第78話 黒い子猫と物置部屋
「善は急げ」、これもマッチョから教わった東洋の言葉だ。
俺は、あの少女の名前を知りたい。それだけでも新聞部に足を運ぶには十分過ぎる動機だ。
マッチョに礼を言って休憩所を後にした俺は、汗も拭う時間も惜しく訓練用の軽装備から学院の制服に着替えて、地下訓練施設の入口へと向かった。
荷馬車が優に一台通れるほどに広い廊下を、部活やら訓練やら補習やら恋愛やら、何かしらの事情で訓練所に残っていた連中が、学生寮に帰って行く。
いつもなら風呂で汗を流してから夕飯にありつく為に食堂に向かう時間だが、いまの俺には風呂よりも飯よりも新聞部だ。全く俺は、どうしちまったんだろう。頭ン中が彼女の事でいっぱいだ。
焦りにも似た気持ちに、廊下を渡る歩調が自然と早足になる。
新聞部の部室ある場所は、学院の生徒なら知らない者はいないだろう。なんせ「地下」で力尽きた生徒の遺体安置所の隣が部室だ。
新聞部の部長は「すらっとしたメリハリ」な獣人族の女生徒らしいが、遺体が転がっている部屋の隣りで新聞作ってるなんて、一体どんな人物なんだ?
新聞部に向かう途中、地下訓練施設から引き上げてきた顔見知りのパーティとすれ違った。皆、一様に疲れているようだったが表情は明るい。
パーティの人数と安否を確認してから先頭を歩く戦士科の同期に声をかけた。ガサツな野郎が多い戦士科にしては、妙に礼儀正しい奴なので良く覚えている。
「よう、お疲れさん。地下はどうだった?」
「君か。地下三階の梯子を降りたところまで行きましたよ」
使い込まれた鎖帷子をガチャガチャ鳴らしながら、同期の戦士が手甲を装着した右拳を向けてきた。こいつが、このパーティのリーダーだ。
「へえ、地下三階か、凄いな。俺たちは、まだ地下二階が限界だ」
差し出された手甲に、軽く握った拳をコツリと合わせた。総合戦闘科の挨拶みたいなもんだ。
「で、地下三階って、どんなだった?」
「先輩たちから聞いていた通り、洞窟のような作りでしたよ。地下二階とは雰囲気が随分と変わる」
「敵は、モンスターは強かったか? どんなん出た? いよいよ悪魔族とか、巨人族とか?」
「いや、悪魔のような巨大蛙の大群に追われましてね……」
鎖帷子の戦士が後続のパーティを振り返る。全員、げんなりした顔で頷いた。
「化物カエルの大群か……そりゃ大変だ」
「妙な泣き声で仲間を呼んで、切れど倒せどキリが無い。回復の神聖術が切れた時点で撤退しました」
戦士の後ろにいた修道女のような雰囲気の女の子が「カエル嫌いなの」と声を上げた。
「ほら、『地上に帰るまでが訓練です』って貼紙があったじゃないか。撤退は冷静な判断だよ」
フォローのつもりだが半分は本心だ。生き残って何度でも挑戦すれば良いんだ。
別れの挨拶を告げて、彼らが歩いて来た廊下の先へ向かおうとすると、リーダー格の戦士が怪訝な顔をして振り返った。
「君、こんな時間に一人で地下に行くのか?」
「いやいやいや、そんな事したら新聞の一面記事になっちまう。この先の新聞部に用があるんだ」
「新聞部に? あぁ、あの元物置部屋の」
新聞部の部室は、元物置だったのか。何だか不安になってきた。メリハリ獣人族の女部長とは、一体どんな獣がベースの女なんだ。
「ちょっと調べたい事があってね。ところでさ、今度、学院の外でメシでも食わないか」
「えぇ、喜んで。お互い生き残っていたら是非」
「ははっ、悪い冗談だぞ。じゃあ、またな」
俺が軽く片手を上げると、奴は舞台役者みたいな爽やかな笑みを浮かべて手を振った。
ちと気取った感じがするが、気持ちの良い男だ。ウチのパーティの筋肉リーダーとは、また違うタイプの司令塔だな。奴ならどんな厳しい状況にも冷静に対処するだろう。一度ゆっくり話をしてみたいもんだ。
俺は幸いなことに遺体安置所、通称「虹の部屋」に入ったことは無い。今後も入らないに越したことは無い。
訓練中に、不幸にも命を落とした者の遺体を一時的に保管する部屋は、その使用目的から地下訓練施設入口に程近い。今まで意識的に「虹の部屋」を目にしないようにしていたので、元物置部屋の扉をまともに見るのは、これが初めてだ。
見るからに安っぽい合板の扉に釘打たれた「*物置*」と彫られた木のプレートの下には「*学院新聞部*」と仰々しい文字が並んだ手書きの貼紙が画鋲で打ち付けてある。
奇妙なことに扉にはドアノブが付いていなかった。どうやって中に入るんだ? もしかして、入室するには特別なアイテムや合言葉でも必要なのか?
ちょっと悩んだが、扉の左側に手を掛ける窪みを見つけ、この扉が引き戸だという事に気が付いた。そうか、本当に元物置だったんだな。
いくら元物置の扉とはいえ、いきなり開けるのは失礼だと思い、扉を軽くノックしてみる。扉は、「コツコツ」どころか「ガタガタ」と揺れた。これは扉なんて上等なモンじゃなくて、立て掛けただけの板じゃないか?
「新聞部に何か御用ですか?」
背後からの声に慌てて振り向いた。これほど簡単に後ろを取られたのは久しぶりだ。
地下での実戦訓練では、とにかく背後からの奇襲、すなわちバックアタックに神経を尖らせている。下手すりゃ反撃どころか防御も出来ないまま全滅しかねないからだ。
「驚かせてしまったようですね。失礼しました」
盗賊科のピッタリとした女子用制服に身を包んだ少女が、ペコリと頭を下げる。
猫人族か? 真っ黒な髪に埋れた尖った耳がピクリと動いたように見えた。
「あぁ、いや、こちらこそ。俺、新聞部の部長さんに用があって……」
この猫人族の少女が「すらっとしたメリハリ」か? 「すらっ」というよりも少年の様に「ぺたっ」とした薄い身体は、「メリッ」とも「ハリッ」ともしていない。
「あのぅ、君が新聞部の部長さん?」
どうも俺が抱いていたイメージとはギャップが激しい。マッチョにからかわれたのか? あいつ、俺のことをロリコンだと決め付けていやがるが、俺は断じて少女趣味では無い。どちらかといえば歳上よりは歳下が好みなだけだ。
しかし、目の前の猫耳少女は結構なハイレベル美少女だ。マッチョを見習って人間族以外も要チェックだな。人形の様な整った小さな顔に小さな身体に小さな手に小さな……
「すいません。あまり凝視しないで下さい」
「見てない! 俺はロリコンじゃない!」
「あの……誰もそんな事、言っていません」
口が滑った。考えていた事が思わず口に出てしまった。
猫耳少女の視線が途端に険しくなる。長い尻尾が鞭のようにしなった。
「ち、違うんだ。ちょっと女の子の事が知りたくて、教えて貰いたいな、って」
あれ? 何だか間違った事を言った気がする。いや、間違ってはいないが、誤解を招くような事を言った気がする。
「嘘……変態って実在したんだ」
視線を逸らさずに後ずさる姿は、路地裏で見かける野良猫と同じ動きだ。
「頼む、待ってくれ。誤解なんだ」
「どうしよう」
「え?」
「変態……怖い……でも、興味深い」
「あの、俺、変態じゃないです」
「ねえ、変態さん。インタビューに応えてくれませんか?」
「だから、俺は変態じゃないって」
猫じゃらしを前にした子猫のように、無表情なクセして、興味津々な瞳が俺を見つめている。
なんとか話は出来そうだが、妙な流れになってきやがった。
***
「はい。紅茶をどうぞ」
茶渋の染み付いたティーカップが、新聞の束が積み重なったテーブルの僅かな余白に置かれた。
「あのぅ……大変ありがたいのですが、これでは飲めないです」
目の高さに不自由な両手を掲げてみせた。俺の両手首は縄で何重にも巻かれていた。
「ストローでも用意しましょうか?」
「どこの世界にストローで熱々の紅茶を飲む奴がいるんだよ」
「でも、その縄で拘束しないと、安心して会話が出来ません」
確かに拘束を受け入れたのは俺だ。こうなったら速やかに情報を得て、この元物置から退去したい。そして、早々にこの猫耳の前から撤退したい。
天井に吊り下げられたランタンの明かりだけが頼りの薄暗くて狭苦しい部屋の中は、例えて言うなら強盗に荒らされた文房具屋の有様だ。大量のペンやら紙やらインクやら綴じた書類の束やらが所狭しと散乱している。俺と少女が相対するテーブルの周りと、出入り口に通じる部分だけに道が出来ていた。
「それで、貴方はいつ頃から変態を始められたのでしょうか」
「いつ頃からって……それに、変態ってのは始めるんじゃなくて、目覚めるモンじゃないのか?」
「なるほど、『変態とは目覚めるもの』なのですね。それは天啓のように降りてくるのですか? それとも悟りのように啓くのでしょうか? 具体的にお願いします」
少女は、俺に向かって質問しているクセに、俺には目もくれずに手帳にペンを走らせる。
「ちょっと待ってくれ。俺の話も聞いてくれ、部長さん」
「……部長? あぁ、何か思い違いをされてますね。申し遅れました。私はエレクトラ、新聞部の副部長です」
やっぱりな。「すらっとメリハリ」の新聞部部長と、このエレクトラという「ぺたっとペタンコ」な少女は別人だったか。
「そうか。じゃあ聞いてくれ、エレクトラ。言っておくが、俺は極めてノーマルだ。君が期待するようなネタは持っていない」
「またまた。ご謙遜を」
「謙遜? ……あのなあ、俺は一点の曇りも無いような立派な人間じゃないけどな、新聞記事になるような変態でもない」
「ほほう。新聞記事になるような変態とは、一体どのような変態でしょうか? 具体的にお願いします」
「そんなこと俺が知るか!」
一体、何なんだ、こいつは! 完全に俺を変態と決め付けていやがる……いや、待てよ。これは戦いだ。心理戦だ。マッチョは言っていた。「敵を知り、己を知る」だ。
「なあ、エレクトラ。何で俺について知りたいんだ?」
「私は新聞部の副部長であり、一人の記者です。私は常に情報を集めたいのです」
無表情に俺を見る瞳は観察者のそれだ。……そうか、俺を怒らせて本音を聞き出すつもりだな。その手にゃ乗らん。俺は、人を怒らせたり、からかったりして自分のペースに持ち込むのが得意な人間を知っている。俺の婆ちゃんだ。
「俺は、ある女子生徒の情報を知りたくて新聞部に来たんだ」
「先ほど貴方は言いましたね。『ちょっと、女の子の事が知りたくて』と。大変に変態な問題のある発言です」
くっ……だが、その手には乗らん。こいつの手の内は分かった。「敵を知り」、次は「己を知る」だ。自分を知る? どうやって?
――――それこそ人に聞くもんじゃないぜ。自分で良く考えるんだ
何だ、簡単なことじゃないか。助かったよ、マッチョ。
「俺には好きな女の子がいる。だけど、その子の名前も知らないんだ」
手帳を書き込むペンが止まった。エレクトラは驚いた顔をして俺を見る。
「彼女の好きなタイプも、嫌いなタイプも、好きな食べ物も、苦手な食べ物も」
知り合ったばかりの女の子を相手に、恋愛相談をするとは思わなかった。
「歳上なのか歳下なのかも、そもそも歳が幾つなのかも、とにかく俺は、彼女の何も知らないんだ」
新聞記者は手帳をテーブルに置き、じいっと、こちらを見つめている。小さな花びらのような唇が、何か言いたそうに動いたが、俺は気にせず続けた。
「女の子のことを嗅ぎまわるなんて、褒められたモンじゃ無いのは分かっている。俺は見た目もパッとしないし、頭も良くない。口を開けば、さっきみたいに誤解されてばっかりだ」
俺の目を真っ直ぐに貫くエレクトラの視線は、物理的なダメージを感じさせるほど鋭い。いつもの俺なら、軽口でも叩いて視線から逃げだしている頃だ。でも、いまは逃げる訳にはいかない。変態だろうがストーカーだろうが、何とでも思え。
「彼女に告白したって上手くいく自信も無い。でも、知りたいんだ。話してみたいんだ。笑った顔を見てみたいんだ」
これが俺の本心なんだ。