らかに、先程より大きくなっている。星哉は息を(ひそ)めたまま、音を立てない様に(わず)かに顔と眼球を動かして音の聞こえてくる方角を見やった。と、辺りを(ほの)かに照らしている光が(かげ)った。その光が、立ち上げたままだった星哉のスマートフォンの懐中電灯アプリの光で、何かが、その光を頼りに近づいて来ていて、今、正にスマートフォンを手に取ったのだと、木の間から切れ切れに見えた。何か、は、全身が灰色の二足歩行の人影で、手は手袋をはめているのか、指が太かった。頭部に当たる部分はすっぽりと頭巾のようなものに覆われていていて、目がある辺りは黒い影になっている。背丈はそれほどないようだった。星哉側からは光が目印になることもあり観察することが出来たが、向うからは、間に生えている幾本もの太めの木の幹に(さえぎ)られ、星哉が見えないようだった。星哉が固まったまま木陰で息を殺していると、その頭上数十センチのところを光が走った。何かは、スマートフォンの光で照らして辺りを探っていた。

そのとき、星哉が悲鳴を上げかけ、必死で抑えたのは、光に驚いたからではない。人影が体を半回転させたために、それまで陰になって見えていなかった片方の肩に、以前星哉が飲料水用ポリタンクの上にいるのを見た、あの猿のようなものがいるのを見留めたからだった。

人影は、明かりを(かか)げつつ、少しずつ移動していた。星哉も、思いかけず視界に入って来た猿のようなもののために動機が収まらない心臓を(なだ)めつつ、常に人影と自分の間に幹の目隠しがあるよう、四つん()いのまま、少しずつ体をずらした。雨と風で巻き起こされる音が周囲を取り巻いているにも関わらず、脳内に反響する己の呼吸音と心音が、体外にまで聞こえてしまうのではないかと恐々としつつ、星哉は身体を山を下る方向に向けた。人影はまだ星哉に気付いていない。このまま、(ふもと)に向けて一気に駆け出すべく、それまで凝視していた人影から、少しだけ視線をずらしたとき、星哉は気付いた。人影の近く、胸元辺りの高さに、小さく丸い金色の光が二つある。まるで暗闇で光る獣の瞳のようだ、と思った瞬間、大きな犬のような四つ足の何かがそこにいるのだと星哉は理解した。

「ひっ」

猿のようなものを見留めたときは抑え込んだ悲鳴が今度は漏れた。同時に、転がり落ちる勢いで、星哉は山を駆け下り始めた。頬を何かがかすめた。人影が小石を投げつけて来たのだが、そのようなことまで気に留める余裕は無く、星哉は走る方角を(わず)かに石がかすめたのとは逆方向にずらして、闇雲に走った。と、黒い大きな塊が、一瞬前まで星哉のいた位置の延長線上にある木にぶつかった。巨大な犬のようなものが飛び掛かって来たのだと、理解したのは少し経過してからだった。星哉はもはや叫び声を抑えることも無く、やたらにわめき、死に物狂いで右に左に折れ、走った。脚がもつれ、何度も転びかけ、木にぶつかり、打撲や()き傷をつくる。水滴が散り、泥が跳ねた。

星哉の走る速度を制限している生い茂る樹々と足場の悪さは、同時に追っ手の動きも阻害しているようで、それ以降、犬のようなものが迫り来ることはなかった。いつの間にか星哉の周囲の樹々の量は増えていた。樹々の間を走るというより、途切れない樹々で体を支えて、一歩一歩進んでいる、といった(てい)である。足を引きずりつつ、それでも止まることがないのは、後方から一定の距離を置いてしっかりと聞こえてくる、ぐしゃりぐしゃりという足音のせいだった。時折、周りの樹々がただの黒い影になり、歪み、分裂して、四つ足の獣のような姿をとったり、猿のように別の木に飛び移ったりしているように感じ、星哉はその度に悲鳴を上げ、口を押えて、息を整えるということが続いた。冷たい外気を受けているにも関わらず、星哉の顔と首筋には延々と汗が吹き出ていて、口に手をやるたびに、汗が手に伝って袖口に流れた。

山を下っていた筈だったのに、平らな地面を歩いている気がして、星哉は足元に目をやったが、暗くてよく分からなかった。二三歩横に動いて、いつの間にか傾斜が無くなっていることを確認すると同時、当惑して立ち止まった。その瞬間、星哉の視界は突如真昼のように明るくなった。というより、良く晴れた日中になっていて、星哉は山奥でも樹々の間でもなく、見慣れた会社のビルのエントランスに立っていた。

「へっ?」

荒い息と間抜けた声が混じったものが漏れた。

「おはようございます」

聞き慣れた朝の挨拶が横手から聞こえた。そちらに顔を向けた星哉は、セーラー服姿の綾乃(あやの)と目が合った。綾乃は受付で、立ち止まっている星哉を追い抜かし、出勤してくる社員たちを笑みと会釈と共に出迎えていた。しっかり首から社員証も下げている。星哉は疲労で覚束(おぼつか)ない足を動かし、受付の前までよたよたと歩き、机で体を支えつつ、口を開いた。

「あ、綾乃さん」

「いいえ」

「え?あの…」

「いいえ」

「…」

「いいえ」

綾乃は微笑みつつ、同じ言葉を繰り返した。段々とそれが、こだまの様な反響に変わり、星哉は思わず耳を(ふさ)いだ。綾乃の姿が()き消えた。周囲が暗転した。星哉が二三度(まばた)きする間、風が吹き抜け、濡れた顔と首筋を冷やした。常夜灯の薄暗い光の中、星哉は自分が立っているのが、例の宗教施設の金網の引き戸の前だと気付いた。前に見た時は(かんぬき)と南京錠で閉じられていたものだが、今は開錠され、開け放たれている。そして眼前には灰色の人影が一つ、銃のようなものを構えて立っていた。左右に一人ずつ、更に後ろに一人、早い話し、星哉は四方を灰色の人影に囲まれていた。

「おかえりなさい」

眼前の人影がくぐもった声で、言った。

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