第68話 悲しい重さ
不意に背中を襲った衝撃に受け身を取る余裕があるはずも無く、奇妙な浮遊感を一瞬だけ味わった俺は、不完全な受け身で衝撃を殺したものの、すぐには立ち上がれずに片膝を突いた。まるで灰色熊の強烈なタックルを喰らったような気分だ。勿論、熊と闘った事など無いが。
「くそっ、なんなんだ!?」
全身芝まみれになりながら、未だ焦点が定まらない目で少年の姿を追うと、炎を纏ったような少年の姿が夕闇に浮かんでいた。そして、その赤毛の少年に対峙する存在が目に入る。そいつは動物園から脱走してきた猛獣などでは無く、メイド服を着た華奢な少女の後ろ姿だった……あれはウチにいた錬金人形か?
その両手に持つのは、お玉とフライパン? そういえば、宅配便の持って来た箱の中に箒と一緒に入っていたような気がする。
ジワジワと間を詰める人形。
ジリジリと後ずさる少年。
「姉さん! 錬金人形を停止させて! 助け――」
少年は、凄まじい勢いで振り下ろされたフライパンを、燃え上がる鋼鉄の腕で辛うじて防ぎきったが、間髪入れずに見事なスイングで振り抜いたお玉が、無情にも少年の側頭部をクリティカルにヒットした!!
少年の首がスッ飛ぶほどの鋭いスイングに目を見張る。あまりに見事な振り抜きっぽりに、カポーン! と、軽快な音が聴こえた気すらした。
「ひどいや、姉さん……」
恨めしい呟きを口にして少年は意識を失ったようだ。同時に炎も消えて、鋼鉄の右腕に腕輪の様な物が巻きつく。それは「錬金仕掛けの腕」の装飾のようにも見えた。
ぐったりした少年を担いだ錬金人形が、全く重さを感じさせない歩調でこちらに向かって真っ直ぐに歩いて来る。
瞬きをしない瞳がこちらを見据える。俺は何ともいたたまれない気持ちになって背後を振り返った。
眼鏡のブリッジを指で押し上げる仕草。飾り気の無いワンピースタイプの錬金術科の制服。パフスリーブから伸びる細い腕。短いスカートに入ったスリットから覗く形の良い脚。
錬金術科の制服はそんなセクシー仕様では無いはずだ。それ、改造制服だろ? ルルティア。
「お前、弟がいたのか?」
俺の質問には答えず、ルルティアは銀の腕輪を嵌めた腕を差し出して錬金人形に指示を出した。
錬金仕掛けの少女は、少年を肩に担いだまま、茫洋と命令を聞いている様に見えた。
「シンを連れて研究室に戻りなさい」
「それは・御命令・ですか?」
「そう。研究室に戻りなさい」
錬金人形は逞しい人足のように少年を担ぎ直し、可愛らしい野兎のように軽快に魔導院の方向へ駆けていった。俺はその姿が小さくなるまで見送ってから、ルルティアに向き直った。
「おい、洗いざらい話してもらうぞ」
何も聞かずに帰す訳にはいかない。マスターを含め、多くの人が命を失い傷ついたんだ。俺の言葉にすぐには答えず、ルルティアは剥き出しの肩を抱き締めるようにして俺を見た。
「ねぇ、寒いんだけど」
「この時期に、そんなカッコしてりゃ寒いだろうよ」
「鈍感ね。外套を返してよ」
「あ? あぁ、そうだったな。悪い」
俺は慌てて外套を脱いでルルティアに渡そうとした。彼女は背を向けて、軽く両腕を広げて爪先立ちになる。
「着せて」
「お前、何様だ?」
不承不承にルルティアの背後に回り、その細い肩に外套を掛けた。そして、外套の中に巻き込まれたアッシュブラウンの髪を優しく掴みだす。俺の手の中で遊ぶ真っ直ぐな髪。
ルルティアは所々が焼け焦げてしまった外套を身に纏い、両手で自分の肩を抱きしめた。
「臭い」
「く、臭いとか言うな!」
「違う。焦げ臭い」
「あぁ、さっきまで散々、炎に炙られていたからな。で、あの小僧は何者だ? お前、弟がいたのか?」
「疲れた。ベンチで話しましょう」
ルルティアは公園のベンチを指差した。外套の袖から覗く銀の腕輪。
それを眺めながらルルティアに聞いた。
「なぁ、その腕輪はどうしたんだ?」
「彼氏気取り? 私が身に付けている物が、そんなに気になるの?」
「姉弟揃って自意識過剰なのは血か?」
「あの子は弟じゃないわ。私を姉だと思い込んでいるみたい」
ベンチまで歩く道すがら、彼女は空を見上げた。
釣られて薄暗くなってきた空を仰いだ。黒煙は収まりつつあるようだ。
「どういう意味だ。実の弟じゃ無いのか」
「掃除部隊が『地下』から救出して来たの。錬金手術の影響なのかは分からないけど、記憶の殆どを失っていて……」
「そうか、気の毒な奴だな」
喜びも悲しみも記憶があってこそだ。記憶が無いという事は、自分の存在を危うくするだろう。あの少年の余裕の無さは、それが原因かも知れない。
「右腕に酷い火傷を負っていて、可哀そうだけど錬金手術を施すしか無かったわ。彼に残されたのは、あやふやな姉の記憶と魔術の心得、それと『シンナバル』って単語だけ」
「シンナバル? シンナバルと言ったか?」
「そう。それだけ。それでディミータが『シン』って名付けたの。私たちが彼に与えたのは、鋼鉄の腕と新しい名前、それから偽りの姉」
まさか「辰砂の杖」か? 少年の右腕に巻きついた炎の鞭は呪物であることは間違いない。あれは「英雄遺物」だというのか?
六英雄の一人、赤き魔女の英雄遺物「辰砂の杖」は、その存在自体が疑われている。赤き魔女が杖を使っていた記述が殆ど無いからだ。だが、炎の魔術を得意とした魔女の右腕には、常に炎が渦巻いていたと伝えられている。
赤き魔女は奸計に嵌り、幼い子供と共に横死を遂げた伝説にある。それが原因で御先祖は、己の魂を供物に捧げ「鋼玉石の剣」を作り上げた。では「辰砂の杖」とは何だ? それは偉大な英雄、「赤き魔女」の生んだ呪物なのかも知れない。
「でもね、シンって結構、可愛いのよ。何でも言う事聞いてくれるし」
「何だかヤツが気の毒な目に遭わされているような気がする」
「そんなことは無いわ。買い物に行って貰ったり、掃除して貰ったり、洗濯して貰ったり、ご飯作って貰ったり、肩を揉んで貰ったり、マニキュア塗って貰ったり、それからね」
「ああ、相当に気の毒な目に遭っているのを理解した」
ルルティアが先にベンチに座ったのを見計らってから、俺も腰を降ろした。このベンチに座るのは久しぶりだ。血の海に浮かぶ筏。
――――痛みを分かち合えよ。傷を舐め合えよ。お前らは似た者同士だろ?
俺とルルティアは似た者同士なのか?
筏に乗り合わせて血の海を渡る二人の漂流者。馬鹿な事を考えた。
「ねえ、私、疲れちゃった。寄り掛かって良い?」
「あぁ、別に構わないが……」
どうにも調子が狂う。何だか今日のルルティアは妙にしおらしい。
「教えてくれ。燃やされた女は誰だ」
「錬金術科の院生よ。魔炎晶石を使って放火を繰り返していたと聞いたわ。ディミータの調査で、その院生が呪物に飲まれたと分かったのは昨日だったけど」
「それでアイザック博士が手を打ったのか」
アイザック博士は、表向きは錬金術科の教授にして清掃局の顧問だが、裏の顔は特務機関「錬金術の騎士団」の総轄だ。
魔炎晶石を使った放火魔が錬金術科の院生では体面が悪過ぎる。風紀委員会に捕まる前に消した訳だ。あのオッサンは大層な切れ者だが、手段を選ばない危険な男だ。
「簡単な仕事だからって、経験の少ないシンに出動命令が下ったの」
アイザック博士は、赤毛の少年の「呪物破壊」の能力を知っていたのだろうか。博士は「魔導院にとって都合の悪いモノ」を「掃除」する特務機関の長だ。魔導院に避難命令まで出させ、証拠も残さず焼却するくらいお手の物だという事か。
「お前は、あんな時間に何をしていた? 錬金人形を引き取りにくるのは夜の約束だったはずだ」
「火災が発生した直後にシンに出動命令が下ったの。あの子は実績を挙げたがっていたわ。確実に任務を遂行すると思った」
俺の肩に頭を寄せてルルティアは話を続ける。彼女は何度か乾いた咳をしたが、咳き込むのはルルティアの癖のようなものだ。
「それで、呪物に飲まれた院生を貴方に何とかしてもらおうと思ったの。昔、私を助けてくれたみたいに」
俺はその頃、エフェメラとチーズケーキを突ついていた訳だ。マスターを含め、どれくらいの被害者が出たのだろう。また一つ後悔を重ねた。
「火元は必ずゴミ箱からだったわ。だから、あの時、ゴミ箱を調べて回っていたの」
「何故、すぐに説明してくれなかったんだ」
「あなた、本当に鈍感ね」
ルルティアは目に涙を浮かべながら、俺の顔を睨みつける。彼女は頭が良すぎるせいか感情を表現するのが上手くない。普段の澄ました態度は本当の自分を隠す仮面だろう。
「頼みの貴方は留守。放火に使われたのは、私の作った魔炎晶石。また放火されないか調べて回っていたの」
「済まない。お前の気持ちを考えていなかった」
少し冷えてきた。面積の少ないワンピースの上に外套だけでは寒いだろう。
「そうか。火から身を護る為に、その外套を着ていたんだな。なんでそんなモン着ているのかと思ったんだ」
「これはね、消防団の装備として開発したのだけれど、学院都市は火災が少ないからって採用されなかったの。役に立つとはね」
「あぁ、お陰で助かった。錬金外套が無ければ、恐らく二回は死んでたよ」
「貴方が無事で良かった」
喫茶店の火事が鎮火したのか、少年が帰還して魔導院の避難命令が解かれたのか、通りに人の姿が戻り始めた。
物悲しいサイレンが学院都市に響き渡る。ノイズ混じりのサイレンは火事の終わりを告げる鎮火報だろうか。
「錬金人形はどうして外に出てこれた? 店の扉は、あいつが壊したのか?」
ルルティアは右腕を突き出した。細い手首を飾るシンプルな銀の腕輪。
「これは遠隔操作機器。魔陽灯に使われている魔陽石を中継点に利用して命令が出せるの」
「それで店内から錬金人形を呼び出せたのか。しかし、大した破壊力だな」
壊れた扉に感じた違和感はそれが原因だ。壊れた扉の破片は店の外に飛び散っていた。外から壊したのなら、店内に破片が残っていたはずだ。
「喫茶店の前で犯人の院生を見つけて、問い詰めたのだけど、結局逃げられて。追いかけているうちにシンが動いた。私の能力では彼を止められない」
「あの錬金人形は戦闘用に作られていたのか? 人型掃除機じゃなかったのか?」
気配の無い錬金人形は隠密活動には最適だろう。そして、あの戦闘能力。真っ当に戦ったら、俺では勝てないかも知れない。
「私は『錬金術の騎士団』がキライ。錬金術は殺人の為に使うべきでは無いと思う。だから錬金人形を研究しているの。戦闘用錬金人形『琺瑯質の瞳の乙女』よ」
「どうあろうが結果は同じだ。『錬金術の騎士団』の代わりに錬金人形が働くだけだ。ルルティア、何が目的だ? 何を考えている?」
俺はルルティアの顔を覗き込んだ。アッシュブルーの瞳の奥には何を隠している?
ルルティアは深い溜息を吐いた。それから口に手を当て、軽く咳をした。
「まだ教えない。でも、貴方もきっと気に入ってくれる。貴方は『本当の私』と似た者同士だから」
「俺の目的はただ一つ、呪物の破壊だけだ。お前が何を企んでいようが、これっぽっちだって興味は無い。だが一つだけ教えてくれよ」
「なあに? 私、もう話し疲れちゃった」
「あの人形のモデルは誰だ? 俺はあの女を知っていると思う」
ルルティアの瞳が大きく見開かれた。それを合図のように激しく咳き込み始める。彼女は、崩れ落ちるようにベンチから転げ落ち、芝生の上に倒れ込んだ。
「ルルティア? おい、ルルティア! しっかりしろ!」
俺は慌ててルルティアの身体を抱きかかえた。色を失った唇の端には、泡状の鮮やかな血液が貼り付いていた。
折れそうに細い首筋に手を差し入れた。酷い高熱だ。俺は本当に最低の大馬鹿野郎だ。彼女の手を握ったときに感じた異様な冷たさを、もっと気にするべきだった。
弱々しく咳き込み続けるルルティアの身体を抱え上げて、魔導院に向かって走りだした。
「こんなに軽かったんだな……」
あまりにも軽い彼女の身体は、とても悲しい重さに思えた。




