第91話 「闘神」対「黒猫」
誰かが来た? 私は石畳に座り込んだまま辺りを見渡したが、人の姿は無い。皆、面倒を避けるために道を変えたのだろう。ただ、すぐ近くの曲がり角の向こうから、ドカドカと石畳を蹴る足音が聞こえてくる。
「おうおうおう! ケンカか? ケンカ!?」
怒鳴るような大きな声。曲がり角から現れたのは――――
「あん? お前、リサデルじゃねえか」
「メッツォ? なに、その恰好……」
十年来の親友は、その鍛え上げた巨躯をダークカラーのスーツに押し込むように着込んでいた。
「あぁ、こりゃあ、子供の授業参観の帰りでな……って、どうしたその顔? 殴られたのか、その女に?」
私は慌ててディミータに叩かれた頬を隠すように手で押さえた。「あ、これはね……」
メッツォは、私の声が聞こえなかったのか、それとも聞くつもりも無いのか、剃り上げた頭を天辺まで赤くして、ディミータに向き直る。
「おい、お前も女だったら、女が顔を殴られるって、どういう事か分かってんだろうが」
「あはっ、小狡い女にお仕置きしてましたの。何か問題ありまして?」
「ほう、俺の親友を『小狡い女』呼ばわりするか」
女性にしては長身のディミータの、更に頭二つ分は上背のあるメッツォが首を、ごきりと鳴らした。不機嫌な時の彼の癖だ。
「闘士科教官メッツォ。魔導院武術大会三連覇。百人組手を二時間足らずで完遂。火竜を素手で絞殺した逸話を持つ、魔導院屈指の闘士」
散文詩を暗唱するように、メッツォの経歴を諳んじるディミータ。メッツォの形相が変わる。
「……手前ェ、何者だ?」
「男の子と女の子の、双子のお子さんをお持ちよねぇ。あはっ、奥さん大変ね」
私の足よりも太い剛腕が唸りを上げて、ディミータの細い首を薙いだ!
ディミータはふわりと後ろに飛んで、その棍棒の一振りのような攻撃を避けた。
「ちょ、ちょっと二人とも! こんな往来で止めなさい!」
火花が散る様な視線を空中で交錯させる二人には、私の制止なんて一切耳に入らないようだ。
「ねえ、その女の顔を一発殴ったくらじゃあスッキリしないのよぉ。楽しませてくれる?」
ディミータは、石畳に両手を突いて猫のように四肢を伸ばした。
――なんで挑発するの!?
「後でリサデルに土下座で謝ってもらうぜ。顔は勘弁してやるから安心してボコられろ」
太い首に食い込むネクタイを緩めながら、メッツォが言った。
――なんで挑発に乗るの!?
「ふぅん……面白い。闘ろうか!」
しなやかな動作で立ち上がったディミータが叫び、武術の構えを取ったメッツォに跳びかかった!
大人と子供ほど体格差のある二人では、格闘に関しては素人の私でも圧倒的にメッツォに分があるように見えた。だが、猫科の猛獣のような雰囲気を持つディミータには、底の知れない不気味さを感じる。
獲物を狩る獣の様な低く速い跳躍。しかし、ディミータは、メッツォの手前の中途半端な位置で急停止し、くるりと無防備に背を向ける。
腕を十字に交差させ、防御姿勢を取ったメッツォが、虚を突かれたように一瞬たじろいだ。
――あのスピードからのフェイント!?
傍から見ている私ですらも惑わせるテクニック。
届くようには見えない距離からのディミータの左回し蹴りが、メッツォの大腿部にめり込んだ。
がくり、と膝を折り、姿勢を落としたメッツォの延髄を、叩き降ろすような右の踵が襲う。
前回り受身で致命的な一撃を避けた巨体の後を追い、ディミータが跳び込んでいく。鞠を追いかける子猫のような弾む動き。
前転から即座に立ち上がったメッツォのカウンターを狙った蹴りは、再び急停止したディミータの眼前で虚しく空を切る。
蹴りを放った後の、僅かな姿勢の乱れを逃さないディミータの追撃。
ディミータの細い腕が左右連続でフックを放つ。空気を切る音が後から聞こえる。目では追い切れないほどの攻撃にメッツォは防戦一方に追い込まれた。
「ぐうぉお! くそぅ、なんてこった!」
手数に圧倒され、壁際に追い詰められたメッツォの巨体がぐらりと横へ傾ぐ。そして踏ん張った。
その動きは、体勢を崩したメッツォに、更なる追撃を仕掛けようとしたディミータの無駄な攻撃を誘う。
ぐおん、と唸りを上げた剛腕が、前掛り気味に押し込んでいたディミータの腹部を薙ぐ。私の目には、ディミータが吹き飛ばされたようにも見えたが、どうやら素早いバックステップで躱していたようだ。
「いやぁーん。掠っただけでこの威力ぅ。興奮してきたぁ」
熟練の大道芸人のように鮮やかな後方転回を決めて距離を取ったディミータは、くびれた細いウエストを摩りながら、艶めかしい表情で微笑んだ。
「この、ドラ猫がぁ! 今日の為に誂えたスーツが台無しじゃねえか! 嫁に叱られるだろうが!」
「そんな事、私の知ったこっちゃ無いわ。ねえ、本気で来てェ」
傷んでしまったスーツの袖を引っ張りながら毒づいたメッツォに、ディミータは腰をくねらせ扇情的なポーズで答えた。その妖艶な動きは、同性の私でも見惚れてしまうほどだ。
「おぉ、やだやだ。お前、どんな育てられ方したんだよ。俺が親ならブン殴ってるぜ」
スーツのボタンを外しながら、幅の広い肩を竦めてメッツォがぼやいた。
「うふふ。じゃあ、ブン殴ってみてぇ。でも……私に当てられるかしら?」
すうっ、と背伸びしたディミータが膝を落として身構える。その姿を見てメッツォは、「やれやれ」と呟きながら背広を脱ぎ捨てた。
「女だからって甘く見たのは謝る。こっからは手加減無しだ。俺の流儀で行かせてもらうぜ」
どおん! と地面が揺れたと錯覚するほどの豪快な踏み込み。メッツォは、その無骨な風貌からは想像し難い流麗な動きで武術の構えを取った。
「ドラ猫、特別に見せてやるぜ。『六華六陣』の構えを」
闘士は無手で闘う為に攻防を効果的にする、「陣」と呼ばれる「構え」を取るとメッツォに教えて貰ったことがある。
ディミータを相手にメッツォが取った構えは、七つある構えの「第六陣」。それは、強敵と遭遇したときにしか使わない必殺の構え。
呼吸を整え、東洋の闘神像のように構えたメッツォの全身に力が漲るのを感じる。それは、魔術師が高位の魔術を発動させる直前の緊張感に似ていた。
「だらあぁあ!!」
突撃の合図のようにメッツォが叫び、動いた。その動きは緩慢に見えて歩幅が大きい分、信じ難い速度だった。
右ストレートがディミータを襲う。何の工夫も無い攻撃。ただ、速さだけが異常。
即時反応して左に流れたディミータの脇を、大型弩砲のような一撃が突き抜ける。標的を捉え損なった拳が灰色の壁を打ち崩した。
がらがらと音を立てて、堅牢なはずの錬金煉瓦の壁が積み木の城のように脆く崩れたのを、私は信じられない気持ちで眺めた。
右肩を押さえて反転したディミータが、手を使わずに側宙で距離を取る。その着地を狙ってメッツォが間を詰めた。
着地を狙ったメッツォの大振りな蹴りを、後転で避けるディミータ。その後を追って高く上がったメッツォの足が、ディミータの背中を目掛けて踏み下ろされる。
咄嗟に身を投げ出すディミータ。一瞬遅れて落ちてきた足底が石畳を叩く。
ドゴォン!
今度こそ地面が揺れるどころか、踏み下ろした先の石畳には、重たい鉛の球でも落としたかのように大きな穴が空いた。
壁際まで逃げたディミータが一跳びで壁の上に立つ。その顔からは笑みが消えていた。
「……素敵ね。特務機関の隊長とも良い勝負が出来るんじゃないかしら」
「ふん、良く避けたな。だが次で仕留める。安心しろ、全治二週間ってトコで勘弁してやる。土下座は退院後で良いぜ」
ディミータがふいに壁を蹴り、しなやかに宙に躍り出る。音の無い静かな跳躍。迎え撃つメッツォは、再び「第六陣」の構えをとる。
人間族では到達し得ない高さから、一本の黒い矢のような蹴りがメッツォの頭部を一直線に狙う。だが、闘士は避ける素振りすら見せない。
「メッツォ! 危ない!」
だが、私の警告は教官陣でも最強と噂されるメッツォには必要なかった。
メッツォは、煉瓦を砕くほどに鍛え上げたその額を、ディミータの蹴り足に叩きつけた。尻尾を踏まれた猫のような悲鳴が上がる。
崩れた姿勢で着地したディミータに、メッツォは身体を半回転させ、その鍛え上げた背中を激しく叩きつけた。
ルルティアのクローゼットにも匹敵する巨体の体当たりを受け、ディミータの細い身体は、石畳の上を何度も転がりながら煉瓦壁に激突して止まった。
「ちょっ……メッツォ! やり過ぎでしょう!」
若い女性に対して、あんまりと言えばあんまりな攻撃に、私は思わず声を荒げた。
「そんな玉じゃねぇよ、その女は。だいたいよ、お前はどっちの味方だ」
倒れたまま動かないディミータに駆け寄る私に、メッツォが呆れたような声を投げかけてきた。
デリカシーの無い親友に向かって、「どっちの味方って……」と、言いかけて振り返った瞬間、背中に人の気配を感じた。
「さすがは『闘神メッツォ』の二つ名は伊達じゃない。でも――――」
素早く背後に回ったディミータが、私の身体を背中から抱きすくめ、「こういう事には慣れてない」と妖しく嗤った。
「て、手前ェ! 汚えぞ!」
怒声を上げて、こちらに駆け出そうとしたメッツォの足が止まる。
背中から回されたディミータの手が、優しく私の頬を撫でる。しなやかな指が、鋭い爪が、肌の上をなぞる。全身が総毛立った。
「……わ、私をどうするつもりですか」
ディミータは問いには答えず、私の身体を左手で抑えたまま、右手をいきなり私のスカートのポケットに手を突っ込んだ。
思わず、「ひゃあ!」と短く悲鳴を上げた私に、ディミータは「飴、一個もらうね」と言い、ポケットから手を引き抜いた。その手にはライトグリーンの飴が一粒。
「これ、良い匂いね。さっきから気になっていたの」
私が良いとも悪いとも言わないうちに、ディミータは飴を口に放り込んだ。
「やっぱりキャットミントが入ってる。ちょっと頭がふわふわしてきた」
そう言ってディミータは、私の背中を軽く突き飛ばした。
前に二、三歩よろめいた私の身体を、構えを解いたメッツォが受け止める。
「まったく何なんだ、お前? 敵か? リサデルのお友だちか?」
「お友だち? うふふ、お友だちって良い響きね。ところで、あと一分四十秒で……」
ディミータの猫のような耳がピクリと動いた。
「完全武装した六人が駆けつけるわ。それはお友だちかしら?」
「いや、そりゃ風紀委員だろ。多分」
「そーよねぇ。じゃあ、私はこれで。メッツォさん、ストレス発散に協力してくれてありがと。感謝するわ」
はあ? と、顎を突き出したメッツォと、え? と、首を傾げた私を後目に、ディミータは崩れた壁の向こうに姿を消した。
「何だ? 何分何十秒って言ってたか?」
「一分四十秒だって」
「逃げた方が良い……んだよな?」
「ど、どっちに逃げると正解なの?」
私は見知らぬ場所に来てしまったように、きょろきょろと路地を見渡す。
メッツォはどちらに逃げようか決めかねて、右に左にウロウロしている。
「メインアベニュー方面に逃げると良いわ。残り時間は、あと一分。うふふっ」
突然の頭上からの声に身体が、びくっとした。見上げた壁の上にはディミータが立っていた。
「最後に一つだけ。風紀委員会の上層部は山王都とズブズブよ。特に公安課のトップなんて、聖女王の熱烈なファンだったりして。公安のトップが右翼思想なんて、寒い冗談よねぇ」
傑出した軍事的な才能と、圧倒的なカリスマで山王都を支配する第一女王アグレイア。
大陸最大の勢力を誇る軍団と、真紅の聖衣を羽織る大陸最強の騎士団、「山王聖堂騎士団」を率いる「聖女王アグレイア」には、熱心な信奉者が多い事でも知られている。
ディミータは、この女性は、何を、どこまで知っているのだろう。
「山王都はともかく、公安二課は、あなたの正体に薄々感づいているわ。自由になりたいなら、とっとと『計画』を進めなさい。特務機関からも人員寄越すから好きに使って」
そう言い残して、ディミータは壁の上を野良猫のように軽快に走り去った。
「なんだか良く分からんが、メインアベニューに向かって逃げるのが正解か?」
太い眉を寄せたメッツォに頷いて見せた時に、私たちが逃げるべきメインアベニューとは逆の方向からガシャガシャと金属のぶつかり合う音が聞こえ、「いたぞ! あいつらだ!」と声が上がった。
「やっべぇ! リサデル、逃げんぞ!」
「ちょっと! 置いていかないでよ!」
重そうな見た目に反して、歩幅の大きいメッツォは走るのが早い。
一日のうちに、こんなに走る事になるなんて……スニーカーを履いてくれば良かった。本当に。