第86話 私は夢を見ている
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足元から聞こえてくる雷鳴にも似た轟音。
馬車が壊れてしまいそうな激しい振動。
二頭の馬が曳く馬車は、限界に近い速度で疾走しているようだった。
――――あぁ、私は夢を見ている
座席の下で大きな音がする度に、身体が跳ね上がった。何かに掴まっていないと、馬車の天井に頭をぶつけそうになる。
馬車が揺れているのか、自分の身体が震えているのか、その時の私には判断が付かなかった。
――――また、あの夢を見ている
「王女様、ご安心下さい。私が命に代えても御守りいたします」
そう言って、私の身体を抱きしめてくれた年若い侍女の身体も震えていた。
いつも身の回りを世話してくれている彼女は、私の顔を覗き込んで優しく微笑んでくれていた。
――――もう、彼女の名前も覚えていない
「この森さえ抜ければ、すぐに魔導院ですよ。そこまで逃げ切れば追手も諦めます。ですから、もう暫くのご辛抱を」
侍女は、私を胸に抱きながら窓の外を窺った。私も彼女の視線の先を追ったけど、そこには黒い板が張られているのかと思うほどの、べったりとした暗闇しか見えなかった。
揺れる車内の天井に吊るされた魔陽灯の橙色の灯りだけが、唯一の救いに見えた。
――――でも、魔陽灯は嫌い。熱を感じない光には、嘘と偽善の臭いがする
バキバキと、足元で何かが砕ける音が聞こえた途端、天地が逆さになるような奇妙な感覚に襲われた。
「きゃああぁ!?」
身体が跳ね上がり、頭から天井に激突する。
全身を翻弄するあまりの激しさに、自分のいる場所が天井なのか床なのか、悲鳴を上げたのが私なのか侍女か、もう何もかもが分からない。
身体中の骨を砕くような衝撃と激痛だけが確かなものだった。
――――夢って不思議。自分の事なのに、他人事みたいな気持ちで見ていられる。
座席の隣にあったはずの扉が、今は天井にあった。身体を起こそうにも、あちこちが痛くて身動きが出来ない。こんなに痛い目に遭ったのは、乗馬の稽古中に落馬したとき以来だ。痛くて苦しくて涙が溢れてくる。
「王女様……お怪我は……」
苦しそうに顔を歪めた侍女の額からは、黒っぽい液体が流れているように見えた。
薄暗くて馬車の中が良く見えない。天井に下がっていたはずの魔陽灯はどこに行ってしまったのだろう。
車内は、私と侍女の苦痛の呻きと荒い息遣いしか聞こえなかったけど、馬車の外からは押し殺した大勢の声や馬の嘶きが聞こえた。
――――これから私は
ガタガタと馬車が揺れ、少し前までは扉だった天井が開いた。そこから姿を現したのは松明を持った男の姿。赤々と燃える松明の炎は、暗闇に慣れた私の目を眩ました。
ようやく目が慣れると、魔陽灯とは違う、熱を持った炎に照らされる真紅の鎧を着た男と目が合った。
「王女を確認した」
押し殺した小さな声だったが、不思議なくらいにはっきりと聞こえた。
私を護り、慈しみ、愛してくれた「真紅の聖衣」を羽織る騎士たち。それが今は、私を追いたてる猟犬の正体。
闇夜に浮かぶ真紅の騎士は、手にした松明で馬車の中を照らし、固く抱き合う私と侍女を覗き込んだ。
「これから任務を遂行する」
――――これから私は殺される
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コンコン、コンコンと、無遠慮なノックの音に我に返る。いけない、いけない。ちょっとぼんやりしていた。
「はい、開いています」
はっきりと言ったはずなのに、扉の向こうには届かなかったのか、ノックの音は続く。
「はーい、開いてますよ!」
コン・コン・コココン・コココンコン! と、ノックの音はリズミカルな調子になってきた。こんな事をするのは、あの子しかいない。
寮長室兼私室のドアを開けると、「おう! おはようリョーチョ!」と、いつもの調子でノーム族の少女が部屋に入ってきた。私を見上げる大きな瞳は、大地を連想させる健康的な色調。
「おはようモニちゃん。今日のワンピース、とっても良いね。似合ってる」
リネン素材かな。目の粗いアースカラーのワンピースは、ルルモニの髪の色と良く合っている。彼女は自分のチャームポイントを活かしたコーディネートが上手。私に無い服飾センスは良い刺激になる。
「これか? これは寝間着なのだ」
褒められて嬉しかったのか、ルルモニは丈の長いワンピースを翻してクルクル回りながら答えた。とっても可愛らしいけど、残念ながら寮長としては看過出来ない。
「ねえ、モニちゃん。今日は休日だけど、パジャマで寮内をウロウロしちゃダメでしょう」
「おお、そうきたか。リョーチョはまじめだな。ハセヴェみたいだ」
「ハセヴェって誰?」
ルルモニは、話題から逃げるように小さな紙片を差し出した。
「ほい、けさのぐあいのわるいひとリスト」
「ありがとう。うん……アリスとアゼリ、それからソレミアが体調不良で寝込んでいるのね」
ルルモニには、無理をいって寮生の健康観察をお願いしている。
彼女は小柄で愛らしい外見に似合わず、魔導院薬学科ではトップクラスの成績を誇る優秀な薬学師だ。その豊富な薬学知識は、寮生の健康維持に大いに貢献してくれている。
「モニちゃん、最近のルルティアの具合は……どう?」
「あんまりよくない。いま、セハトにたのんで薬のざいりょうをとりにいってもらってる」
「あぁ、新しく入寮した子ね。ボーイッシュなホビレイル族の子」
「ボーイッシュじゃなくてセハトだ。リョーチョ」
「……あのね、モニちゃん。私はリョーチョじゃなくて寮長、『りょ・う・ちょ・う』」
「ラ・オ・チュ・ウ?」
腕を組んで首を傾げる仕草も、いちいち可愛い。でも、どう聞いたら「寮長」を「老酒」と聞き違えるのだろう。
「それは東洋の強いお酒。あのね、寮長は役職の名称なの。覚えておいてね」
「ふあーい、わかったリョオチョオ」
「……まあいいわ。お酒と言えば、昨日の送別会で、こっそりお酒を持ち込んだ子がいるでしょう。体調不良って、まさか二日酔じゃないでしょうね?」
昨夜は、寮を出て魔導塔に移るルルティアの送別会をしたのだけれど、パーティーはいつの間にか「朝まで六英雄・女子座談会」になっていた。
女生徒にも六英雄好きの子が多いのは知っていたけれども、ルルティアの知識量と熱の入り様にはビックリした。彼女のお気に入り、「六英雄・銀髪の剣士」のエピソードを何度繰り返し聞かされた事か。そのせいもあって、今朝は寝不足でどうもぼんやりしてしまう。
「ルルティア凄かったね。普通、素面であんなに熱くなれる?」
「ねてたから、しらない」
「え? モニちゃん、ずっと笑いながら頷いていたじゃない」
「いいゆめみてた」
「……凄い特技ね。羨ましいわ」
ルルモニは嬉しそうに「まぁな」と、胸を張った。そんな特技があったらつまらない会議や中途入学の面接で役に立ちそう。
「ルルティアったら、あれは完全に『銀髪のソードマスター様』に恋してるわ」
「こい? ティアが?」
「そうねぇ。あれだけ頭が良いと、並の男性には興味が無くなっちゃうのかしら」
ルルティアは、その端麗な容貌と知的な雰囲気から、一部の男子生徒たちから女神の様に崇められている。その気になれば恋人なんて何時でも作れたと思うけど、彼女が特定の男性と並んで歩いている姿すら見たことが無い。
「恋愛に興味が無いわけでは無さそうなのにね」
ルルティアの口からは、浮いた話の一つも聞いたことが無い。他人の恋バナには矢鱈に喰い付いてくるくせに。
「リョオチョオ。ティアにはスキーなヤツがおるぞ」
「え? うそ? 本当に!? スキー、って好きってこと? どっ、どど、どんな人なの?」
あの子が好きになるくらいの男性って、それは「銀髪の剣士」のような、同性からも惚れられるような偉丈夫かしら? それとも、魔導塔の教授陣にも一目置かれるような俊英かも?
「あ、うぅ、うぅーん。ひとことでいうと『残念なオッサン』だ」
「ざ、残念? オッサン? ……どういう事?」
ルルモニは、心底悩むように右手で顔を覆った。いつも明るいルルモニが、そんなに悲痛な顔をするほど残念な男性? オッサンって、そんなに年上なの?
ルルモニは、俯いたまま額に手を当てて、「自分勝手で鈍感。口が悪くてネガティブ思考。女心の欠片も理解していないくせに女ったらし。オタクで糖尿気味で若白髪」と呟いた。
「ちょっ……そんなの嫌だぁ」
私が七年もかけて心血注いで磨き上げた宝石が、そんな男の手に渡るなんて許せない。断固として阻止せねば!
「しかも、そいつには他にオンナがいる」
「さ、最低……その男、学院の生徒なの? いや、年上ってことは院生? もしや教官とか!? まさか教授!?」
「く、くるしい、リョオチョオ。くびをしめないで。アイツは『ぶきや』だ」
「そう……『ブキャー』、って言うのね。名前まで嫌な感じ」
ちょっと興奮しすぎた。ルルモニの首から手を放して、とりあえず深呼吸。信仰する「生命の神」への感謝の祈りを口にして心を落ち着けた。
ルルモニは細い首を押さえながら、ふぅふぅ言っている。
「あっ、ごめんね、モニちゃん」
「うむむ、だいじょうぶ。あぁ、そうだ、『ぶらんけっと』だ」
「え? 何? ひざ掛けがどうかしたの?」
「リョオチョオ、『りさでる』って、しらないか?」
「なに言ってるの、モニちゃん。目の前にいるじゃない」
ええっ!? っと、大きな瞳をクルクルさせながら辺りを見渡すルルモニ。ノーム族の子って、みんな可愛くて面白い。
「ブランケットじゃなくて、ブランドフォード。リサデル・ブランドフォードは私」
「ちょっ、ちょっと、なにいってるか、わかりません」
「モニちゃん? 何をそんなに慌てているの?」
ルルモニは、「えらいこっちゃ」と呟きながら、頭を抱えて部屋の中をグルグルと歩き周り始めた。私の名前がどうかしたのかしら? 名前と言えば……
「そう言えば、あの子、今日、誰かと出かけるって言ってたわ。その相手がまさか、その『ブキャー』とかいう変な名前の男なの?」
「し、しらない。ひるごはんなんて、きいてない」
「……へえ、お昼食べに行くんだぁ」
ルルモニは、「あ、しまった」と、慌てて両手で口を押えた。そんなルルモニの小さな両肩を手で掴み、左右に泳いでいる茶色い瞳をしっかりと見据えた。
「聞いて、モニちゃん。私ね、ルルティアが十三歳でお母さんを亡くしてから、ずぅーっとルルティアの傍にいたの。本当はね、魔導塔なんかにも行かせたくないの。分かる? 私のこの気持ち」
「め、めがこわい。あのな、『ぶきや』は、そんなにわるいヤツじゃないぞ。そ、そうだ。やらしい、あいつはやらしいんだぞ」
「やらしい!?」
「ち、ちがった。やさしい。みんなにやさしい」
「いるよね、誰にでも優しい男って。昔、付き合ってた男もそんな感じ。あー嫌なこと思い出した」
「あの、まあ、おちついて」
生きる意味を与えてくれたのに、私を見捨てた男。
人を愛する喜びを教えてくれたくせに、私をひとりぼっちにした男。
生きているのなら、どこで何をしているのだろう。
甘くて苦い思い出が、ほんの少しだけ頭の片隅に過ぎった直後、「どぉおん!」と、不穏な音が上の階から響いてきた。遅れてガラス窓が微かに揺れる。
「おぉう! なんだ? ばくはつした?」
「またやった……寮で錬金実験はしないで、って何度も言ったのに!」
天井を見上げて、睡眠不足の頭をグシャグシャと掻き回した。もう! あの子は最後の最後まで!