#01
新入学した学生たちが一年目の折り返し地点を迎え、企業では秋口の人事異動が完了して一息吐いた頃。鈴村星哉、三十五歳、男、独身、会社員、は、逸る気持ちと高鳴る心臓を抑えつつ、各駅停車しか走っていないローカル線の無人駅に降り立った。とにかく小さな駅で、改札口を出ると視界に入るものは、白線の番号が削れてしまって読めない数台分の駐車場、トタン屋根の駐輪場、風が吹きつける度に、ぐらぐらと安定していないコンクリートの土台ごと揺れている、錆の浮いたバス停だけだった。
星哉は迷うことなく、そのバス停の前に立った。バスを待つのではなく、そこが指定された待ち合わせ場所だったからである。バス停に停車するバスは一路線だけ、しかも一日一本だけで、既に発着済みなことは確認してあるので、乗客と間違えられるようなこともない。バス停の傍らに立つと、背負っていた大きめの赤いリュックサックを下ろして、スマートフォンを取り出し、待ち受け画面を眺めた。表示されているのは、自身ともう一人、肩に掛かる黒い髪と長い睫毛を持ち、セーラー服を着た女性が共に写った写真だった。待ち合わせの相手であるその女性、綾乃の事を思い、抑えきれない笑みが、星哉の口元に浮かんだ。
星哉が、綾乃と出会ったのは、出会いの場所としては一般的ではない場所、幼稚園であった。何故、独身で子供がいるわけでもない星哉がその場所にいたかというと、星哉の勤務先の営業担当者から、お得意様の子供が通う幼稚園のパソコンの具合を診て欲しいと頼まれたからである。星哉は、仕事がいわゆる社内SEで、趣味でパソコンを組み立てるほどの手練だった。出来るだろう、と、ひどく簡単に言い放たれて内心良い気分はしなかったし、無賃労働は御免というのが偽りない心情だったが、依頼して来た営業担当者が優秀で、つまり会社として星哉より余程貴重な人材で、少々の無理は聞いてやれ、と上司に面倒臭そうに、これも言い放たれて、星哉は貴重な休日を潰されたのである。だが、見返りは大きかった。その幼稚園に訪問したのは土曜日だったのだが、ちょうど翌日に控えたバザーの準備をしていて、ボランティアで綾乃が来ていたのだ。
綾乃は幼稚園の近所に住む女子高生で卒園生、時間があるときには手伝いに来ている、とはその日の昼食時に聞いた。調子の悪いというパソコンは旧型で、単に色々と余計なものが溜まっていて動きが鈍くなっていただけだったので、それらの削除を開始すれば、星哉がすることは終わるのをただ待つだけで、暇だった。だが、かといって、隣の教室、綾乃や他のボランティア、保育士に園児の若い母親たちが値札を付ける作業をしていて、ときどき高い声が聞こえてくる教室に、しれっと入り込める能力などなく、星哉は一人、職員室のパソコンの前でスマートフォンを弄っていた。予想より削除に時間が掛かり、昼食の用意などして来なかったにも関わらず昼時になり、隣からは持参した弁当を広げているのであろう音が聞こえて来て、窓からは、席を外して近所のスーパーの袋を片手に戻って来る母親たちが見えたりしていたが、星哉は存在を忘れられていたのか、保育士たちすら声を掛けて来なかった。ただ、スーパーでの買い出しから戻って来た際に、綾乃だけが気付いてくれたのだった。
それから、どういうわけか、連絡先を交換して、学校のパソコンの授業で分からないところがあると、二三度、連絡を受け、返事をした。そして、出会ってから一月になるかならないかといった先日、深刻そうな物言いの相談を受けた。
綾乃の母親は、綾乃が中学一年生の時に亡くなり、父親は綾乃が高校入学したときに再婚をしている。そう聞かされた時、すわ、その継母から、酷い扱いを受けているのかと、星哉は一瞬熱り立ったが、事は全く違った。継母との関係は良好なのだが、継母は一度離婚しての再婚で、一度目の結婚のときに、男の子を一人産んでいる。しかし、前夫と前夫の実家が新興宗教に毒されてしまい、息子も強制的に入信させられ、それに反対した継母は追い出されてしまったということだった。継母は、前夫に未練はもちろんないが、結果的に置いて来てしまったその息子のことが心配で、時折、落ち込む事があった。そして最近、その新興宗教に色々と問題が発覚し、身内や親族の脱退を求めた被害者たちが団結して、関連施設の前で座り込みをしていることを知り、継母も参加を決めた。なので、その座り込みに参加してくれないか、そういう相談だった。
全てを聞き終わる前から、ややこしいこと限りない話しに引いていた星哉だったが、潤んだ目で見つめられ、短期間、数日だけ、と懇願されて、承諾してしまった。時期に関わらず、とにかく有休を取ろうとすると、それはそれは嫌そうな顔をする上司に有給休暇届けを出し、判を貰うと、今日、ここまでやってきたのだった。座り込みを展開している施設は、この無人駅から更に自動車で三時間以上掛かるような辺境にあるそうで、旅程を考えると気が滅入らないではないのだが、一方、その間、綾乃と一緒にいられると思うと、心底浮き足立った。
手元の液晶画面に目をやっていた星哉は、響いて来た自動車の走行音に気が付いて、顔を上げた。白いセダン型の乗用車が、こちらに向かって来ていた。乗用車がバス停の前に止まると同時、後部座席の扉が開いて、綾乃が飛び出して来た。セーラー服ではなく、ベージュとピンクの混じったニットに膝丈の白いフレアスカートという出で立ちだった。
「うれしい!本当に来てくれたんですね!遠いところだから、途中で帰っちゃうんじゃないかと思ってました!」
弾ける様な笑顔で言われて、星哉は顔を赤らめ視線を逸らしつつ、そんなことはない、と口の中でつぶやいた。
「じゃあ!よろしくお願いします!」
星哉はそのまま、扉が開いたままの後部座席に導き入れられた。星哉は当然、綾乃が続けて乗り込むものと思い、奥に詰めようとして、先客に気が付いた。金髪のまだ若い男が後部座席の奥にいて、車内で中腰になっている星哉を無言で睨んで来た。ぎょっとしつつも反射的に会釈をした星哉だったが、金髪の男は鼻を鳴らしただけだった。星哉が訝りながらも座席に腰を下ろすと、誰もいない助手席が目に入った。綾乃はそちらに乗るつもりだと思い至り、手を伸ばして取っ手を引いて扉を閉じた。と、乗用車は間髪入れずに流れる様に動き出した。驚いた星哉が、体全体で振り返りつつリアガラス越しに外を見ると、満面の笑みと共に、手を大きく振る綾乃が見えた。
「あんたさあ…」
呆然としている星哉の耳に低い声が聞こえた。星哉は一瞬、身を震わせて横を見た。座席に飛びついた幼児のような不安定な体勢で、声を発した金髪の男を見た。
「誰?」
「え、あ、鈴村、と言います」
「ふうん」
聞いておきながら、返って来たのはまるで気のない返事だった。
「あの、あなたは?」
気分を害しつつも、それを表に出すだけの度胸のない星哉は、出来るだけ丁重に尋ね返した。
「俺?俺は、真下。真下慶斗。他の奴らはケイトって呼ぶ。綾乃のカレシ」
「…はい?」
星哉はもちろん、彼氏、という単語の意味は知っていた。が、脳が理解を拒んでいた。
「はあ?聞こえなかった?ケ・イ・ト」
「ああ、はい」
金髪の男の名前など、どうでも良かったのだが、取り敢えず星哉は曖昧に濁すと、座り直して座席に体を埋めた。窓の外、景色はどんどん流れている。慶斗と交わした短い、会話とも言えない会話の間に、建物らしい建物のない、田畑と電柱、思い出した様にひとかたまりで生えている樹々以外何もない郊外にまでやってきていた。星哉は突如、綾乃が、彼氏がいないなどととは一度も言っておらず、今回、同行するとも一言も言っていないことに、気付いた。今更だが、深く、大きな溜め息が出た。